次代の確立

 世界恐慌による不況により混迷している世界情勢。自国内の不況と混乱を治めようとアメリカではニューディール政策を正式に成立させ、ドイツではヒトラーが率いるナチ党が政権を獲得してからドイツ国内の権力を確立していた。


 そんな1933年の頃。日本では東北で三陸地方大地震とその地殻変動に伴う津波という天災にこそ見舞われたものの、史実にあったような関東軍の暴走や国際連盟脱退等の大きなニュースなどはないままに、年末に予定されている皇子の誕生を心待ちにするくらいのほのぼのとした空気が醸成されていた。

 そんな中、壱心はこの落ち着いた空気が不況の中での閉塞感によって齎された活気のなさから生まれた抑圧された空気で、これから暴発する前の嵐の前の静けさではないのかなどと精神的には落ち着かない日々を送っていた。

 この精神的に落ち着かない日々というのは壱心が史実を知っているからということもあるが、何より鉄心に香月組の仕事の大半を任せられるようになって肉体的には暇になり始めたことが大きな要因であった。


 そんな落ち着かない壱心の下に桜と亜美がやって来た。そして彼女たちは昨日の昼から今日の朝までに起きた主だった出来事をまとめた情報紙を壱心に渡す。その紙面を受け取って壱心は桜からの説明を聞き始めた。この日はちょうど内政会議の翌日で壱心への報告も多くなっていた。


「租税減免と追加予算も通せる見通しが立ったか。鉄心も順調に成長したな」


 鉄心の働きとその成果を目と耳で確かめた壱心は頷いた。三陸地方大地震への対応策は壱心たちから意見を出すことなく鉄心と現在の政府首脳部によって処理された。香月組の裏事業の引継ぎに続き、様々な分野での引継ぎが順調に進んでいる。壱心が息子の成長に満足していると鉄心の母である亜美も誇らしげに頷いていた。


「そうですね。誇らしい限りです」

「全く、お前たちと家族になれたのは僥倖だったよ」

「こちらこそ。お手伝い出来て幸いです」


 壱心の稀にある感謝期かなと思いながらお礼の言葉を返しておく亜美。壱心は亜美に礼を受け取って貰ったのを確認すると机の引き出しから書類を取り出して亜美に手渡した。亜美はそれに見覚えがあった。それも当然で、この論文は自分で書いた合成繊維、アミノランの工業化についての論文だからだ。


「もう読んでくださったんですか? ありがとうございます」


 少しめくり、赤字で色々と書き込まれている文章を見て礼を言う亜美。そんな彼女に壱心は告げる。


「少し添削しておいたが基本的にはいいと思ったぞ?」

「ありがとうございます。後は、英文にするだけですね」


 亜美の論文、アミノラン……史実ではアメリカの巨大化学メーカーが開発し、後にナイロンと呼ばれることになる世界初の石油から作られた完全人工合成繊維の工業化に関する論文を亜美に返した壱心は亜美の言葉に頷く。そんな彼の耳に桜のくすくすという笑い声が届いた。


「どうした桜? また何か悪戯でも思いついたか?」

「いえ、一昨年のことを思い出しただけです。亜美さんがポリエステルの開発に成功した時の報告のことを」

「……あぁ、あの時の」


 思い出すのに少しだけ時間がかかったが、何とか思い出せた壱心。世界恐慌の中で喘ぎ苦しんでいる日本の繊維産業の首を更に締める行為をすると言って来た桜に少し文句を入れた話だ。亜美はその時も西新で忙しくしていたが、その後で壱心から愚痴を聞いたので知っていた。そう言えばその件に関して何も言っていなかったなと思い出した亜美は桜に苦情を入れた。


「全く、私が適正技術を大幅に超過する事なんて」

「飛行機」

「クメン法」

「困らない範囲でしかしませんよ」


 異口同音とまではいかなかったが、即座に論破されて方向転換する亜美だった。その様子がおかしかったのか桜がまたくすくすと笑う。それを聞いて微妙にいじけた雰囲気を出す妻をフォローする形で壱心は桜に言った。


「……まぁ、でもこの話に限っては亜美に非があるとは言えんな。真顔で冗談とは思えないことを言ってきたのは桜だ」

「壱心様が生返事だったのが悪いんですよ」

「話はちゃんと聞いていた」

「そうは見えませんでしたので確認したまでです」


 自分に非はないと主張する桜。頑固な奴だと壱心は苦笑する。そんな感じで与太話や世間話をしていると執務室の扉がノックされた。


「あぁ、開いている」

「失礼します」


 入って来たのは涼し気な目をした美女だった。彼女とその後ろに続いて入って来た咲夜を見て壱心は用件を聞く。


「どうした?」


 壱心の問いに答えたのは咲夜だった。


「はい。この度、引継ぎが終わりましたので後任をこの美咲に任せようかと」

「……そうか」

「今まで重用いただき、ありがとうございました。まだ2年程は嘱託として働かせていただくつもりですが、一応区切りとしてご報告させていただきます。美咲」


 美咲と呼んだ美女を前に出して咲夜は後ろに控える。今年で20歳になった美咲という女性は5尺3寸ほどの背丈をしており当時の女性としては大柄で、文武両道の才女として壱心のお付きに推薦されていた。

 具体的な才能として、文武の文では特に語学力に秀でており、日本語の他に英語、中国語、ロシア語をマスターしている。武の方では香月組の門下である薫風堂の並み居る塾生たちによって開かれる総合格闘技大会の男女混合の部で優勝。敵を倒すことへの執念に関しては全盛期の咲夜を超えるとも言われている美女だ。


 そんな彼女は堂々とした態度で壱心の前に出て恭しく頭を下げる。


「明日で咲夜さんが40歳の誕生日を迎えるに当たって引継ぎを終えました。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます」

「あぁ、よろしく頼む」


 壱心が長ったらしい話を嫌うことを理解しての短い挨拶。壱心はそれを気にせずに美咲の前に出て手を差し出し、握手して席に戻る。それを見て一拍置いてから亜美が口を開いた。


「……それにしても咲夜ももう四十ですか」

「お恥ずかしながら」


 何とも言えない顔で咲夜はそう答えた。自分の倍以上の時を生きているはずの女性に「大きくなったね」と語りかけられているのだが、そう言ってくる相手はどう見ても20代にしか見えないのだ。微妙な面持ちになってしまうのも仕方なかった。ただ、それはそれとして切り替えて彼女は現況を自ら語り始める。


「この年になると動きが鈍くなり始め、身辺警護の任が難しくなってきたので引退を決意しました。ただ、壱心様の米寿祝いを見届けてから身を引かせていただきたく、今回のような日程にさせていただきました」

「……咲がいなくなってから、22年。公儀隠密として生まれて来てから訓練を続けて40年か。随分と助けられてきた。感謝する」


 しみじみとそう告げる壱心。半生をかけて自分の活動をサポートしてくれたのだ。それくらい罰は当たらない。しかし、咲夜はそんな彼に謙遜してみせる。


「いえいえ、私が生まれる以前より国のために尽力している壱心様に仰られるとむずがゆくなります」

「まぁ、そう言うな。隠居後にやりたいことはあるか? 聞いた話だと結婚して夫と小料理屋を開きたいとのことだが……それくらいでいいのか? 出来る限り、便宜は図らせてもらうが」


 咲夜の謙遜を宥めてこれまでの褒美に何か欲しいものはないか尋ねる壱心。そんな彼に咲夜は微笑みを浮かべて否定する。


「ふふ、大丈夫ですよ。しっかりお給金はいただいています。それに、こういうのは自分たちで計画を立てることが楽しいんですから」

「そうか……まぁなんだ。咲はあぁだったが、縁を切るつもりはないからな。何かあったら連絡するようにしてくれ」

「ふふ、気が早いですよ。まだ後2年あります。それまで美咲がしっかりしていることを確かめたり色々あります。何かありましたらご連絡させていただきますので、これからもよろしくお願いします」


 深々と頭を下げる咲夜。壱心はこれからの明るい未来を思い描いている身近な人の姿を見て、この国もまた明るい未来へと歩むことが出来るように努力しよう心に再度誓うのだった。



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