各地の情勢

 黒溝台こっこうだい会戦での日本の勝利は国内でも大きく取り上げられた。だが、その後に日本にとんでもない勝利の報告が届く。


「……は? 旅順陥落?」


 その報告に思わず壱心も驚きの声を漏らしていた。何せ、壱心は旅順攻撃の命令を出していない。第三軍を率いている乃木希典大将が独断でやったことだったからだ。


「……武器も兵の増員も認めてないはずだ。どうやって落とした?」

「何でも陸海軍共同作戦で陸軍が相当な攻勢に出た、と……」


 困惑した様子で亜美がそう告げると壱心も困ったような顔をして詳細を聞く。


(史実とは違って旅順艦隊の動きがないことは確認済みだったから無茶はしないでいいと言っていたんだが……後顧の憂いを断ちに動いたか……)


 何でも、戦略的価値がない事や日本軍が包囲ばかりで攻撃しなくなっているのを受けてロシア軍が油断し始めていたという情報が入ったらしい。

 そこで日本軍は望台を占領しに動き、海軍の支援を要請した。その際、日本軍の動きを単なる威力偵察と見た旅順要塞は戦力の逐次投入という判断をしてしまう。その悪手によってロシア軍の予備兵力が激減。その後、イギリスからのルートで既に入手していた旅順要塞の図面に基づき、防御の薄い部分に陽動部隊を送り、本隊を望台に向けると旅順港側と半島側から陸海軍が協力して熾烈な攻撃を行い、望台を陥落させる。そこでこれ以上の抵抗もやむなしと判断した旅順要塞は降伏を申し出たそうだ。


「……そうか。一先ずは労をねぎらうことにしよう。被害は?」

「七千とのことです」

「七千……」


 史実では一万の犠牲を出した。それに比べれば……そう考えたとしても痛いものは痛い。しかしそれよりも痛いのが、壱心の指示を無視して行動したことだ。現場の判断というものだろうか。これで攻略失敗でもしていれば責任問題で追及できるものだが運がいいのか悪いのか攻略に成功してしまっている。


(……不味いな。こういう風潮が残って現場主義偏重になると関東軍の再来になってしまう……だが、あくまで現地の裁量に則った行為だ。罰することも出来ない)


 壱心を頭痛が襲う。しかし、それも僅かな間の事。壱心は溜息をついた後に切り替えた。


「分かった。十分に慰労しておくように。それから新聞にはこの現場の判断を過度な美談にせず、かといって批判的にならないように適正に取り計らってくれ」

「畏まりました」


 戦争状況についての情報を一部の会社にすぐに提供する代わりにある程度、記事の内容をコントロールする壱心。共同新聞記者倶楽部という後でいう記者クラブの源流にあたる組織のスポンサーであり、現代日本の通信社に当たる組織を作った彼だからこそできる芸当だ。

 しかし、この命令が上手く行かないときもある。今回がそれに当たった。壱心への忖度や過度な信奉者の存在により旅順陥落も壱心の指示であるかのように書き立てる社が多くあったのだ。確かに総司令官として責任者は壱心であるのだが、他者の功績を奪うのは嫌だと訂正を命じると今度はそれを美談として書き上げられる。


 壱心の頭痛は増すばかりだった。だが、それは少し先の事。今は連日の勝利報告に沸く日本に対する落としどころを模索中だ。


「……賠償金、とれるかどうかが問題だよな」

「そうですね……因みにこちらが桜さんの試算になります」


 亜美から資料を受け取る壱心。内容を見た彼は苦笑した。


「普通に行けばなし、か……手厳しいが現実的だな。国民が何と言うか……」

「強硬に行くように政府に打診しておきますか?」

「いや、そんなことをすれば日本が朝鮮の独立のために立ち上がったという大義名分が賠償金目的で戦ったのではないのかと疑われることになる」


 それに、と壱心は続けた。


「そんなことを申し出てロシアから賠償金を取れるだけの勝利……ロシア国内への侵攻と占領を要求されでもしたら日本の戦線は崩壊する」


 樺太を除いて。と壱心は付け加える。樺太に関しては全島に対して戦況が史実よりも優勢に進んでいることから史実よりも先に手を打っており、占領したまま領土を割譲する方向で話を進められることが出来そうだからだ。樺太の返還を求められた場合には賠償金を得る可能性が出て来るが、史実の流れ上、賠償金の話にはならないことが予想される。そこまで話した壱心に対して亜美はその話が続きそうなのを切って尋ねる。


「そう言ったこと抜きで賠償金の請求は難しいですか?」

「難しい。諸外国の目もあるし、ロシア自身が政情不安で金を払えば内乱の恐れがあることから国内の権益に関しては譲らないだろう」

「……明石大佐は相当上手くやっているようですね」

「まぁ、時期的なものはあるだろうが……それでも奴は上手くやってるよ」


 史実通りに。その言葉を呑み込んで遠い場所で活躍している明石のことを思い浮かべる壱心。対面の時間はあまり取れなかったが、それでもかなり印象的だった。


(史実通りだったな……)


 遠い目をする壱心。短い時間の対談ということで史実の明石と山縣との対談のような出来事は起きなかったが、その有り余る熱意は窺えた。壱心がそのように過去のことを思い出していると亜美はその間に未来のことに目を向けていたようだ。


「……お金をふんだんに使って勝つために政情不安を煽っているというのにそのせいで戦後の実入りが得られないというのは何とも皮肉なものですね」

「まぁ、この国の地位向上と安全の確保が目的だ。そのためには勝たなければいけない。金は二の次だ」

「国民はそれで納得するでしょうか」

「しないだろうな。その辺りについては悪いが政治家に責任を取ってもらう。元老はそれを見てるだけだ」


 あくどい笑みを浮かべる壱心。そんな彼に亜美は手紙を渡すのだった。


「では、その二の次のお金について、明石大佐より連絡です」

「……追加要求か。はぁ……まぁ、仕方ないんだが」


 口では二の次と言っても予算は厳しい。壱心は遠い地で戦果を挙げている明石の努力を認めながらもそれに応じて払わなければならない金額のことを考えて溜息をつくのだった。





 ロシア陸軍の内、極東に派遣されており現在睨み合いをしている満州軍。彼らは司令官の見ていないところで愚痴を言い合っていた。


「聞いたか? 皇帝陛下がデモを弾圧したって話……」

「俺、サンクトペテルブルクに親戚が居るんだけど本当のことらしいぞ。デモ隊がウチの食料を持って行ったりしたらしい。陛下の判断のおかげで助かったよ」


 ニコライ二世のことを信じる兵士が感謝の声を上げる。それに別の兵士が反応した。


「でもよ、俺が聞いた話じゃデモ隊が怒り狂ったのは陛下の命令で弾圧されてからって話だぜ?」

「あ、俺もその話聞いた。苦しんでるのを陛下に直訴しようとしたら撃たれて絶望した民衆が暴動を起こしたって……」

「おいおい、声が大きい。陛下のことを信じないのか? それは聖神様を疑うのと同じことだぞ?」

「でもよ……陛下の言う通りにしてればいいんだったら俺らがこんな戦争で大変な目に遭うことだって……」


 兵士の一人がそう呟くと言ってはならないことを言ってしまったかのようにこの場にいる者たちが黙ってしまう。


 ロシア軍極東部満州軍の士気は上がることはなく、下がる一方だった。




 ところ変わってこちらは喜望峰ルートを進んでいるロシア海軍バルチック艦隊の兵士たち。彼らは長い事どの港にも入ることが出来ずに疲弊していた。


「くそ……イギリスの介入がなければ今頃は到着していたというのに……」


 船の動力源である石炭の供給を止められたことで入手できる時に入手できるだけ積み込んでいること。また、入港できないことで船のメンテナンスも出来ずに航行速度は落ちる一方だ。同時に、上陸できないことが兵士たちの士気も下げている。


(ドッガーバンクの一件がなければ……!)


 イギリス国民を激怒させてしまった一件のことを思い出して苦い顔をする艦長。彼の目に映るのはやる気をなくした兵士たちばかりだ。しかし、それを叱責することも憚られた。何故なら緊張し過ぎたが故に起きた事件がドッガーバンク事件だからだ。長旅となる以上、常に気を張っておくのは不可能だと理解して行軍させねば兵が持たない。


 だが。


「何をたるんでる! 見張りはどうした! やる気はないのか!」


 艦長はそれでも人を動かす必要があった。目下、戦時中。だらけているのが許される環境ではないのだ。

 艦長の言葉によってすぐに動く兵士たち。それを見ながら艦長は未だ何とか動けるというのを確認する。



 連日の戦勝により沸く日本に対し、ロシア軍の士気は陸軍、海軍共に低い状態。この状態で日露戦争は最終局面へと向かう。



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