歴史の転換点
旅順陥落により当面の間、後顧の憂いはなくなった。大日本帝国陸軍はロシアとの満州圏における決着をつけるべくかつての清朝の都、奉天へと軍を進める。
「この一戦が日露戦争の勝敗を決めると思え……!」
日本陸陸軍一丸となって臨む陸戦。この土方は険しい顔をしながら立ち並ぶ諸将に告げる。それは誰もが知る事だった。綿密な連携作戦が組まれる中で誰もが真剣な顔をしていた。
「俺の軍が右翼、黒木第四軍が中央隊となり奥第二軍が左翼で更に最左翼に乃木第三軍がロシア軍の退路を断つ形で動いてもらう」
「予想される敵の動きは……」
「分からん、だが香月様はロシア軍が旅順を落とした第三軍を警戒して攻撃の重点をそちらに動かすと予想している」
香月組の中に入っている土方から壱心より入れられた史実の流れの情報をそうとは知らずに全体へ教導される。
「うぅむ……まぁ、退路を遮断されるのを恐れてそちらに軍を向ける可能性は高いか……」
「ですが、そうであるならば第三軍が薄いのでは?」
「他の戦線から回す余地もない。このまま進めるほかないだろう」
史実よりは兵が多いが、それでもロシアとの国力差は埋めがたい。どこも限界といった態で話が進められる。軍議は紛糾するが、時間は待ってくれない。奉天での決着をつけるには沙河が凍結して渡れるこの時期である必要がある。それにロシア軍にはまだ後方に控える陸軍、そしてバルチック艦隊もあるのだ。加えて、日本軍の兵站は限界が近い。短期決戦が望ましかった。
「決戦は少なくとも今週中に行う。追って指示を待つように」
斯くして、日本史史上最大の会戦。日本軍30万対ロシア軍36万の大会戦が奉天の地で繰り広げられることになる。切っ掛けは土方率いる第一軍による陽動の動きだった。第三軍を狙って動こうとしていたロシア軍の攻撃に先んじて第一軍が動くことで清河城に籠るロシア軍を撃破し、清河城を攻め落とすことに成功したのだ。これによりロシア軍の目は一時的に第一軍に向くことになる。
戦のペースを握ったと判断した日本軍は史実と異なる動きに出る。史実では陽動として第三軍を用いるが、本世界線では第三軍に十分な精鋭を持たせることで主力に近い働きを持たせたのだ。
つまり、史実通りにクロパトキン将軍が選択する第三軍への対応のための増援は正しいことになる。
その上で、日本軍が勝利する可能性を選択したのだ。兵力の差などにより全面的に被害を出しつつある日本軍。それでも勝つための苦肉の策だった。
その期待に応えたのが乃木将軍だ。元々、史実では三万八千程度の軍でロシア軍十万と渡り合っていた彼だ。兵力が六万で、精鋭が残っている状況。また、秋山支隊からの強力な助勢がある中で彼らは戦い抜いた。
その結果、ロシア軍は史実よりも早く戦力を後退させることを選択。史実ですら起きなかったロシア軍による総反撃は夢のまた夢の物語となった。
そして奉天会戦が戦端を開いてから二週間が経過した頃。ロシア軍はナポレオンの時よりの伝統戦法、戦略的撤退に出ることになる。それに猛追する日本軍。撤退のみを意識したロシア軍にそれを止めるだけの力はなかった。
「……ハッハッハ、約束は守ってもらえたな」
「嬉しそうだねぇ」
銃弾飛び交う凍り付いた大地の上。目下、撤退するロシア軍を日本軍が追撃している最中だった。その中で一人の青年が笑っている。彼は凍り付いた大地の上とは思えない軽装をしていた。隣にいる美少女も同様だ。ついでに言うのであれば彼らの格好はこの時代の物ではない化学繊維の塊だった。
それに対して、唐突にこの場に連れてこられた少女と男はこの時代相応の厳冬の装いをしていても寒そうにしている。
だが、そんなことを気にした素振りもなしに未来の格好をした男は告げた。
「さてさて、ここからどうなるんだろうな。俺がこの世界から魔力を吸い上げるとこの世界線は確実に俺たちの知る世界線とは異なる世界になる……ま、精々恨んでくれ」
「……その場合、私の存在はどうなるんでしょうか?」
この場に唐突に連れてこられた少女……国守桜は簡単にとんでもないことを言う青年に対して不安気にそう尋ねる。対して、この場に彼女を連れて来た青年は軽薄に笑いながら答えた。
「一応、この世界のそういう生命体が生きられる程度には残しておいてやるよ……だが、お前の場合、本体さえ無事なら不老不死ってのは無理だな。あくまで人間としての範疇で生きていくようになる」
「そう、ですか……」
青年のやることを素直に受け止める桜。抗議したいこともあるだろうに何も言うことが出来ない。それだけ彼と彼女の間には隔たりがあるのだ。
その会話を聞いていたもう一人の連れてこられた存在……香月壱心は彼をこの場に連れて来た青年、悪坊主に尋ねる。
「それで、そろそろ何故この場に私たちを連れて来たのか理由を尋ねてもいいですかね? 亜美の解毒薬を渡すだけなら向こうでもよかったですよね?」
「あぁ、もう聞きたい?」
愉しそうな顔をする悪坊主。その顔には邪悪と言っていい笑みが浮かんでいる。それを見ると答えを聞くのが躊躇われるが、壱心は頷いた。
「えぇ、聞かせてもらいましょう」
「そうか……じゃ、簡単に言おうか。今回の一件で俺たちの世界線との距離が大分近くなった。ついでに死出の門がいい感じに開かれたことで色々と都合がいい状況が整った。だからもう帰る」
「え……」
喜んでいいのか悪いのか悩む話だった。しかし、不確定要素がなくなるという点において喜んでいいものだと壱心は内心で判断する。そんな彼に悪坊主はその名に冠する通りの邪悪な笑みを浮かべて言った。
「いやー……危なく日本が第二次世界大戦に参加しない世界線に進むかと思った。だが、今回の一件で……いや、それだけ取り上げるのは失礼かな? 君たちのお蔭でこの国が第二次世界大戦で負けて全面降伏し、敗戦国になった世界に近づいたよ。ありがとう」
その言葉に、壱心は凍り付いた。外気の所為ではない。悪坊主の発言のせいだ。彼の隣にいる七奈は可哀想なものを見る目で壱心を見た後に悪坊主を窘める。
「敗戦国って……そういう言い方しないでよ。全面降伏だってしてないし……ボクのお爺ちゃんとお婆ちゃんたちが頑張って色々やって不利な状況でも一応講和成立っていう話になってるんだから」
悪坊主の言葉を窘める七奈。だが、悪坊主は嗤いながらその言葉を否定する。
「残念ながら、負けは負けだ。それに、魔力の他にも俺が色々吸い上げたこの世界じゃ七奈の祖父母みたいなそんな都合のいい存在は現れない。この世界はこのまま行けば黄禍論に始まり欧米列強共から目の敵にされ、経済的に追い詰められ敗戦することになる」
「むー……何かなぁ……」
悪坊主の言葉に不服そうな七奈。だが、悪坊主は冷たくあしらう。
「残りたいなら残っていいぞ。お前が居ればこの国をどうにかする……それどころか太平洋戦争のあるなしに関わらずこの国の軍事力と経済力を世界一にすることも可能だろうしな」
「ボクはどんなことになっても悪坊主と一緒にいるけどさぁ……何かなぁー……って気分にはなるよ」
さり気なく惚気を挟まれるが、この世界線を生きる者たちからすればそんな些細なことはどうでもいい。問題は第二次世界大戦とこの国の未来の話だ。壱心は目前で笑っている悪坊主に食って掛かる。
「どういうことですか? あなたはこの国の未来を……」
「あぁ、ちょいと道を整えたのは俺だが選んで進んだのはお前たちだということを踏まえて発言してくれよ? こっちは移動までもう時間がない。無駄な問答で時間を潰すくらいならもうこちらからは用はないし有翼人と深き者に合図を出すが」
「……ッ!」
発言の途中で先手を打たれた壱心。しかしそれでも気になるものは気になった。
「あなたはこの国が悲惨な未来を辿ると知ってもそうさせたいんですか!?」
語気を強める壱心に対し、悪坊主は冷めたように告げる。
「別にどうでもいいし……初対面の頃から言ってるが、俺は元の世界に戻る事しか考えてない」
「どうでもいいって……」
「前に言ったことがあるが、一般的な人間の倫理観を理解した上で増えた人間を適当に間引こうとする程度にはあんたらの感覚からズレてる。そのことは理解して話した方がいいと思うぞ。そら、異界の門が現れた。後は調節して開くだけだ。もっと有意義なことを聞いたら?」
悪坊主の言葉に伴い、何もない空間に亀裂が走る。時間の猶予がないことを悟ると壱心は苛立ちを滲ませながら尋ねた。
「有意義なことを聞けと言うのなら、この国を……日本を敗戦国にしないための策をぜひともご教示いただきたいものですが?」
「うん? そりゃ簡単だ。お前が考える通り、挑発に乗らずに済むだけの強い経済を作る事だな……腹案は持ってるんだろ? ただ、背中を押してほしいだけで」
「簡単? 簡単って言いましたか?」
「うん。言うだけなら簡単だ」
亀裂は大きくなっていく。それはもはや罅ではなく穴になろうとしていた。悪坊主の目はもう亀裂の方向しか見ていない。そんな中、七奈が控えめに告げた。
「……悪坊主はバブルが弾けた後、失われた二十年後の更に先の日本で財閥を巻き込んで10年でGDPを100兆円増やした上で、更なる安定成長を続けようとさせてる中核を担う財閥作ってるから、ちょっと常識がズレてるかもしれない……」
「は? 何なんですか? ふざけてるんですか?」
苛立ち混じりにそう告げ、地団太を踏みたい気分になる壱心。彼には七奈の言っている意味がよく分からなかった。何をどうすればそうなるのか教えて欲しかった。傍から見れば壱心も同じようなことをしているのだが、知っている単語を聞いた上でどうすれば彼女が言う結果を齎す事が出来るかわからなかったのだ。
しかし、瀕死の重傷から即座に立ち直るだけの回復薬や不老の薬、完全なる原子力飛行機やその他にも個人でどうやって作ったのか不明なものたちのことが脳裏をよぎると何も言えなくなってしまう。
しかし、悪坊主はその一切合切を無視して穴の方を見続けていた。
「あーようやく戻れる。あ、言い忘れてたが君らに一応言っておく。俺の事を無理に他言すれば呪いで死ぬから。軽く認識阻害をかけてあるから失言くらいならどうにでもなるけど」
「……そんなことより! どうすれば日本を……」
「本当に弱くなってるなぁ……まぁ、誘導したのは俺だから他人事みたいに言うのもアレだけど。これまでは自分の力でどうにかして来ただろうに」
憐みの言葉を投げかける悪坊主。壱心が一瞬言葉に詰まる間に七奈がその花唇を開いた。
「誰かを頼ることは弱いってことじゃないと思うけどなぁ……」
悪坊主の言葉に反論する七奈。だが、壱心には悪坊主と違ってのんびりと話をしている暇はない。
「いいから早く!」
「……言った通り、内政とかを頑張って経済に力を入れる。それと外交かな~……もう一回歴史の流れをおさらいするといいよ」
「……もう一度、歴史の流れをおさらい?」
「アメリカは自国の立場を脅かす国を許さない。ソ連は信用できない。そして国内は油断ならない。まぁ、誰もが知ってることだが……改めて、ね」
穴は、人が通れるだけの大きさとなった。それを見た悪坊主は壱心の呟きを無視して一瞬で穴の中に身体を沈めていく。
「さて、そろそろ時間だ……精々頑張るといい」
「ま、待ってく」
「嫌なこった! アハハハハハ!」
笑いながら悪坊主が消える。そして、残された七奈はというと彼女は少しだけ、動きを止めていた。
「……悪坊主、気付いてて黙ってるのかな? それとも、気付いてないのかな? 分かんないけど……ううん。ここで、このタイミングで飛ぶってことは気付いてるよね……やっぱり意地悪で優しいなぁ」
彼女は誰かを魅了して迷惑をかけることのないように亀裂に向かって締まりのない笑みを浮かべる。しかし、その横顔だけで全ての感情を停止させてこの場にいる者たちを魅了するのに十分だった。
そんな彼女は壱心の方を見ないようにして続けた。
「種は撒いてあるみたいだよ。そして、その種を君とあの子は守れた。後は君たち次第」
「どういう……」
「ボクがやった訳じゃないけど、悪坊主に浮気って言われるの嫌だからこれだけね。愛は世界を救うんだよ。じゃあね」
そう言い残すと七奈もこの世界から消えて行くのだった。
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