飛報

 1922年。ワシントン海軍軍縮条約が定まったこの年、壱心は知らされたその内容にある程度満足していた。


(英米5に対して日本は約3.52か……上々と言ったところか)


 対英米比7割の目標をクリアした日本外交部。史実に存在しない長門型戦艦の末妹である筑紫や空母を含めると現在保有している艦隊がこの程度になり、現在の軍縮の結果としては史実同様に摂津を廃艦にする程度の損害で済んだ。

 この結果を導き出せたのは同時に日本の暗号が米国に読み解かれていないことも表しており、喜ばしい限りだった。

 また、九ヶ国条約が発効された上で米国による日本の満州特殊権益の承認である石井・ランシング協定が破棄されなかったことも壱心の喜びに一役買っていた。


(山東省の権益は史実並みになったが、まぁその辺りはいい。何としても欲しいところは確保できた……)


 未だ満州で油田を掘っている亜美のことを思い出しながら壱心はワシントン会議の報告書を通信社行きの書類箱に回す。そして亜美のことを考えると溜息をついた。


(それにしても頭の固い奴等ばかりだ……国外に出るなと来たものだからな……)


 亜美に会うために満州に行こうとして却下されたことを恨んでいる壱心。現在は基本的に福岡にいて東京から離れることで訪問客を減らしたり自身に仕事が集中しないようにしているが、それすらも嫌がられている。色々と言いたいことは分からないでもないが、多少は好きにさせてほしかった。


(まぁ、来年の8月末から9月頭にかけてなら調整がつくと言われたから断った俺の方にも非は……あるのだろうか。そんな時期を指定する方が悪いんじゃないだろうか)


 実際のところ、行くこと自体に許可は下りたが、時期が悪かった。関東大震災の発生予定日をピンポイントで狙われた壱心はそれを拒否せざるを得なかったのだ。


(まぁ事業自体は上手く行っているから別にいいと言えばいいんだがな……)


 亜美からの手紙を読んでそんなことを考える壱心。ここ数年で井上や山縣、伊藤に大隈という元老たちも斃れ、古参の元老としては最後に残された形になる壱心。彼らが没すると同時に、元老という立場も弱まってきているように思われた。


(尤も、俺にとってはあまり関係がないがな……)


 ただ、壱心個人については大して権勢が衰えていなかった。寧ろ、巨大産業に手を出してはその裾野を埋めていくことで権勢が増していると言ってもいい。


「時代は変わってるのに人は変わらず、か……果たしていい事なのか悪い事なのか」


 後継予定となる者たちのことを考えながら席に着く壱心。そんな彼の下に急報が入った。珍しく走ってこの部屋に近づいてくる気配。ノックがあると壱心はすぐに入室を許可する。その許可と同時に咲夜が転がり込んできた。


「壱心様、訃報です」

「またか……今度は誰だ?」

「利三様です」

「……は?」


 壱心は思わず席を立って問い返した。それに対して咲夜は静かに電報を差し出してくる。そこには利三の急死が味気ない文言で記されていた。


「……は?」

「壱心様……」

「ちょっと待て……いや、一人にさせて貰おう……咲夜、少しの間人払いを頼んだ」

「畏まりました」


 すぐに部屋から出て行く咲夜。一人になった壱心は再び電報を見直す。だが、そこに書いてある文言に変更はない。


「ちょっと待て……まだ早いだろ……」


 落ち着きなく部屋の中をうろつき回り始める壱心。利三の急死は壱心に想定外の場所から強烈な一撃を喰らわせていた。それは対外的なものだけでなく、精神的にも同じことが言えた。


「死んだ、か……」


 共に激動の時代を駆け抜け、苦楽を共にした半世紀の記憶が壱心の胸の奥を駆け巡る。壱心は乱雑に自身の髪の毛を掴むと大きく息をつき、椅子に体重を預ける。そしてゆっくりと手を開いた。


「はぁ……落ち着け。利三も従心70歳近くだった。もう、俺たちはそう言う歳になっていたんだ……」


 大きく息をついて深く瞑目する壱心。彼はしばらくそのまま動かなかった。



 数刻が経過した。人払いをしていた壱心だが、それにも限界がある。何度か扉がノックされると扉越しに声を掛けられた。


「壱心様、リリィです。大丈夫でしょうか?」

「……リリィ、か」


 呼びかけに応じて小さく呟くと同時に複雑な思いを抱く壱心。利三とリリアンの関係には色々とあった。当初は一方的な利三の片想いだったが、リリアンの想いを知った利三が彼女の幸せを願って身を引いたのはいつだったか。リリアンへの想いを吹っ切るように博多の町で利三が浮名を流すようになった時期もあった。壱心とリリアンが内縁の関係になって業務の関係以外では殆ど顔を合わせなくなった頃もあった。その後、利三が所帯を持ち複雑な思いでリリアンと会うようになり、それらの関係を時が解決し、利三が全てを呑み込むようになったのはいつだったか。


「壱心様、聞こえてますか? 入ってもよろしいでしょうか?」

「……あぁ」


 様々な思いを抱きつつ壱心はリリアンの入室を許可する。静々と入室した彼女は椅子に自らの体重を委ねている壱心の下へ迷わずに向かう。


「……利三さんのこと、聞きました」

「そうか……」

「優しい人でしたね……」

「あぁ……」


 思えば彼の優しさにつけ込み、商才があるからと言って自分のやってほしいことを押し付けていたような気がする。だと言うのに、彼が本当に欲しがっていたものは自分が取り上げてしまった。


(しかも、あいつのお蔭でここまで来たからと言ってリリィを手放すかと言われたら絶対に手放さないだろうという確信がある……とんだ糞兄貴だ。俺は)


 自嘲する壱心。そんな彼の心情を慮ってかリリアンは何も言うことなく彼の隣に寄り添うだけだ。しだいに、壱心の方から口を開く。


「次郎長に続き、利三も逝った……兄弟で残ったのは文と俺だけだ。次は俺だろうな……」

「そんな、弱気にならないでください。壱心様はまだお元気ではないですか」

「見た目は、な……利三だってそうだった。何が起きるか分からん。それにしてもウチの家系は急死が多いな……俺もそうなんだろうか」

「壱心様」


 強めの口調で窘めて来るリリアン。壱心はぼんやりと彼女のことを見ていた。無言の時間。しかし、やはり先に口を開くのは壱心だった。


「リリィ、利三はいい奴だったなぁ……」

「そうですね」

「何であいつが先に死んだんだろうか。あいつは俺と違って人殺しでもなかった。戦争屋でもない。本当にいい奴だったというのに……」

「……天寿を全うされたのでしょう」


 リリアンにそう言われて壱心は寂しそうに「そうか」とだけ呟いた。そんな覇気の薄くなった彼にリリアンは檄を飛ばす。


「壱心様にはまだやるべきことがたくさんあるはずです。ここで止まっていては天国の利三さんも安心できませんよ」

「……そうだな」

「利三さんだけじゃありません。壱心様を支えてくれた皆様が壱心様がこの先も活躍することを望んでいると思います」

「皆、か……」


 そう言われて、壱心は過去の思い出を呼び起こす。皆、後は任せたと言い残してはこの世を去って逝った。


「……残される側の身にもなってほしいものだな。後は任せたなんて、どれだけの重荷になると思ってるのか」


 遠い目をして苦笑する壱心に失言だったかもしれない。と、ちょっとだけ悪い事をしたかもしれないと身を竦ませるリリアン。その様子を見て壱心は更に苦笑した。


「……言いたいことは分かってる。安心しろ。まだ、倒れたりはしないさ」

「壱心様……」

「まぁ、前科がある身としては何とも言えないが……」


 それでも、前を向いて歩いていく。壱心はそう胸に刻み込むと差し当たってすべきことである利三の葬儀に出るために準備を整えるのだった。



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