元老
1910年。熊谷内閣の下、小村寿太郎の手によって史実よりも一年早く関税自主権を完全回復した日本の首都、東京市にて壱心は山縣有朋と会談をしていた。
「私の様な一介の武弁のお誘いにようこそおいでくださいました。変わらず、ご健勝そうですな」
「いえいえ、山縣さんのお誘いとあればすぐに伺いますよ」
出会い頭に内心とは真逆のことを宣いつつ席に着く壱心。山縣の隣には寺内正毅の他数名が控えており、壱心の隣には咲と最近になって壱心が後進を育ててみようと思って外出等の行動を共にしている者が数名控えている。それに山縣も気づいたようだ。
「……珍しいですな。香月殿が大勢の人を連れて出歩くなど」
「私も年になりましたからね。山縣さんのように後進を育てようと思い始めるのは当然でして」
「ふむ……初めまして。この人についてよく勉強しておくといい。そうすれば一流と呼ばれる人になれる。真似出来るようになれば傑物だ。頑張りなさい」
(随分とリップサービスしてくれるんだな……)
壱心がそんなことを思いながら山縣の後方に控えている面々に挨拶すると山縣の方から近況報告を始め、話が始まった。最初の話題は身近にいる者たちの後進育成についてだったが、次第にそれは愚痴っぽくなっていく。
「我々も長生きしてしまいましたな。近頃は陸軍の後輩たちが次々と死んでいくのを聞き、心が痛むものです」
「そうですね……仲間が欠けていくのは残念なことです」
山縣の発言に応じたところでちらりと咲の方を見やる壱心。しかし、彼女は特に何の表情も浮かべていなかった。彼女の任期も残り僅か。心変わりをするつもりはないらしく、壱心にも寂寥感が募る。だが、今は山縣との会談中。その話は置いておくことにする。
「不老と謳われる香月殿でしたら猶更のことでしょうな……」
「別に、不老という訳ではございませんが」
「健康の秘訣を是非とも知りたいところですが」
「まぁ、色々とやってはおりますな」
西新研究所で健康にいいものを作っているのは事実であり、また当人が漢方薬を作って飲んでいるのも事実だ。ただ、当然のことながら本命となる雷雲仙人の妙薬については伏せて話をしておく。だが、壱心が現在やっている健康法でも山縣の興味は引けたようで後程色々と届けることになる。それにより幾分か山縣の心証もよくなったようだ。
「成程成程……ありがとうございます。国内外を問わず、まだまだ気になる事が多くあり、この老骨ももう少し頑張りたいと思っているところでして……」
「えぇ、私としても先生のお力を期待しております」
「……左様でございますか」
どこか壱心の物言いに引っ掛かるところを覚えたのか、山縣の勢いが削がれる。そんな中、壱心は時計を確認すると切り出した。
「さて、前置きはこれくらいにして……本日のご用向きは朝鮮についての話と伺っていますが」
「……はい。是非とも、朝鮮併合のために閣下の力をお借りしたい、と」
山縣から切り出されたのは壱心の思想とは異なる考えだった。一応、壱心は先に言っておく。
「私は西郷さんたちが居た頃……明治になる前から征韓論には反対と宣言しているのはご存知ですよね?」
「はい、ですが状況は変わっております。この大日本帝国を守る為に彼の地は抑えておくべき地なのは閣下ともあろうお方でしたらご賢察に難くないでしょう。また、閣下のご指導の下、日本がロシアを打ち破り列強に入った今、経済的に強くなるには彼の地を取り込むことが不可欠かと」
「……ふむ、まぁ意見として聞いておきますが……」
「聞いていただくだけでは足りないのです。是非、ご検討ください」
強い眼差し。壱心はそれを受けて溜息をついた。
「経済的に強くなるには彼の地を取り込む……ですか、ではその見込みはどこから来るんでしょうか?」
「植民地政策です。欧米列強はそうしてみんな強くなりました」
「植民地政策は余程その地に旨味がない限りは成功しません。彼の地は大規模農業を行える気候でもなく、大規模な投資計画を実行してそれを賄えるだけ地下資源が豊富というわけでもない。大航海時代の略奪主体ならともかく、普通にやれば赤字は間違いないでしょう。それよりも国内……特に未開発な東北の開発に力をかけた方がいい」
「その根拠は」
壱心は山縣の方は何の根拠もない話を持ち掛けているのに自分の話には何らかの根拠が必要なのかと苦笑しそうになるがそれを飲み込んで咲に資料を出させる。
「まぁ、今すぐに全部見ろと言う訳ではないので概要を簡単に説明させてもらいますが……」
「……!? 鉄道の敷設権をアメリカにも認める!? これはどういうことですか!」
幾つか資料はあった。だがその内の一つを取り出してデータ云々よりも先に資料の中の見出しの一つだったそこに食いついて来たかと、壱心は目敏い山縣に感心しながら説明する。
「仮に、開発するならという話ですよ」
「多くの国民の犠牲の下に何とか勝ち取った権利をそんなに簡単に手放すと!?」
「皆、この国の安全のために殉じた。その国を強く守り抜くのは生き残った我々の役目だ。簡単には手放しませんよ……計画を見てください」
しかし、山縣は計画が酷くお気に召さなかったようで壱心の話を聞き入れない。
「アメリカに渡す必要はない。何のために桂・タフト条約でフィリピンをアメリカに渡したと思っている!」
「計画を見てください。既に抑えてある京釜線、京義線、京元線、湖南線という韓国内の主要な幹線は日本がそのまま抑えてローカル線については外国に任せる。これが国防と経済を考えた上で一番楽な案になります」
「楽かどうかではないだろう! 香月閣下、あなたは必要であればどんな艱難辛苦も乗り越えるお方だと思っていた!」
「……そりゃ、必要であればの話ですよね? 私はこの国……日本を強くするのが目的であって朝鮮を富ませることは必要ではないので」
冷たく言い放つ壱心。彼は一瞬言葉を詰まらせた山縣に続けて言う。
「確かに、軍事拠点として彼の地を抑えるために最低限のインフラ整備を行ってますが、それ以上のことをするつもりはないんですよ。それ以上のことをするくらいであれば国内のインフラ整備に力を入れたいので」
「何を……アジア一丸となって欧米列強に立ち向かわなければならぬというのに」
「そうですね。ただ、この国がそう思ったところで韓国からすれば余計なお世話だと思われるのが関の山です」
「でしたら、閣下はどうするつもりなんですか」
そう問われて壱心は少しだけ笑った。
「何、時が来れば分かります。そうですね……取り敢えずは、併合せずに今の政権の動きを見てもらえれば」
「……何をなさるおつもりで?」
「色々と。ただ、この国にとって悪いようにはしませんよ……ただ、そうですね。再来年……そう、再来年にはアジアの情勢が大きく変わると言っておきます。そして十年以内には世界の情勢が大きく変わると言っておきましょう」
山縣は無言だった。しかし、壱心から何かを感じ取ったのか頷く。
「……わかりました。では、二年の間、韓国併合は見送りましょう」
その発言を受けて山縣の後ろに控えていた男たちの間に動揺が走る。あの山縣が簡単に折れたことに対するものだ。香月壱心という人物についての噂などは聞いていたが、ここまで簡単に自分たちの先生の意思を曲げることが出来る程の人なのかという驚きだった。だが、これはただの駆け引きの一種で、今自分は言質を取られただけだと理解している壱心はそれを気にせずに頭を下げる。
「ご理解いただきありがとうございます」
「……ただし、何事もなければ韓国併合を既定路線とさせていただきます。よろしいですな?」
「えぇ、何事もなければ、ですが」
一仕事終えた壱心は重圧から解放される。それは山縣も同じようだった。
「さて、今日の大きな議題を終えたところで次の話と行きますか……」
「そうですね」
この後も壱心と山縣は二時間程、対談を続けることになる。それによって日本のこれからの動きが決まっていくのだった。
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