終り間近で

「報告は以上になります!」


 興奮冷めやらぬといった雰囲気で壱心に報告を行う男。彼は史実での日露戦争における最終局面、日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破り大勝したことの報告を行っていたのだ。


「うむ。ご苦労だったと伝えてくれ」

「はい! 承りました! ……これで閣下も枕を高くして眠ることが出来そうですね!」


 壱心の顔色を窺いながら男は言った。壱心はその言葉に取り敢えず頷いておく。


「……まぁ、そうだな」

「それでは失礼いたします!」


 喜び勇んでこの場を去る男。色々あったとしても負けてはいけない戦いだ。その勝利に壱心も安堵する。史実と条件は同じだったとしても油断してはいけないということは理解しているからだ。


 それはさておき、壱心は再び静かになった執務室で作業に戻る。そんな折に扉がノックされる。入室を許可するとそこに現れたのは桜だった。


「……桜、か」

「失礼いたします。まずは日本海海戦でのご勝利、おめでとうございます」

「……俺の力じゃないさ」


 机の上にあるボロボロのノートから目を離さずにそう答える壱心。この世界の誰よりも長い付き合いのそのメモ帳はこの世界で意識を覚醒させたとほぼ同時に自身の知識の限りを詰め込んだものだ。それを何度も見返しては今後をどうするか考えるというのが近頃の壱心の行動だった。


「あの……日露戦争の大勢は決まりました。少し、お休みになっては……」

「そうだな。考えておく」

「……先日、リリアンさんから言われた時もそう仰られたと聞きましたが」

「……桜、お前は知ってるだろ? だから、黙っていてくれないか」


 悪坊主の存在と、彼と奉天の地で語られた一件を知る桜ならば壱心が休んでいる暇はないということは分かるだろう? と暗に告げる壱心。しかし、桜は引き下がらない。


「壱心様、一度鏡を見て来られた方がよいかと。皆が心配しております」

「……俺のことよりこの国のことの方を気にかけてくれ」

「壱心様、一度顔を上げてもらえますか?」


 メモ帳から顔を上げずに桜と会話する壱心に桜は比較的強めの口調でそう告げた。壱心は非常に億劫そうな顔で桜の方を見る。


「……何だ」

「やつれております」


 壱心の顔を真っすぐ見てそう告げる桜。だが、壱心は少しだけ視線を逸らした後に彼女を見て頷いただけだ。


「そうか」

「お休みになってください」

「考えておく」

「……今の状態ではまともな案が浮かばないと思います。どうか、一度休まれてください」


 重ねてそう告げる桜。壱心も適当な対応では引き下がってくれないと判断したのか少しだけ逡巡して答えた。


「講和まで時間がない。このタイミングで打てるべき手があるはずなんだ。黄禍論の始まりに手を加える必要がある。だから、今は手が抜けない」

「壱心様、今までは交渉は政治家……桂さんに処理させて責任を取らせると仰っていたではないですか。それを今から変えるのは……」

「条件を考えて捻じ込むくらいなら出来る。何とか欧米に対して目立たないように、かつ国内が納得する条件で……」


 常識的に考えて無理だ。桜は冷静にそう判断を下す。


「壱心様。欧米列強の目を気にされるのは長期的な視点では大事かもしれませんが足元が疎かになってしまえば苦しむのは自分です。欧米の目を気にするのは結構ですが、それで壱心様の影響力が低下してしまえば後々苦しむのはご自分ですよ」

「わかってる。だから、そう簡単に決断を下せずにこうして時間をかけてるんだ」


 そう言って再び視線をメモ帳に落とす壱心。それを見て桜は自分ではどうすることも出来ないと溜息をつく。


(壱心様を説得できそうなのはリリアンさんか、亜美さんくらいですか……ただ、亜美さんの方は薬の力で立ち直って間もないですし……何より彼女を選んだことで今回の雷雲仙人の一件が遺恨を残す形になっている……ここはリリアンさんに頼むべきですね……)


 説得にあたる人材を選ぶ桜。この場は一度引き下がるがその目には諦めないという強い意思が宿っていた。




(窶れている、か……だが、あの日から何度見返しても良案が浮かばない。それも仕方のないことだろう……)


 桜が退室した後、壱心は雑記帳に視線を落として再びページをめくりながら内心で愚痴を呟いていた。

 これから日本に関わってくる問題となるのが日露戦争直後より始まる大陸進出。日露戦争の十年後に始まる第一次世界大戦と第一次世界大戦が始まってから数年で起きるロシア革命。そして第一次世界大戦の反動で起こる軍縮と恐慌。そして、恐慌から逃れるための満蒙確保の気運に伴う更なる大陸進出と国際社会からの孤立。

 そして、北部仏印進駐に伴う米英との対立決定とABCD包囲網による日本国の経済封鎖に伴う太平洋戦争の参加。そして敗戦。悪坊主の遅老薬の効果がどこまで効くのか、また壱心の寿命がどこまであって、壱心が付き合えるのはどこまでかは不明だが、史実と同じルートを辿らせるわけにはいかなかった。


(……やはり、大陸進出が問題なんだよな……だが、今回の戦争でこれだけ勝った以上進出しないというのは不自然極まりない上、犠牲となった国民の反感を買う事になる……全部賠償金になればいいのに……)


 何度目とも知らない現実逃避に出てしまう壱心。しかし、今のロシアにはそんな余裕は存在しないというのは分かり切っている。


(……朝鮮の併合を抑える。その既定路線で間違ってないとは思うが……あの人が言っていた戦争が起きるってのはその程度で回避できるのか? いや、第二次世界大戦に参加する世界線になったとは言われてないんだ。近付いただけ、それならまだこの段階で何とか出来る可能性が……)


 疑心暗鬼に陥る壱心。心身の疲労からあまり頭が回っていない。そんな折に再び部屋の扉がノックされた。


「……どうぞ」

「失礼します」


 現れたのは金髪碧眼の美女、リリアンだ。彼女は壱心の様子を見ながら持ってきたものを軽く胸の位置から下げて座っている壱心にも見やすいようにした。


「お、お茶です……甘味も持って来たので、少し休憩されてはいかがですか?」

「そう、だな……」


 差し出されたのはお茶と羊羹だ。疲れた頭に糖分を与える程度の休憩であれば別にとってもそこまで問題はないだろうと判断してそれをいただく壱心。


 リリアンはそれを心配そうに見ていた。


「……どうかしたのか?」

「いえ……少し、お休みになって欲しいと」


 真剣な様子で壱心の様子を窺っている美女に壱心は……急な眩暈を覚えて頭を手で押さえ、机に肘をついて頭を支える。


「な……」


 突然過ぎる体調変化。だが、リリアンが取り乱した様子はない。それを見て壱心は何が起きたのかを察す。


「盛ったな……?」

「はい……ですが、こうでもしないと貴男は止まらないじゃないですか……!」


 泣きそうな顔で告げられた悲痛な訴え。しかしそれを壱心が最後まで見ることはなかった。暗転する視界。彼の意識は深い眠りの底へと落ちて行った。

 その様子を見届けたところでリリアンは合図を出す。すると、桜が静かに室内へと入って来た。


「首尾は上々といったところですか?」

「はい……ですが、本当にこれでよかったのか……私には分かりません……」

「そんなに思いつめることはないはずですよ……ただ、どうしても気になるというのでしたら、これを」


 桜は袖の中から錠剤が一粒だけ残されたケースを取り出す。それは壱心が悪坊主と初めて会った時に精神安定剤として渡された物だ。

 かつて六錠あったそれは秋月の乱で壱心が倒れた時にリリアンと亜美に使われ、また福岡の乱の後に家族を死なせた壱心が一錠、そして黄海海戦の後に壱心がこの様な状態になった原因に自分があると知った亜美がまた一錠服用させられていた。


 そして今、残る二錠のうち一錠が壱心に使用されたのだ。


「これ以上、勝手に使うのは……それに、私はこの罪から逃れようとは思っていません」

「そうですか。でしたらおやめになった方がいいでしょうね」


 強い目をしたリリアンの言葉を受けて桜はケースを引っ込める。そしてこれ以上は特にここで話す必要もないとして彼女たちは打ち合わせ通り二人で壱心を寝室へと運び、療養させるのだった。

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