次代

 1907年、夏。東京にいた壱心の下に京都から手紙が届いた。幕末の頃から幾度となくやり交わされた逓信省を使わない秘匿ルートでの手紙。しかし、最近の手紙の内容は壱心の気を重くさせるものだった。


「また咲さんからですか?」


 手紙を読んで憂鬱な気分に浸っていた壱心にリリアンから声が掛けられる。それに壱心は頷いた。


「あぁ。また退職願だ。本人の意向も汲んでやりたいところだが、もう少し待ってほしい。そう言ってるんだが……中々」

「……恵美さんの時とは随分と違うんですね」

「年齢に勝てんのは分かってることだ。だから普通の奴らは元々交代制でやることに決めてたが、咲は違うだろ? それにあの薬を飲んだ仲間が去るのは気が重くてな……」


 咲からの手紙。それは京都の近況を知らせるものだけではなく、彼女の進退にも関わる内容が入っていた。それは、彼女の現役引退表明だ。長いこと壱心に仕えてくれた彼女もそろそろ現役を引退して後進に道を譲りたいとの文言が手紙に載っている。


「後任者として咲夜を推薦する、と。英独仏中の四ヶ国語を習得しており身体能力にも非常に秀でた才女と聞いてはいるが……」


 壱心は咲の最初の打診が記された手紙を思い出す。そこに記された内容では咲夜は氣の解放どころか氣を通すことも出来なかった。そう伝えられている。

 確かに、日常生活や日常業務で氣を通すなどという技は科学技術が発展しつつあるこの世界では必要ない。

 しかし、壱心たちの中枢を占める面々……特に壱心が仲間意識を抱いている同じ時間を歩む者たちの殆どが氣を通しているのだ。それは雷雲仙人の妙薬を服用するにあたっての最低限のラインであったことが由来している。今、咲が残した残っている妙薬を服用すれば遅れながらも自分たちの仲間入り出来るが、それが出来ないとなると少し勝手が違ってくる。


「咲さんは、何と?」

「京都の町も安定したからかつてほどの危機感はなく、関西圏の活動を見るだけであればそれなりの人材でも十分であること。また、加齢に伴いかつての働きが期待できそうにないこと。そして手塩にかけた弟子がこのまま腐っていくのを見たくないと。それらを理由に引退して旅に出たがってるな……」

「旅、ですか?」

「そう。何でも貯めてきた金をこれから浪費し続けるつもりらしい……」


 前に面談した時に直接聞いた話だ。確かに、壱心からの給金で遅老薬を半分服用して長寿になっているとしても既に一生遊んで暮らしていけるだけの金は貯まっているであろうことは想像できる。


「自由ですね……」

「……まぁ、何の因果かもう俺が長期間誰にも知られずに自由に動いて回れることはなくなりつつあるからな……」


 高い地位や名誉というものはそういうものだと理解しながら壱心はどこか遠い目をする。完全に裏方での作業をしていた咲とは違って自分は今更辞めたということをしたとしても自由に動くことは出来ない。肩書がそれを赦してくれはしないのだ。


「咲の件は最後にもう一度だけ面会して決めるとするか……尤も、ここまで頑張ってくれたんだから個人の意思は尊重する方針で行くが」

「寂しくなりますね……」

「そうだな……」


 一抹どころではない寂寥感を覚えながら咲との面談を予定に入れ、壱心は今日も執務をこなしていくことにする。しかし、今日の壱心は咲の手紙の影響もあってか少々やさぐれていた。


「どこを見ても金、金、金か。金の無心ばかりで嫌になるな」

「それがお嫌でしたら経営方針の見直しなどについての陳情もありますが」

「……いや、やるべきことはやるさ。ただ、ちょっと愚痴を言いたくなる時もある」


 溜息をつく壱心。そんな彼の下に新しい手紙が届けられる。韓国で統監府の長をやっている安川からの物だった。


「……ハーグ密使事件についての事後処理に関する書面、か」


 題名を見て更に気が重くなる壱心。彼は幕末の頃より、征韓論として盛んに議論されていた時分から韓国には力を入れずに国内に力を入れておきたいと思っていたのだが、最近は政府上層部の圧力によってそうもいかなくなっている。取り敢えず、中身を確認する壱心だが、内容は史実と大して変わりない。実行者が伊藤博文から安川新兵衛に変わっただけの話だ。


(まぁ、俺が事を大きく動かすつもりもない状態で内閣が熊谷、韓国統監が安川となれば当然と言えばそうなんだが……)


 この時点では大きく歴史を動かす気もない壱心によりハーグ密使事件は殆ど史実通りに進められた。

 この密使事件は史実では韓国が送った密使が1905年に日韓で締結した第二次日韓協約に違反する行為であるとして大韓帝国皇帝の高宗に責任を取らせて退位させることを日本側が命じたことを発端とする。

 その後の一連の流れとしてはこの高宗退位に朝鮮人が抗議し、暴動を起こす。その暴動が関係のないところまで飛び火して暴徒と化したことに対し、日本側は暴徒の鎮圧を韓国に要請することになる。しかし、韓国軍では暴徒を鎮圧出来ないということで高宗より日本側の統監府に鎮圧の勅命が下るのだ。これに基づいて日本は兵を派遣。派兵により日本は韓国への実質支配を強めると共に韓国に対し内政統治の不届きを指摘し、それを指導するということになる。言い変えるのであれば韓国は外交権の喪失に続き、内政権の一部と軍事権も失うことになるということだ。ここまでが史実通りとなる。

 しかし、その先は少し不透明なところだった。史実では1908年に東洋拓殖銀行を設立して韓国の開発に本腰を入れるところだが、壱心がそれに反対しており、福岡藩閥も非協力的で、引いては現政権を握っている熊谷も最低限の開発は行うが史実程の開発を行う気はなくなっている。その現状を踏まえて壱心は思案する。


(東洋拓殖銀行にはウチから金は出さないと明言してある上、金鉱脈を引き合いに出してこの国の潜在能力を発揮しきれていないのに外国に投資するのかという反対意見も出した。ついでに地方改良運動も史実よりも一年前倒しにして実績も上げているが……果たして、どこまで行けるか……)


 現在、壱心は国内に目を向けさせるために国内の農業改革として亜美と大工町の手を借りて耕耘こううん機を開発し、福岡にいる富農に実用させて広め、各地にも伝播させている。

 これに加えて北海道に設立したアンモニア合成プラントを基に作る化学肥料を使用して国内の農業生産を向上させるという事業を進めており、農商務省の目は海外の開発よりもそちらに向いていた。この事業が成功して進めば壱心の望む方向に予算が使われることだろう。


(ただ、あの国はすぐ加熱して暴走するからな……義兵運動が高まればそれに対応して支配を強めていかなければならない。そうなると、保護国化だけでは足りなくなる……併合はしたくないんだが……)


 そんなことを考えながらひとまずは韓国内の安定化を進める方向で安川に返事をしたためる壱心。この方針に異論はないだろう。政権内部には予想以上に韓国の経済力がないことで今の統治を生温いとする高官も数多くいるが、過去、現在そしてこれからの開発事業の最大手である香月組とその頭目である壱心に表立って反対する者はいない。


(尤も、その現状もマズいんだが……)


 ふと考える壱心。壱心が今いる内はいいだろうが、いなくなった際にその権勢を受け継ぐ者が出て来る。そうなった場合にその者を止められるのはあまりいないと言っていいだろう。


(後進か……)


 咲はしっかりと自分の後進を作っていた。そして壱心の周囲を見てみれば木戸孝允は伊藤博文、伊藤は西園寺公望と意思を繋いでいるし、大久保は子どもたち含めて多くの者に遺志を繋いでいる。大村益次郎も山縣有朋や陸軍に遺志を継いでいる上、坂本も岩崎たちに広く意思を繋いでいる。


 翻って自分はどうか。横井小楠や加藤司書に託された遺志を誰かに継げているだろうか。


(子どもはいるが、あまり関われていない。一応、私塾や学校を開いてはみたものの精神というよりは技術に傾いた教えになっていた気がする。いや、あいつらが悪い訳じゃないが……)


「壱心様?」

「……あぁ、いや。何でもない。少し考え事をな……」

「何か悩み事などありましたら私どもが相談に乗りますが」


 心配そうな顔をして尋ねて来るリリアン。壱心は何でもないとして話を打ち切るのだが、また新たな課題が生まれたと内心で溜息をつくのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る