外出
日本最大の財閥の主が死んだといえども世界は回っていく。利三の死後、日本の財界のみならず産業界、政界にも大きな動揺が走り、その衝撃は一部海外まで巡ったが一年が経過する頃にはその動揺も収まり、日常が戻りつつあった。
そんなある日、晩夏も終わりの時分。利三の兄である壱心はちょっとした手違いから満州に行くことになっていた。その手違いとは、壱心の周囲の事実誤認だ。先に発した壱心の満州に行きたいという話を受けた彼の周囲は壱心が時期が悪いという理由で取りやめたのにもかかわらず、壱心の満州行きを決定事項のように扱ってその近辺に彼の予定を入れないでいたことから折角だからということで香月組の中でも壱心の満州行きが決定されたというものだ。
壱心としては亜美に会う事、そして油田がどうなっているのかを確認するために満州に行きたいと思っていたところなのでその予定変更に特に問題はないが、これからの未来を壱心から教えられているごく一部の側近からすると少し気になることがあった。それが関東大震災だ。予定では壱心が大慶油田に到着した翌日の昼頃に震災が起きる。
「……まぁ、事が実際に起きてからは俺に出来る事なんて特にないから別にいいんだが……」
「一度、壱心様がいない状態でも難局にぶつかってみなければ壱心様亡き後が問題になりますからね」
「まぁ、な……留守は任せたぞ」
「畏まりました。行ってらっしゃいませ」
香月組の所有する船に乗ってこの国から離れようとしている壱心。裏では壱心が国内にいない間に彼を政界から離れさせようとする陰謀やらが蠢いているのだが、香月組の暗部による情報でそれらを知った上で彼は問題ないとして満州へと行こうとしていた。理由は様々だが、何よりも大きいものとして満州油田を掘り当て、ついに安定生産に軌道を乗せた彼の妻の労をねぎらいたいというものと壱心がいない間の日本の有事への対応能力を測ることが最大だろう。そんな中で前者の逸る気持ちを抑えながら壱心は船に乗り込む。その隣にはリリアンの姿もあった。
彼女は壱心と共に乗り込んだ船から同じ港にある巨大な船を見て壱心に告げる。
「大きな船ですね!」
「あぁ、そうだな。これが最新の国産タンカー、福石丸だ。載貨重量は約一万トンある」
「壱心様凄いです」
「……利三にも見て欲しかったなぁ」
しんみりしながらそう呟く壱心。リリアンはそんな彼を励ますように努めて明るく振る舞う。
「きっと天国で見てますよ」
「……そうだな」
出発から暗くなってもよいことはないので壱心も顔を上げた。壱心らが乗り込んだのはタンカーの護衛船だ。しばらく船長と話をした後に船は出発する。
「久々の大型船だな……以前乗った時は黄海海戦の時だったか……」
思わず漏れた一言。それにリリアンが過敏に反応した。
「……どうしても暗い話に持って行きたいんですか?」
「いや、そういうわけではないが……まぁ、何だ……いい天気だな」
「そうですね」
露骨に話を変える壱心。その下手な会話誘導にリリアンは少し不満げにしていたものの、彼女が機嫌を悪くしていては楽しむものも楽しめないと一度大きな息をついて気持ちを切り替えた。
「はぁ……よし、壱心様。せっかくの船旅なんですから、もっと楽しいことを考えましょう?」
「そうだな……しばらくは船に揺られることになるが……偶には何もせずにのんびりと過ごすのも悪くない。リリィ、少し話し相手になってくれるか?」
「喜んで」
花が綻ぶような笑みを見せるリリアン。その空気を読んで壱心の後進として行動を共にする予定だった側近、石橋は空気を読んで船長らの下へと移動する。そうして壱心とリリアンの二人はしばらくの間は夫婦水入らずの時間を過ごすことになるのだった。
そして壱心らを乗せた船は一度、朝鮮半島にある港に泊まり地元の歓待を受けることになる。壱心は嫌がり、代理として石橋だけで行かせようとしたのだが、船が泊まっている間だけでも是非に、最悪は船に乗り込んで挨拶してもいいという話で殆ど無理矢理に予定を組んできたのだ。これは現地の人間と日本にいる壱心を日本から遠ざけておきたい人間の思惑、そして壱心に朝鮮半島へ興味を持たせたい勢力が重なったことによるものだった。
(……あんまり関わりたくないものだが)
朝鮮併合を止めるように指示した実務上のトップの人間に対して最大限の好意を伝えようとしている朝鮮のいわゆる親日派と呼ばれる高級官僚たち。しかし、彼らにとってはその話はただの枕詞。彼らは被保護国として、日本にこれ以上の厚遇を求めて壱心に融資の話などを持ち掛けて来ようとしていた。
(何でお前らの国のために金を払わねばならんのだ。隣国の
表面上はさておき、融資や援助の話を聞かされて冷めきった感情で歓待を受ける壱心。元々、受けたくもないものを受けているのだから当然と言えば当然ではあるが、戻ったら計画を組んだ日本側の者に色々と言ってやりたいところだった。
(まぁ、ここに連れて来た大体の理由は分かる。汚職の一つでもしてくれればいいと思っているか、外交を互いの国の利害打算の話ではなく過剰な接待や賄賂などの個人に頼る腐敗しきった李氏朝鮮の上層部に対して義憤か何かしらの感情を持って今からでも朝鮮併合に舵を切らないかと思ってのことだろうが……俺としてはこれを組んだ側に苛立ちを覚えるものだな……)
被害妄想を覚えながら空虚な時間を過ごして壱心は全ての話を考えておくでもない拒否で通してさっさと船に戻る。そこで船出までの時間をリリアンと過ごした壱心の様子を見ていた船員たちは船出を急がせた。
そして一行を乗せた船はしばらくして旅順に辿り着く。ここには日本軍が駐屯しており、これまた壱心のことを歓待してくれた。内心では戦争を起こした側の人間として犠牲となった者達や犠牲になりそうな者達に色々と思うところはあったが、その歓待を素直に受けることにする。
そんな現地では中国、朝鮮における排日運動に加え、軍閥による中華民国内での権力闘争。特に張作霖らの奉天派の動きは石油の見返りで史実と異なる形で日本が大幅に軍事力を与えてしまっており、第一次奉直戦争の時点で史実と異なる形に話が進んでいるので非常に注視が必要であることを念頭に置いた話合いが行われた。
またソ連による脅威論とそのソ連の力を背景に中国を統一しようとする孫文らの動き等が話題に挙げられ、壱心からはそれらの事態が有事に至った際への対応策についてや近年設立された中国共産党へのマークなどの話をした。
それらの話を終え、壱心が大慶油田へと続く南満州鉄道へと乗り込んだ時、日は既に傾きかけていた。
「ふぅ……俺も年だな。少し疲れが出るようになってきた」
歓待を受けた後、側近の石橋を除く最低限の護衛とリリアンを伴って壱心は疲労を滲ませて小さな声でそう呟いた。いくら仙人の妙薬を使い、肉体年齢に精神が引っ張られていると言っても壱心も既に老齢と言っていい年齢に達している。長旅に加えて接待の対応をし続けていれば疲労を感じるのも仕方のないことだった。
「お疲れ様です。少しお休みになられますか?」
そんな彼の状態を見てリリアンがそんな提案をしてくる。壱心は少し考えてから首を横に振った。
「いや、何があるか分からん。起きておくに越したことはないだろう」
「何かあれば起こしますよ?」
「それでも、だ」
妙なところで頑固な壱心。昔から暗殺の類を非常に気にしていた人だ。その習慣は抜けないか。そう思いながらリリアンも壱心の言葉を受け入れ、壱心が疲れない程度に話をしながら列車に揺られるのだった。
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