黒溝台会戦
『くそッ! 日本軍どもめ……目障りな……』
クロパトキンは誰かに聞かせるでもない苛立ちを溢す。彼は過去に日本を視察しておりロシア内でも一貫して日本軍との戦いに否定的な立場を示していたが、ここまで苦しめられるとは思っていなかったのだ。
(あいつらのお蔭で俺の評価は散々だ……! だから戦いたくなかったんだ!)
ロシア国内では遼陽会戦で敗北したクロパトキンを満州軍総司令官から引き摺り落とし、満州軍を分割してグリッペンベルク大将にも指揮させようという動きが出ていた。
確かに、日本軍と戦うことに懐疑的なクロパトキンだったが、事実上の降格となる人事に納得できるはずもない。グリッペンベルクが来る前に自らの威信を回復しようとして動いたのが沙河会戦となる。だが、それも大失敗に終わってしまった。
もう、グリッペンベルクはこの地に到着し、新指揮官としての期待を一身に集めて行動を開始しようとしている。クロパトキンも負けてはいられないと日本軍の後方支援拠点、営口に威力偵察をしていたが、それも失敗に終わっている。
(……あいつはどう出るんだ? お手並み拝見と行かせてもらおうじゃないか)
クロパトキンは新指揮官として
ロシア軍が大規模攻勢を仕掛けようとしている情報は日本軍にも伝わっていた。
「……この寒さからしてこの時期の攻勢は眉唾物ではございますが」
「己にとって信じたいものだけを信じるというのはいささか都合が良すぎるものですな。イギリスからの情報に加えて秋山少将の情報。ロシア軍が大規模攻勢を仕掛けてくるのは間違いありません」
満州軍司令部では史実と異なる動きが出ていた。史実の満州軍司令部はロシア軍の冬季侵攻はないと盲信するが故に前線の情報を無視して奇襲を受けて一時退却を余儀なくされるのだ。
しかし、本世界線では大本営、香月壱心より直々の通達と歴戦の将である歴々方の意見により敵の動きが逐次報告されると共にその対策を練り合わせていた。
(時代遅れの老害共が……何がこれまでの経験上の話、だ。常識的に考えてこの寒さでは陣地の構築も難しく、ロシア軍の冬季大規模攻勢がないのは自明の理……香月閣下もこんな妄言に惑わされて、兵たちの疲労も考えてほしいものだ……)
何も言わないが満州軍司令部の士官が敵が来るという想定の下で話を進めているお偉方に内心で毒づく。しかし、周囲は末端の兵に至るまで維新の四天王であり、神算鬼謀と謳われて現在も実績を挙げ続けている香月壱心がそう言うのであれば、そういうものなんだろうと信じていた。
そのため、全軍が緊張の日々を送っている。これでは長期戦を想定しているというのにいざという時に集中力が切れそうで怖い。そう思う士官だが、逆らうことも憚られる歴々の前に黙している。
この士官は陣地の構築の難しさについては実際に現地に来たことで嫌と言うほど学ばされていたが、過去のナポレオンのロシア遠征の時などにロシア軍が冬を味方につけて攻勢に出ていたという情報を軽んじていた。
「さて、攻めて来るのであればどこを狙うか、だが……」
「順当に考えると短期決戦を狙うでしょうね。となると、手薄な左翼か……」
会議の参加者の多くが日本軍の兵棋が置かれている地図に目を落とす。東西方向に鶴翼の陣が敷かれている日本軍だがその層の厚さはまちまちだ。だが、史実と異なり手薄な左翼でも一万五千程度の人員と重機関銃が大量に送り込まれている。
「香月閣下の情報ですと敵の狙いは黒溝台、及び
「だろうな。クロパトキンが動かない以上、グリッペンベルクが任されている軍がこちら側にあるのであればそうなるはずだ」
クロパトキンの軍は沙河会戦に加えて威力偵察にも失敗したことから更に消極的な行動が予想されている。万一に備えて防備は固めてあるが、グリッペンベルクと連携する可能性は薄いと見られていた。しかし、その万一の可能性も見て彼らは戦略を組んでいく―――
斯くして、ロシア軍10万と日本軍10万の戦が幕を開けようとしていた。
最初に襲われたのは日本軍の斥候部隊。彼らの全滅という結果が日本軍左翼への攻撃が始まることを示唆していた。日本軍はこれにより予備兵力を左翼に回す。
ロシア軍の攻撃が始まったのは日本軍左翼の最も東側、黒林台だった。胴体部分である中軍との連携を断つべく行われた攻撃に日本軍はひとたまりもなく黒林台を放棄。
しかし、そこからは防備を固めて日本軍はよく持ちこたえた。幕末期よりロシアとの戦い……引いては寒冷地での戦いを予想して大村益次郎と壱心が鍛え上げた部隊が多くいたことも貢献したといえるだろう。
『……えぇい、クロパトキンは何をしている!? 私が軍を動かし、日本軍から拠点を奪っているというのにアイツは見ているだけか! すぐに伝令を送れ!』
黒林台を奪った実績からこのまま大規模攻勢をかけ続ければ左翼を突破出来ると踏んでいたグリッペンベルクがクロパトキンからの増援を呼びに向かわせる。
しかし、これは史実通りクロパトキンから無視されることになる。これによってグリッペンベルクは突破が不可能であることを悟り、撤退する。
そのままグリッペンベルクは病気を理由にロシア軍満州軍司令の地位を辞意することで本国へと戻り日本との戦いの場に出て来ることはなかった。
連戦連勝を続ける日本軍。本国ではその勝利の報が届くたびに多大な戦費を負担している国民から歓声が上がった。それは香月家でも同じこと。勝利の報が届くと壱心に連絡が回り、その日は祝宴だ。
「このまま進めば日本軍の勝利ですね!」
「このまま進めば、ですけどね。ロシアの後方攪乱は上手く行っていますか?」
「勿論です! 血の日曜日なんてことを起こしてくれたから色々と動きやすくなっているって元部下とか明石とかから連絡が来てますよ~」
何とも血腥い話を肴に盛り上がる香月家の食卓。壱心は微妙な顔をしていたが、彼女たちの話の通り、一応自分たちにとって上手く行っている状態が進んでいることから胸を撫で下ろしながら酒を呷った。
「旦那様、頭痛は大丈夫なんですか?」
酒を一気に呷った壱心を気遣う声がリリアンから飛ぶ。壱心は問題ないと答えるともう一杯飲んでから呟いた。
「後方攪乱も上手く行っている。血の日曜日事件の情報を前線にもバラ撒いて厭戦気分を高めることにも成功した。後は奉天会戦と日本海海戦のみ、か……」
「いつ頃になりそうですか?」
「沙河が凍っている間に攻めなければ機会は来ない。奉天会戦は二月末から三月を予定している。日本海海戦は五月末だな」
そう答える壱心。すると亜美がこの場に入室して来た。何やら空気が怪しくなる香月家。それを努めて感じないふりをして壱心は亜美に告げる。
「亜美、具合は大丈夫か?」
「はい……」
どうしても元気がなさそうにしている亜美。だが、彼女の具合自体は悪くないはずだ。契約に則った上で仙人の妙薬を使っているのだから。現に、彼女は自分の足で歩いてここまで来ている。
「亜美さん、大丈夫なんですか?」
「えぇ……」
「ならよかったです! ご飯食べましょう!」
無邪気な形で亜美に食事を促す宇美。だが、彼女も色々と思うところがないわけではない。この家の誰もがついて行けない中で亜美に壱心を託したのは家の女性の総意だった。そして無事に帰ってこれたのだから亜美へは感謝しなければならない。
「……壱心様」
「どうした?」
「……いえ、なんでもありません」
「そうか」
何もないわけがない。だが、何もなかったことにしておくことは出来る。壱心はその道を選んだ。
だから、彼らは何事もなくこれからの日々を過ごすことが出来る。
「痛っ……」
ただ、壱心の頭痛はまだ収まりそうになかったが。
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