不穏な気配
1932年夏。史実では春先に関東軍の暴走による満州国の建国や井上日召らによる井上準之助前蔵相や団琢磨三井理事長の暗殺事件である血盟団事件が起き、初夏の頃には海軍青年将校によって犬養毅首相が暗殺される五一五事件が発生するなど暴走とテロリズムにまみれていた年。
「よしよし。何とか耳を塞ぎたくなるような報告ではなくなりつつあるな」
「ご期待に添えて幸甚の至りです」
壱心は福岡にある本宅で桜と穏やかな日常を過ごしていた。国内でテロがなかったことと、不穏分子がいてもそれらが活発に動く前に鎮静化することが出来たこと。
そして史実と同様に円の切り下げを背景とした輸出増により、世界に先んじて日本が世界恐慌から脱出しつつあることが彼の日常を余裕あるものにしていた。
「よかったですね。円の切り下げが上手く行って」
「なかなか下がらないときはどうなることかと思ったが……金に裏打ちされてない円でもあそこまで持つとは思って居なかった」
「ここで政情不安まで重なると過度な円安になるかと思いましたが……」
「広田、石橋はよくやってくれたよ」
香月組の現役政治家の名を挙げて功を労う壱心。先の広田弘毅内閣が倒閣した後の選挙では統帥権干犯問題の責任を追及してきた犬養毅を筆頭とした立憲政友会の猛追を躱し、大連立になったとはいえ、立憲護国党の石橋信康に組閣命令が下っていた。
これにより、日本経済はある程度安定するだろうという見込みが立つことにより経済も落ち着きを見せていた。
「さて……政策自体は上手く行ったが、今後どうなるかが問題だな」
円の切り下げは上手く行った。輸出力強化にはつながるだろう。しかし、貿易する予定の相手国もブロック経済圏を構築して関税を高くすることで安価な輸入品に抵抗して需要を漏らさないようにしているため、政策が上手く行っても問題解決とはならなかった。
「イギリスはスターリング=ブロックで本国、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランド、英領インド、香港、アデンと広大な範囲でブロック経済圏を構築。フランスはフラン=ブロックでそれに追随。アメリカがドル=ブロックと来年辺りにニューディール政策を実施して対応か……ドイツやイタリアも頑張ってはいるが、まぁ上手く行くのはイギリスとアメリカぐらいなものだろうな」
「アメリカのブロック経済が上手く行けば日本は困りますね……」
史実でもこの世界線でも日本の輸出先として最大手を担うのはアメリカだ。しかもこの世界線では史実でアメリカから購入していたような石油、鉄、工作機器、綿花などの半分以上を日本国内、もしくは中国品や朝鮮品などで賄っていたため激しい貿易摩擦を生む形での貿易を行ってしまっていた。そのため、アメリカは日本に対し不況を生み出した元凶と言わんばかりの凄まじい反発をしており、多少安い程度の日本品では買ってもらえないだろう。難しい商売を強いられることになる。
「まぁ、仕方ない。こんな状況でも立っていられるように日本を強くしたんだ。欲を言えば山東省の一部開発権を貰えれば更に色々と出来るんだが……」
「……北京政府もこれ以上民心が離れていくことは出来ないと言ってます」
「豊かにしてやれるんだがな」
「それとこれとは別ですよ。それに、あまりにも日本側が……というより、壱心様が交渉を諦めないことから何かあるのではないかと北京政府だけでなく中国の民間でも調査と開発を進めようとしていますよ?」
世界相手でも名を通せる財閥となっている香月組の名は当然、中国にも知れ渡っている。日清戦争後は侵略者として中国内で嫌われていた壱心だが、日露戦争の英雄、また数々の歴史的な発明をすることで世界的に壱心が有名になると中国でもかなりの評価が下されるようになっていた。
あの香月壱心が山東省で現在開発中の国家事業以外に何かするつもりらしい。その情報だけで中国の資産家が動くに値した。彼らは今、血眼になってその情報の真偽を確かめ、どうにか出し抜こうと躍起になっていることだろう。
「民間で開発か。まぁ、今の中国の技術では油田開発は出来ないだろうが……将来的に考えるとあまりよくはないな」
「……彼らが開発できるようになる頃には世界大戦も終わり、日本も安価な輸入先に頼ることになると思いますが」
「敵になり得る相手だ。資源は出来る限り搾り取りたい。それに、山東油田は満州のよりも質がいい。見つけさえすれば思いの外早く開発される可能性もある。
それ以外にも近場の方がシーレーンの防衛費や輸送費がかからず、それらを込みで考えると中東から輸入するよりもいいかもしれん」
壱心が可能性の話をすると桜は少し考えこむ。石油開発において、日本は世界から抜きん出た技術を持っている。それは亜美の知と現場の汗、そして技術者の涙の結晶を磨き上げたことで出来上がっていた。この技術があることで日本は世界の石油業界を牛耳る英米のセブンシスターズに対して満州油田を守りながら表向きの国際協調という路線を取ることが出来ていた。
尤も、現在の世界恐慌という殺伐とした環境はあまりに技術を独占している香月組に対して反香月組運動を起こす機運ともなっているが、それは会社を分割することで何とかするつもりだったりする。
そこまで考えたところで桜は話が飛んだと軌道を修正する。
「中東、ですか。今はイギリスとフランスが牛耳っていますが……」
「そうだな。第一次世界大戦後に利権に絡もうかとも思ったが、距離がある上、国際協調をアピールするために諦めた場所だ。まぁ、あの辺りに絡むのは第二次世界大戦が終わった後だから今は気にしなくていい」
「……どの道、香月物産と香月化学工業を分割させて開発するのでしたら先んじて手を打っておいても良いかと思うのですが」
壱心が今は気にしなくてもいいと切り捨てた問題に対し、桜は今だからこそ切り込むべきではないかと疑問を呈す。壱心は苦笑して答えた。
「桜、お前が以前言ったことじゃないか。あまり前を向き過ぎて足元を疎かにしてはならないと。今、動いたところで第二次世界大戦で滅茶苦茶にされる。ようやく国内情勢がマシになってきたところだ。しばらくは今あるものを強化して耐え忍びながら荒れ狂う情勢に対処する。その方針に変わりはない」
「方針はわかりました……ですが、1つだけ」
「何だ?」
「利光さんがこの不景気をどうにかしようとして独自に陰で色々と動こうとしているらしいです」
いいことではないか。壱心はそう思った。だが、桜は心配そうな顔で告げる。
「不況打破のために広く意見を募っており、その中には壱心様の方針とは異なる考えを持つ方が一定数いるようでして、現状の持ち札を強化するだけでは対策が不足しているという者が……」
「まぁ、いいんじゃないか? 全員が同じ考えで進んで座礁するよりも。それに俺が考えるよりもいい案が生まれるかもしれない」
他者の意見を強力に制約する全体主義に傾倒して誤った道を突き進み、惨禍を招いてしまった身近な事例を思い出しながら壱心はそう言った。しかし、桜の懸念は払拭出来ていない。
「……今、利光さんたちが推し進めようとしている案は韓国併合なんですよ」
「……何故今更?」
率直な感想を告げる壱心。必要な分は既に抑えてある。それを今更併合するなど、無駄な労力がかかるだけだ。それが分からぬ利光ではないだろうというのが彼の感想だ。しかし、桜にとっては今更ではなかった。
「今更、ではないんです。壱心様が満州油田の開発の奨励に行くことが決定した際、何故そうなったのか覚えていらっしゃいますか?」
「……そうだったな。そういえば、その頃からか」
壱心は利三の不慮の死によって香月組の表向きの顔が利光に変わったばかりの頃にあった周囲の事実誤認による海外出張を思い出した。当時は周囲の気遣いと思われていたそれは、実は利光が裏で手引きをしていたこと。そして、壱心の予定になかった朝鮮での現地高官との会食を捻じ込んだのも利光だったことも後になって判明した。
それを壱心が思い出したのを表情から察したのだろう。桜は続ける。
「その頃は関東大震災などの対応や後処理などで利光さんでは対処しきれないことが多々あり、しばらくは壱心様の指示に従った方が良いという判断で大人しくしていたようです。ですが、それから時間も経過し、成功経験を積み上げて自信を深めて来たのでしょう。最近は色々と画策しているようです」
「……そうか」
「早期の対応を心掛けておくようお願いします」
そう言って桜は慇懃に頭を下げるのだった。
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