変化の年
1911年。この年は壱心の身の回りに大きな出来事があった年だった。
まず一つ目。これはいいことで、亜美と壱心の連名研究が上手く行き、紆余曲折はあったものの彼女の論文の正当性が認められることによって史実のドイツに先んじてハーバーボッシュ法によるアンモニアの工業製法に関する特許が得られた。
ハーバーボッシュ法に関しては元々壱心が20世紀に入る前に提出しておいた論文があったのだが後進国であり、欧米的な高等教育も受けていない寺子屋上がりの黄色人の発明など信じられないとして学会で取り上げられること自体がなかった。
しかし、研究者の名が日露戦争によって名を挙げた香月という名と同一の存在であると知られると注目が集まり、その内容を確かめてみる事でフリッツ・ハーバーやカール・ボッシュと共に発明者として名が乗るようになった。
そして、具体的な工業製法について香月のファミリーネームがついた人物から続く発明がされたことにより特許が認められる運びとなったのだ。しかも、理論上の話を乗せただけで高温高圧の際に水素の強い反応が問題を起こすが導管に軟鉄と鋼鉄を組み合わせるなどの情報は乗せていない不十分な状態で、だ。
これに対する欧米諸国の反応はやはり後進国の黄色人種、しかも女性の発明した技術だとして真剣に取り合わないことだった。そのおまけに独自ルートでの開発を試みるとのことで導入までしばらくかかりそうだというおまけつきだ。
ただ、研究の進んでいたドイツの研究者たちだけが真実であると判断して亜美の下を訪問することになった。だが、どれだけ
因みに、これらの特許に関して壱心たちの当初の計画では国内の極秘事業として話を進め、第一次世界大戦でドイツが敗北してその特許を手放すのを待つ予定だったが、様々な問題を孕むことにより桜からそれは難しいという発言が繰り返しあったことで急ぎ計画を進めたことになる。
続く二つ目は悪い事だった。彼の実弟である香月次郎長がこの年の夏に帰らぬ人となったのだ。若い時分より壱心の指示によって各地を転戦し、戊辰戦争から西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦い抜き、近年は元老として山縣に比肩する存在感を示そうとしていた彼だが、何の前触れもなく心筋梗塞で亡くなった。大勢の子どもや孫たちが悲しむ中、香月組を含めた参列者たちは膨大な数になっており、壮大な葬式が行われた。享年、61歳だった。
これを受けた壱心は悲嘆し、亜美の研究に一区切りがついたことによりそろそろ旅立とうとしていた咲の旅立ちを遅らせた。咲にも思うところはあったが、今回の混乱に際して仕方がないとして半年の猶予を与える運びとなった。
その間に発生したのが三つ目となる清国での武昌新軍の蜂起だ。後に辛亥革命の起こりとなるこの事件に際して壱心はノータッチで話を進めることにした。
勿論、史実通りに財界含めた各方面が色々と動いているのに対しては止めることも促すこともしておらず、手出しはしていない。
この動乱に際しての国内の所感としては「また」清国で動乱が起きているらしい。いつものことだろうからすぐに鎮圧されるだろうという大多数の見方の他に、今回こそは介入して清国に動乱を齎そうという動きがあった。特に、日露戦争後は日本に清国の活動家が軍学の他、様々な分野の学問を学びに来ることが多く、国内でも様々な分野の人が色々と関わる機会が多かったことも活動家を援助をする際の切っ掛けになっているだろう。
その他にも工場法の公布や大逆事件犯の処刑など色々とあったが、壱心にとって大きな出来事となる最後の四つ目がこれから起こることだ。
これから壱心は遅らせていた咲の出立を見届けることになる。
「……それでは長らくお世話になりました」
季節は厳冬。冬の装いをした咲は傍に付き人を従えて駅のホームにいた。その前には香月組の主要女性陣が揃っている。壱心は別の会合が長引いてしまい、到着まで少し時間がかかると連絡があり、今は待ち時間となっていた。
「寂しくなりますね」
「……別に、私は基本的に京都にいましたしそこまででもないのでは?」
「気持ち的な問題ですよ」
リリアンの言葉に咲は無表情に答える。古い付き合いだが、常に裏方にいた咲との接点はそこまで多くない。そんな中、立場の異なる桜が口を開く。
「……本当に寂しいものですね。私たちの中でも離れる人が出て来るのは避けられないものとは分かっていますが」
「あなたがそう言うとは驚きですね……」
「驚いた様子も見せずによく言いますよ」
「お互い様では?」
幾度となく繰り広げられてきた軽口の応酬。かつて、横井の紹介で出会った時の尖った関係は年月が丸くしてくれた。それでも二人の間には少しライバル視に似た感情があったのは間違いない。桜は少しだけ困った顔になって咲に告げる。
「いえ、私は本当に寂しいです。どんな顔をしたらいいのか分からないだけで」
「……そうですか。人間らしくなったものです」
「えぇ、本当に……」
咲の棘のある返事に少しだけ苦笑しながら桜はそう応じた。悪坊主がこの世界にやって来て生まれ落ちた木の精霊は悪坊主が消えたことによってその特異性を薄くし、今や普通より賢しいだけの少女になっている。
対する咲も悪坊主の薬の影響が薄れており、実年齢からは程遠いもののある程度年齢を帯びた女性となっている。二人を見ていればまるで親子のように見えなくもなかった。そんな親し気に、時に揶揄うようにしながら続けていた桜との会話にも区切りをつけて咲は亜美のことを見据えて告げる。
「……壱心様のこと、裏のこと、頼みました」
強い視線。亜美は一歩も動かずにしかとその双眸を見返して頷き、答える。
「……頼まれました。あなたも、お元気で」
「えぇ」
引継ぎなどで既に語りたいことは多く語っている。二人の最後のやり取りは軽くこの程度だった。残った長い付き合いの面子は宇美のみ。ただ、彼女は壱心の自宅並びに周辺警護の任務を主に担当していたため、リリアンと同じくらいに咲との接点は薄い。
だが、だからこそ彼女は踏み込んだのかもしれない。宇美は皆がしんみりとしている中で殊更明るい口調で尋ねる。
「で、咲さんに最後に聞いておきたいことがあるんですけど~」
「……何ですか?」
「壱心様のこと、どう思ってたんですか?」
「……いい依頼主でした。仕え甲斐のある、聡明な方ですね」
さらりと答える咲。宇美は興味津々という態で更に追撃してくる。
「も~! そうじゃなくてですね~」
「悪い事でも聞きたかったんですか? では、自分が出来ることなら周囲も出来ると思っている姿勢はあまりよくなかったですね。後、私には金を出せばある程度の無茶に応じてくれるという困った信頼も……」
「そうでもなくてですね……男女として、どうだったんですか?」
悪戯っぽく笑う宇美。周囲も反応を示している。そんな視線を一身に受けて咲は溜息をついた。
「邪推するのは自由ですが、そう言った関係は全くありませんでした。個人的には無茶ばかりする危なっかしい人だと思いますが……かけがえのない恩人で、いい関係だったと思いますよ」
どこか憧憬を孕んだ視線を遠くに向け、そう呟く咲。宇美はそうじゃないと言いたいところだったが、どうやらタイムアップの様だ。壱心が走って来るのが見える。
「間に合ったか……だが、電車の出立まで時間がないな。すまない、咲」
「いえ、お忙しい中見送りに来ていただいただけありがたいです」
「それくらいはさせてもらわないと罰が当たる」
二人きりのやり取りが始まるのを宇美は少し離れたところから見つつ、彼女はリリアンに告げる。
「あれで好きじゃないって言うんだから何かなーって感じだよねぇ」
「……人には人のいろんな思いがあるんですよ、きっと」
「そうかなー……」
間もなく、電車が発車する時間だ。咲が電車に乗り込み、深々と一礼する。
「では、ありがとうございました……」
扉が閉まり、電車が去る。壱心たちはその電車の姿が完全に見えなくなるまでその場に残るのだった。
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