明治の終わり
1912年夏。清国が倒れ、中華民国が興り半年ほど経過した頃。新たな国交樹立のために様々な動きを水面下で図っている中、東京でそれらの対応をしていた壱心の下に密使が訪れた。
「閣下、宮内より使いの者が」
「……応接間にお連れしろ」
「畏まりました」
執務室から立ち上がり、壱心は移動する。程なくして咲の後任である咲夜に連れられて厳かな顔をした密使が壱心の応接室に入って来た。彼は咲夜の方をちらりと見た後に壱心を見て無言で圧を加える。どうやら、咲夜に退出して欲しいみたいだが壱心はそれを察した上で無視して口上を促した。
「……用件は?」
「国家の一大機密に当たります。お人払いを」
無言の圧ではなく、直接的な諫言を受けた壱心は流石に無視するわけにもいかず目とあごで咲夜を動かした。それを受けた咲夜はすぐにその場を去って即座に少し離れた部屋の天井裏に潜み、壱心のいる応接間の天井裏に気配を殺して戻る。
完全に余談だが、壱心の活動する範囲においては天上裏まで当番制で掃除するのが常になっている。また、所々で罠が仕掛けられているという有様だ。当然、仕掛けた側である咲夜たちには問題ないが。
そんなことなどまったく知らない密使は咲夜がいなくなったものと見て重々しく口を開いた。
「……陛下がご危篤にあらせられます。カンフル剤の投与を行っておりますが……」
「そうか」
「……何か打つ手はないのでしょうか? 閣下であれば、何かできることも……」
見た目が変わらず、その身体能力においてもとても実年齢のものと見られない壱心に囁かれている噂話を当てにした密使から期待をかけられる。
しかし、今回はそれに応えることは出来ない。というよりも、それに応えるにはもう遅すぎた。壱心の下に天皇陛下の罹病が知らされた時……いや、それ以前に壱心が歴史上の事実として知っている明治天皇の糖尿病並びに尿毒症という問題に対して早期に対応するにも治療法である腎移植、並びにダイアライザーを用いた血液透析の両方とも時代と慣例にそぐわずに実現できなかったのが大きな要因だ。
そのため、密使の問いに対して壱心は黙って首を横に振る。密使の男は落胆の色を隠せなかった。
「そう、ですか……」
「あぁ」
淡白な壱心に密使の男も少し思うところはあっただろうが、壱心の方からは特に問いなどもなく、密使が一方的に今後の予定を話した後は会話が切れたままだったため、彼は何も言わずに退室する。それを見送ってから壱心は窓の外を見た。
「……時代が、また一つ終わるか」
明治天皇とも立場上、幾度となく話はしたことがある。彼の御仁は
だが、それらを偲ぶ悲しみよりも壱心が感じたのは明治という変化に富んだ長い時代を大きな問題なく順調にやり通せたという達成感だった。
(明治が終わる中で日清、日露戦争が終わった。ロシアに勝ったことで日本も正式に列強入りしたということになるが、問題はここからだ……)
そう。問題はここからになる。これからもこれまでのように日本にとって順調に物語が進むのであれば、壱心が歴史に介入する必要性は一切なかった。日清戦争も日露戦争も彼が絡まずとも史実として勝利は出来るのだから。そのこれからの問題に壱心は頭を悩ませる。
(避けなければならないのは第二次世界大戦での太平洋戦争。最悪中の最悪、紛争自体が起こることは想定した上で、大規模な戦争になるのだけは止める。そのためにはその前の段階における経済戦争で進退窮まるなんてことがないようにするのが前提となるな……)
大戦の鍵となるのはABCD包囲網。そしてその要因となるのが大陸進出だ。壱心はその要因を止めるために国民たちに大陸へ意識を向けようとさせる軍部に対し強烈な睨みを利かせながら国民が現状に満足していられるように国内の発展に尽力していた。
だが、それでも過去の二度の戦争によって得られた利権に目を向けたがる人々は後を絶たない。それらに対して壱心は今のところ、別方向からの接触を図るように勧めている。
即ち、公としては中華民国を認証しながらも中国各地に分布して覇権を握ろうとしている軍閥に対して民間による経済的なアプローチを競争的に仕掛けるという死の商人に似たやり口だ。
(大陸に武力介入せずともやりようは幾らでもある。今、中華民国が出来たばかりで彼の地が軍閥に分かれているこの不安定なこの時期こそが日本が合法的に存在感を示す介入のチャンスだ……)
清から中華民国になった大陸に目を向ける壱心。どうしても中国市場は魅力的に見え、介入したいと思うものが後を絶たないのは分かっていたことだ。それを完全にシャットアウトすることは出来ない。だが、ある程度欲をコントロールして武力ではなく経済的、文化的な介入へとシフトさせることは何とか出来た。
尤も、経済介入の失敗は武力介入に繋がりやすい非常に危険な綱渡りだ。それを成功……最悪でも失敗した時に歯止めが利くように国内情勢を整えてきたのが壱心の静かな奮闘になる。
勿論、行き届いていない点が多く、不安は残るがそれでも前を向いてやっていく他ない。壱心は明治の代が開けてからすぐに起こることに対して目を向ける。
(……直に第一次世界大戦が始まる。国家の野心が大きく燃え上がる切っ掛けだ。それと同時に、その野心に目をつけられて諸外国からの睨みがきつくなる。それを回避するには……まずは、国外に対して消極的な反応を示すためにイギリスの参戦要求に対して乗り気でないことを強く示しておくべきだな……)
第一次世界大戦における日英同盟による日本参戦は既定路線だ。だが、史実通りに進めばほぼ間違いなくイギリス政府の要求は二転三転する。それに対して日本の動きも基本的には不参加と言う名で高みの見物を決め込みながら第一次世界大戦の長期化とドイツの東洋艦隊の活動が活発になってイギリスが本格的に泣きついて来てから動けばいい。
(……取り敢えず、今のところは順調だ)
壱心はそう考える。国内の開発もそうだが、壱心が何よりも現状が上手く行っていると感じているのは樺太油田の開発によるものだった。史実ではソ連との外交によって利権こそ得られたものの当のソ連による妨害によって採掘が出来なかった彼の地域だが、日露戦争で土地ごと貰っている現状、ロシアによる邪魔は一切入らずに採掘できている。
特に亜美が弥子から得た知識によって採掘、製油のプロセスも問題なく行われており、現状で高オクタン価ガソリンの精製すら出来そうな勢いだった。
(樺太プロジェクトが凄い勢いで進んでいる……ロシアが色々と動いているのが気になるところだが、ウチの厳重な警備の上、第一次世界大戦が迫っている以上どうにもならないだろう)
そう見立てておく壱心。当然、樺太の石油採掘量では日本の軍需と民需に対して全く足りないが、研究するには不足しない量だ。大慶油田を発見したとしても十分に対処できるように今から技術者を育てている。この上で外交と外国の情勢の波もある程度は読めている現状、このまま行けば大きな問題はないはずだ。
(後は……この波の中で、それらの波を知る俺がいなくならなければ問題はない、はずだ……)
息をつく壱心。今、壱心がやっている極秘事項は壱心がいるからこそ出来ていることであり、壱心がいなくなり、仮に野心ある者に資料が渡ればその有益性と将来性に目をつけてその野心を一気に燃え広がらせることだろう。
(必要なことだが、同時に危険な綱渡りばかりしているな。俺がいる間はどうにか出来ると考えてはいるが、将来の問題にも手をつけなければならないな……)
壱心がそんなことを考えているところに咲夜が戻って来る。彼女は宮内の使者を無事に送り返したようだった。その姿に咲の面影を見た壱心は呟く。
「……俺も後進を何とかしなければな」
「どうかなされましたか?」
「いや……」
何でもないと頭を振る壱心。明治という一つの時代が終わりを迎えようとする中で壱心は大正という新たな時代に身を投じるのだった。
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