大正時代

救貧院

 1913年の夏。壱心が咲夜と桜を連れて福岡にある救貧院を尋ねると一室だけ空気の違う立派な設えをした部屋に通され、経営者の男とこの救貧院の院長による歓待を受けていた。


「閣下、本日もこの様な場所にわざわざ足を運んでいただき誠にありがとうございます。本来であれば我々がお伺いさせていただくべきところですが……」

「御託はいいから本題に入らせてくれ。あまり時間がなくてな……」

「えぇ、えぇ……すぐに呼ばせていただきます。おい、勇と宮子を」

「畏まりました」


 すぐに名を挙げられた人物を呼びに行く院長。因みに彼女は遊女上がりで隠密組に入った元香月組の人間だ。所作でわかる。そんな彼女を見送って程なく、男女の学生が入って来た。


「お、お初お目にかかります。私は波呂 勇と申します」

「……原田 宮子です。よろしくお願いいたします」


 詰襟の黒い学生服を着た波呂と女袴に銘仙の着物を着た原田が並ぶ。波呂は緊張した面持ちながらなかなかの美少年だ。原田は緊張のあまり無表情に近い。


「こ、この二名になりますが……」


 初対面の印象があまりよくない感じになっているのを受けてもっと事前に練習をさせればよかったと後悔しながら経営者の男は壱心に尋ねる。壱心は取り敢えず目を閉じて考える素振りを見せた後に頷いた。


「まぁ、面談してから決める。席を外してくれ」

「か、畏まりました」


 壱心の言葉を受けて経営者の男と院長が去っていく。残された子どもたちは緊張したまま棒立ちで、壱心の言葉を待っていた。だが、口を開いたのは女袴に上物の絹で出来た淡い風合いの色をした振袖を来た桜だった。


「くすくす……そう緊張せずに。どうぞ、席についてください」

「し、失礼します!」

「失礼します……」


 経営者の男と院長が座っていた席に座る二人。口を開くのはやはり桜だ。


「五高の生徒さんで、香月組の奨学生の波呂君ですね。優秀だと聞いています」


 五高とは第五高等学校の略称だ。史実であれば熊本に設置されるのだが、壱心の介入によって福岡に五高が置かれている。その後、学区制が廃止されてから熊本にも高等学校が設置された。そのため、この世界線のエリートスクール、いわゆるN高は第一高等学校から第九高等学校の九つとなっている。

 当然、そんなエリートスクールに入っていることだけでもかなりの秀才であると窺えるが、香月組の奨学金を貰っているということは更にその中でも優れた人材ということになる。だが、波呂は謙遜してみせた。


「浅学ながら閣下の奨学金を日々の糧にして頑張らせていただいております」

「そしてこちらが黒田高等学校の今期首席で同じく奨学生の原田さん。女だてらに大学予科総合で三年間首席を譲らなかったとのことですが……」

「……これもひとえに閣下のご助力があってこそのことです。この場をお借りして、御礼申し上げます」


 深々と頭を下げる二人。壱心としては制度が役立っていて嬉しいものだ。それにしても、と壱心は原田の方を見る。一見すれば地味な少女だが、黒田高等学校……壱心が創設した学校で総合首位を三年譲らなかったというのは相当な才女だ。

 そして波呂の方だが、こちらは学校令によって作られた高等学校の優秀な生徒ということで年に一度程度見る程度の人材だ。机上の秀才かそれとも本物の奇才かが楽しみなところである。


「うむ、二人とも顔を上げてくれ。これから幾つかの質問をするがいいか?」

「は、はい」


 まずは救貧院の現状や居心地が悪くないかどうかの話や近頃の学生がどのような生活を行っているのかについて、軽い雑談形式で話に入る壱心。波呂、原田の二人は非常に真面目で模範的な学生としての生活を送っているとのことだ。


(……まぁ、奨学金を貰ってるのに遊んでますとは言えないだろうから仕方ないと言えば仕方ないが……普通に面白くないな)


 もっと若者らしい初々しい話を期待していた壱心はこちらを慮って話す彼らの話に飽きて来た。しかし、優秀という点では事前情報通りそうだ。そう壱心が考えたところを見計ったかのように桜が口を挟んできた。


「壱心様、そろそろ本題の方に入りましょう」

「そうだな……二人が有望なのは十二分に分かった。これからその才能を活かしてどんなことをしてみたい?」

「私は孤児みなしごながらここまで来れた恩返しをしたいと思っています。具体的には西新研究所に入って新薬の開発に取り組みたいと考えておりまして……」


 それであれば真っ当に進学すれば壱心が何かする必要はないだろう。壱心の興味は彼から失われつつあった。一通りの話を聞いた後に壱心は彼に激励の言葉をかけて次は原田の方に移る。

 しかし、こちらも壱心が興味を示すような解答は見られなかった。壱心は二人に激励の言葉を投げかけるとそのまま退室し、経営者の男と院長を呼んでくるように言った。桜と二人きりになったところで壱心は息をついた。


「……ふぅ。面白い人材には中々出会えないな……」

「今のところ壱心様が目をかけてらっしゃるのは石橋様と広田様ぐらいですか?」


 壱心は微妙な顔をして頷く。彼女の言う石橋は石橋信康という史実では全く無名の男。そして広田は広田弘毅のことを指している。こちらは史実で後に総理大臣となった男である。どちらも壱心の息子である鉄心と同じ三十半ばの若手で今からが楽しみな有望株だが壱心としては少々聞き分けが良すぎて不安なところだった。


「……まぁ、そうだな。まず間違いなく二人とも偉くなるだろう。特に広田は俺が居なかったとしても偉くなっていただろうな」

「そうなんですか」

「あぁ」


 そんな話をしている内に経営者の男と院長が部屋に戻って来る。彼らは入室するなりすぐに頭を下げた。


「ご足労いただいたところ申し訳ございません。今回も……でしょうか」

「あぁ。彼らには好きな人生を歩ませてやってくれ」

「畏まりました。此度は誠にありがとうございます。波呂や原田にとってよい経験となったでしょう」

「うん」


 そう言いながら席を立つ壱心。用が済んだ以上、ここにいる必要もない。一行は救貧院を後にする。救貧院を出てすぐに車に乗り込んだ壱心は咲夜に運転を任せて桜と後部座席で話を始めた。因みに、香月組で量産されているガソリンエンジンの国産車だ。


「次の予定は亜美さんとの会合ですね」

「そうだな。久し振りに会うが……元気だろうか」

「特に妙な噂などはないので大丈夫かと」


 近頃は離れ離れになる事が多くなっている亜美。特に最近は樺太で須見から分家した油谷と共に開発事業を営んでおり、戻ることが少ない。


「……鉄心もいればよかったんだがな」

「あの子はあの子で忙しいですからね」


 香月の名も手伝ってか異例の速度で昇進し、陸軍の中佐となっている息子のことを思いながら呟く壱心。だが、流石は亜美の息子とでも言うべきかその処理能力は非常に高く人望も厚いとのことだ。こちらの将来も楽しみである。


「……今回はこれぞという人材ではなかったが、それでも西新研究所に新しい人が入るだろうし、大正という時代に入ってからは女性運動も盛んになって職業の幅が増えるだろう。これからが楽しみだな……」

「日本の未来を担う人材が増えているのはいい事ですね」

「まぁ、だからといって後進に道を譲るにはまだ早いがな……」


 見た目は息子と変わらない年代の壱心はそう言って苦笑する。いつまで経っても後進に道を譲らない邪魔者扱いされてもおかしくない年齢に入っていることを自覚しているからだ。


(そろそろ隠居してもいいと思うんだが……まぁ、この見た目じゃまだ無理かな。実際、体力もそんなに落ちてないし……何より、やるべきことを果たしていない)


 世の中は大正デモクラシーで民主主義の気運が高まっている頃。新たな時代の中で壱心は後進たちに出来ることを増やすべくまだまだ活動を続けるのだった。



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