1909年

 1909年、日本では前年に戊申詔書にて社会主義や個人主義を抑える詔が出された翌年となる年に壱心はまた手紙を読んでいた。今回、読んでいるのも朝鮮で統監府の長をやっている安川からのものだ。


「……まぁ、単独犯の暗殺なんざこの程度か」


 手紙を読み終えた壱心はそれを机の上に投げて伸びをする。安川の手紙の内容はハルビン駅にて襲撃を受けそうになったこと。そして相手が銃を抜いた時点で通訳として雇っていたはずの壱心の手の者が安川をその場に転がして暗殺者の方に素早く距離を詰め、強烈な当身をして怯んだ暗殺者の背後に回るとその肩を外してその後、暗殺者の逆の肩も外し、何のためか不明だが両足を圧し折ってその場に屈服させたというものだった。

 銃相手に全く怯むことなく行われた人外染みた素早い対応。これは事前に壱心の方で何が起きるのか把握している状態で、咲夜という咲が後任に推すだけの実力を持った者が護衛についていたからこそ成し遂げられたことだった。


 そんな妙技によって九死に一生を得た安川の手紙の内容は暗殺者の述懐を受けての嘆きが綴られていた。


(暗殺者曰く、日本は本当は日露戦争の名分通りに韓国を独立させて親密な関係を築いて行こうとしているが、現実に出来ないのは全て日本の大政治家で老賊である安川の仕業だということらしいが……どんな思考回路をしてるんだ……)


 史実と同じく併合を止めている側の人間を襲撃しているという事実すら知らずに目に見える範囲の情報のみを頼りに裏取りもせず、直情的な行動を起こした相手にそんなことを考える壱心。取り敢えず、安川には大事に至らずに何よりという言葉と共に労いの言葉を返しておいた。

 そして、手紙を書き終えると彼は席を立ち、窓から手入れの行き届いた庭を眺める。


(これで反韓が史実に比べて少し抑えられる。同時に韓国併合までもう少し時間を稼げるな……本来ならさっさとアメリカ辺りに売り飛ばしたいところだったが……流石に、今の情勢でそれは出来ん。まぁ史実だと今年の7月に決められるはずだった韓国併合の方針も見送りされたし、方向性としては悪くはないだろ……)


 今後の予定を考えつつ壱心は自身がやって来たことの正当性を確認する。日本の介入が薄いことで史実と比べて朝鮮の開発は非常に遅々として進まないが、それは致し方ないこととして割り切り、日本に出血を強いる大陸進出についてどうするかを考えておく。


(どうするか、と言っても今は待ちだな。清が中華民国になって軍閥に分かれるのとロシアがソ連になるのを待ちつつ、出来れば朝鮮を日本単独では開発が進まないとかの理由をつけて共同開発の名目で英米辺りに売り飛ばして借金返済に織り込みながら日本の物理的な大陸進出に歯止めをかけたいところだが……)


 中華民国設立がこれから三年後、ソ連の誕生が八年後だ。アジアを取り巻く情勢が激変しようとする中で日本も国際社会の一員……引いては大国の一つとして様々な形で動いていく必要がある。壱心の目標としては日本の軍事力ハードパワーでの大陸進出は抑えつつ経済・外交ソフトパワーでの大陸進出を進めていくことが是となる。そのためには強い経済が必要だ。


(今後も地方都市の開発が必要になって来るな……既に人口は6500万を超えたが、まだ農業人口が国の殆どを占めている現状。農業も大切だが、生産性を向上させて労働力を余らせる方向に向かわせて工業国へとシフトを促さなければ……)


 強い経済を目指すための次の手については既に考えてある。目下、そのために亜美を北の大地へと送り出しているのだ。その代わりに最後の仕事として咲が壱心の傍付きになっている。

 そんな彼女は壱心が立ち上がって何をするわけでもなく外を眺め続けているのを受けて声を掛けた。


「一段落したのでしょうか? でしたら、お茶でも?」

「……あぁ、そうしてくれ」


 咲は壱心の言葉を受けて一度部屋を出て家人に声を掛け、戻って来る。二人きりの空間。壱心は先程まで頭の中で考えていた話題を話そうとして彼女がそういった政の話を特に好んではしないことを思い出して少しためらい、別の言葉を掛けた。


「……今日一番の報告は亜美からの手紙だったな。あいつの窒素化学合成プラントも軌道に乗って日産1トンに上りそうだ。ゆくゆくは日産30トンに持って行くつもりらしいが……まぁ、まだ後一年はかかるだろうな」

「左様でございますか。でしたら、私の残り任期は後一年といったところになりますね」

「……そういうつもりで言ったんじゃないんだがな……」

「そうですか」


 何とも言い難い返答を受けて壱心は次の言葉を濁して失う。対する咲は涼しい顔をしていた。いつもの超然とした表情。何を考えているのかよく分からない顔だ。

 その横顔に壱心は少しだけ見惚れるが咲は何も言わない。静けさが場に降りる。その静寂を破る様に元気な声が扉を開いてやって来た。


「壱心様~! 咲さ~ん! お茶が入りましたよ~!」

「……宇美、ですか」

「え~何で今がっかりされたんですか?」

「いえ、いつも賑やかだなと思っただけですが」


 特に抑揚のない言葉。この場に現れた宇美は机の上に持ってきたお茶と八女茶が入った抹茶羊羹を置いて首を傾げていたが、何かに納得するように頷くと扉の方へと戻っていく。


「まぁいいや。私もリリィちゃんとお茶してこよーっと」

「……珍しいですね」

「珍しくないですよー? 私とリリィちゃん仲良しですから!」

「いえ、日頃の貴方でしたら全員で……」


 そう言いかけて咲は続きを言うのを止めた。宇美は咲が続きを言うことを止めたのに気付いて笑う。


「まぁ、私も大人ですから!」

「お婆ちゃんもいいところでしょうに」

「あー! それは言わない約束ってものでしょー? 皆乙女で行こうって言ったじゃないですか~!」

「……賛同した覚えはありませんが」


 軽口を言ってから退室間際に壱心に対してウィンクを決める宇美。咲はそれを見て微妙な顔をしながら壱心の顔を見た。壱心も微妙な気持ちだった。そうして部屋に残された二人は休憩に入る。


「気を利かせたつもりなんだろうな……」

「まぁ、あの子は時々少しずれてますからね」

「そうだな」


 宇美が聞いていれば気を利かせて退室したというのに酷い言われようだと思ったことだろう。だが、最近のこの二人はあまり会話をする方ではないのでこの気の使われ方は正直に言って微妙なところだった。


「……咲は、今の内に行っておきたい場所なんかはあるか? 国内であれば大抵の場所には連れていけるが……」

「……雷山の麓、ですかね。今はもう何もないと聞いていますが……」

「あそこか。あの場所はあの人たちが全て元通りにして行ったから本当に何もないが……」


 雷山の麓。それはかつて悪坊主と七奈が拠点としていた場所だ。今はもう彼らによって片付けられた後で何もないはずだが、念のため壱心の方で買い上げて立ち入り禁止区域にしている。その場所に入るには壱心の許可が必要で、香月組である内に行っておきたいということなのだろう。


「分かった。他には?」

「……そうですね。早良製糸場など、私がかかわった中でも主要な施設には一度挨拶に行こうと考えていましたが」

「……当時の人間はもうほとんどいないが……」

「そうですね。ですが、一応……」


 かつて、早良製糸場を取り締まっていた織戸も既に過去の人だ。今はその次男が早良製糸場を、そして長男が香月組の繊維事業を治めている。早良製糸場が試運転を開始してから既に四十年近く。そんな製糸場の初期も初期に関わった咲のことを知っているのは現場や間接部門を合わせても両の手で数えられる程度の人数となっていた。

 だが、それでも咲は一応挨拶に向かうと言った。壱心もそれに異論はない。


「分かった……それにしても、あの時と比べると色々と変わったもんだ……」

「くすくす……少々、懐かしいですね……あの頃はフランス人技師に言い寄られて少し困っていたものです」

「あぁ、そんな話もあったな……」

「今となっては懐かしいものですね」


 ぽつり、ぽつりと長い付き合いが生み出す話の種が花を咲かせる。それはしばしの休憩と予定したものを長引かせるには十分なものだった。



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