1921年
1921年の初冬。壱心は油田を掘りに行った亜美の見送りに満州に行くことが出来なかった点以外はこの年も自分が思い描いていた未来につながる一年だったとして安堵の息を漏らしていた。一緒にいた桜はそれを聞いてくすくす笑う。
「大きな息でしたね」
「あぁ……厄介ごとが1つ片付いたものでな」
「厄介ごと……原敬暗殺事件の未然防止でしょうか?」
「それもあるな……」
史実では1921年の11月4日に東京駅で起きた原敬暗殺事件。それはこの世界線では壱心の手の者によって止められていた。
(彼の場合、最初は護衛に否定的だったから焦った。それにしても、この国は本当に暗殺が好きだな……まぁ、俺も人のことを言えた義理ではないが……)
幕末の頃に人斬りをやっていた壱心が言えることではないが、首相や大臣級の要人暗殺を幾度となく防いでいる壱心はそんなことを考える。そんな彼に桜は言った。
「止められてよかったですね」
「本当だ。ワシントン会議の前に無用な混乱を招かれても困る。何より、推薦したからには職務を全うしてもらいたいところだしな」
「そうですね」
原敬の主な政治活動は壱心の行動と一致している。即ち、外交における英米協調路線と内政における教育の推進、交通機関の整備、産業や貿易の促進、国防強化がそれに当たった。
「余計な説得が要らなくて済む相手にもう少し日本を引っ張って行ってもらいたいところだな」
「それはそうですが……そろそろ、福岡藩閥の方や立憲護国党の方も組閣したいと仰っている頃では?」
「そんなやりたいからやらせるなんて軽々なものではないし、気軽に決めることでもないが……そうだな。今は時期が悪い。少なくともワシントン会議が終わる来年……出来れば1924年まで後三年待ってもらおうか」
「あぁ、そうでしたね……」
何故、1923年ではないのか。それを思い出した桜は憂鬱な面持ちになる。
「関東大震災でしたか……」
「まぁ、その前に組閣して対応をこちらでやるというのも考えはしたんだが……」
「その方がよろしいのではないでしょうか?」
「……原君なら震災に対処できるんじゃないかと思ってるんだよな。念のため陸軍大臣はウチの息がかかってる……というより安川の息子だし、逓信省は立憲護国党から出してあるからラジオで色々と指示を出すことや戒厳令を
事前準備は万端であるとして壱心は自己満足しておく。この準備を無駄にされる訳には行かないので暗殺を実行させるには行かなかったのだ。加えて、原が極めて優秀であったことから人的リソースは使える時に使えるだけ使っておいた方が得だという打算もあった。
「関東大震災、出来る限り被害を食い止めたいところですが……」
「……どこまで口を出すか。怪しいところなんだよな……」
あまりやり過ぎれば予言者などとして今後、色々と面倒なことになる。しかし何もしなければ被害が大きい。その辺りの塩梅を見極めながら1923年を迎えることにする香月組中枢部。
それはさておき、壱心の溜息の原因が原敬暗殺事件を未然に防止できたことではないとすれば……と、桜はすぐに思い当たった。
「それはそうと、原様の一件でないとすると壱心様の溜息の原因はワシントン条約の締結ですか?」
桜の問いかけに壱心は頷く。
「あぁ……米英日仏の間で取り決められた四ヶ国条約だな。米国の圧力が薄かったことから日英同盟は維持できそうな見込みだという話でな……つい、息が漏れた」
「それはそれは……今後、史実との乖離が進みそうな話ですね」
「あぁ。だが、悪い話じゃない。これまでアメリカの顔色を窺って来ただけのことはあるよ」
ワシントン会議での四ヶ国条約。それは米英日仏の各国が太平洋方面に持つ領土や権益の相互尊重、及びそれによって生じる国際問題の平和的処理の仕方について定めたものだ。主な内容は太平洋諸島を要塞化しないことなどが挙げられる。だが、要塞化さえしなければ開発は容認されていることだ。抜け道など幾らでもあり、開発は既定路線となっている。
「そうですね……第一関門は突破というところでしょうか」
「そうだな。後は次の九ヶ国条約、そして海軍軍縮条約が問題になって来る」
アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中華民国で結ばれることになる九ヶ国条約。そして、米英日仏伊の五か国間で結ばれることになるワシントン海軍軍縮条約。史実ではそのどちらも日本にとって問題があった。
まず、九ヶ国条約。中国の主権、領土を定めるこの条約については中華民国の領土を明確に決めなかったことに加え、アメリカが日本の満州の特殊権益を認めていた石井・ランシング協定を破棄することが日本にとっての問題に挙げられる。
(九ヶ国条約についてはアメリカが権益を持つ朝鮮半島の防衛のため、満州の特殊権益は認められたままになる見込みがある。だが……中華民国の国境制定については色々と懸念事項があるんだよな……)
中華民国の主権と領土の決定。史実での九ヶ国条約は中華民国の主権が及ぶ範囲は清朝における最大領土圏内の全ての民族を含むことになる。そのため、モンゴル人や満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らが自治している地域まで中華民国がその野望の手を伸ばすことが出来るということになっていた。
(……この辺り、ややこしいことになりそうだがどうなることやら……)
壱心は一応、この辺りのことについて言及するように日本全権である加藤友三郎と幣原喜重郎に伝えてある。だが、恐らく発言したところで適当に処理されることになるだろう。列強の思惑として中華民国でボルシェビキの拡大に歯止めをかけたいという考えもあるからだ。
しかし、史実ではその辺りを曖昧にした結果、逆に中華民国においてボルシェビキの影響が強まることになる。壱心はそれを懸念していた。ただ、この辺りの問題に首を突っ込めば困るのは日本も同じことだ。そのため、懸念を伝える程度しか出来ない。
(まぁ、この辺りは流れに身を任せるしかないか……後の問題は海軍軍縮条約の方か……こっちも史実と違う方向に進むように手は打ってあるが……)
そしてワシントン条約のもう一つの問題である来年のワシントン海軍軍縮条約。これは主力艦、つまり戦艦や空母の保有制限と10年間の戦艦の建造禁止(ただし、20年の耐用年数を超えたものに関しては代替建造を認められた)を定めたもので、史実では保有制限について米英:日:伊仏が5:3:1.67となるように取り決めた。
この米英5に対して日本が3というのが国内防衛において問題となる。本来、日本の要求としては対米7割というのが目標だったのだが、アメリカによる暗号文の傍受と解読によって交渉における最低基準を引き出され、譲歩を迫られる形で対米6割にさせられたのだった。
(……一応、既に陸奥を完成させた上で暗号文の内容を対米7割を最低基準とすると変えさせておいたがどこまで進められることか……)
海軍における香月組の派閥でも有望視されている堀も同行させている今回の海軍軍縮会議。壱心はどれだけ譲歩を迫れるか期待しながら結果を待つ。
そんな折に元気よく扉が開いた。廊下からやって来たのは宇美だった。
「壱心様~! 亜美さんから手紙が届きましたよ!」
「おぉ、元気そうか?」
「元気にしてるみたいですよ! 満州は寒いみたいですね。はい、手紙です」
手紙を受け取り、中身を確認する壱心。内容は業務連絡と私的な連絡事項の二つがあったが元気でやっているのは間違いなさそうだった。
(……向こうも上手くやっているようだな。こちらも頑張らねば……)
手紙を読みながら軽く頬を緩めた壱心は手紙を読み終える頃にはそう改め、自らも頑張らねばと気を奮わせるのだった。
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