日露戦争終結

 1905年9月。


 アメリカのルーズベルト大統領の仲介によってアメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権小村寿太郎とロシア全権ヴィッテとの間で条約が締結され、日露戦争は終結した。条件は史実とほとんど同じく、


 1、韓国に対する日本の指導・監督権の承認

 2、旅順、大連の租借権を日本に譲渡する事

 3、長春以南の鉄道とその付属利権の日本への譲渡

 4、樺太の全権を日本へ譲渡すること

 5、沿海州、カムチャツカの漁業権を日本に認める事

 6、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退すること

 

 の六条件を主として認めさせることだった。


 樺太を日本に譲渡することに関しては壱心の策で日露戦争時に樺太全島を日本軍が実効支配していたことから、賠償金をせしめようとして史実と異なる運びになっていたが、概ね史実通りの運びで史実以上の領土割譲を行うことになっている。

 また、諸外国の日本に対する認識も史実と同じく日露戦争前と比較して飛躍的に向上しており、日本は正式に大国として列強の一員と見做されることになった。

 これにより、日本は国際秩序の中で一定の発言権を手にしたということで行動に気を付ける必要が出てきたがそれよりも開国以来の悲願である関税自主権の回復を目指して様々な行動がとれるようになったというのが大きなところだろう。


 壱心としては史実以上の完勝とまだ余力があったことからこれ以上にロシアから色々と回収したいところだったが、それでも尚ロシアと日本の国力差は埋めがたいものがあり、内実はともあれ、これ以上の条件を引き出すことはほぼ不可能と見て今後の予定を鑑みて傍観に徹すことにした。


 当然、これらの内容では連日の勝利と多数の犠牲の割に合わず、苦難の日々を乗り越えたのに対しても賠償金が得られないことから何の還元もなく日本国民は激怒。日比谷焼き討ち事件は現実のものとなる。また、壱心を担ぎ出して現政府の改革を訴える者が多数出るという事態にも発展した。


 それに対して政府は戒厳令を敷き、軍を派遣。国内の動乱を力づくで止めようとするが、その場での対応策としては有効ではあったものの講和反対運動は全国へと広がっていき、桂内閣は解散することとなった。


 その後、出て来るのが福岡藩閥の熊谷……かつて壱心が開いた私塾薫風堂の塾長だった男だ。彼の指示の下、日露戦争の後始末が行われていく。それは多分に壱心の息がかかった行動を取ることになるのだった。


 まず、壱心が西南戦争時に土地を抑えた鹿児島県伊佐市、菱刈地区東部にある金山の開発。この地で壱心が金鉱脈を発見したと世間に大々的に報告し、それに日本中が色めき立つ。国内再開発の意見が強くなったのだ。

 史実では本格的な採掘は平成に入ってからとなる菱刈金山の産金量は日本の金山として名高い佐渡金山の三倍近く。しかも高品位として有名だ。この金山への期待から壱心の下へただでさえ多い連日の様々な勧誘や紹介がいつにも増して来るようになる。

 だが、壱心はその金を大規模な国内の設備投資と教育機関の整備に利用。その内の多くは福岡のインフラと北海道のある鉱山の開発という名目で大量の金額をつぎ込んだ。それにより、香月組の中で膨大な金額が流れるようになり、福岡はこれに乗じてまた一大好景気となった。そして北海道には一つ、立ち入り禁止区域が設定されることになる。

 この北海道の立ち入り禁止区域。そこでは亜美が仙人から得た知識によって開発している天然ガスの生産から始まる大規模なアンモニア合成プラントが建てられる予定となっている。他国に知られたくない情報の為、数年は国内でも限られた人物のみにしか真実は知らせず、表向きは硝石が出る鉱山が発見され、開発中であるとして、隠匿された工場となる予定だ。


 このような設備投資に伴い、福岡向けの鉄では八幡製鉄所の製鉄量が増え、北海道向けの鉄では室蘭にある日本製鋼所の製鉄量が増えることになる。これらの拠点に関しては国内生産の鉄の値段が規模の経済により安価になり、諸々の研究成果によって通常の鉄に関しては他国と同程度にまで低減することになった。

 そして、その効率的な生産量を他の工場にも伝播させることで地方都市に必要な公共設備投資を促進すると共に雇用を生み出し国内の富を増やした。


 また、海外政策も史実と異なる方向へとシフトした。


 桂・タフト条約によるアメリカとの協定並びに第二次日英同盟に基づくイギリスとの協定に基づき、日本の大韓帝国保護国化を承認されると日本は韓国との間に第二次日韓協約を結ぶことになる。これにより、韓国の外交権を掌握すると漢城に統監府を設置。そこに安川新兵衛を派遣した。これによって韓国での活動についても、壱心から口出しが色々としやすいようになる。

 特に朝鮮に対する統治に関して史実と異なる点では現地の者の言い分をそれなりに受け入れ、財源難を理由にインフラ整備をすることや近代工業の導入をせず、また独自の文化を尊重するという名目で近代教育に力を入れることをしなかった。これにより朝鮮の発展は史実と比べて遅れ、治安の改善も進むことはなく失業率も高いままで推移することになる。

 ただ、それでも李氏朝鮮における腐り切った政治を正常化……例えば身分制度の解放やそれに伴う両班やんぱん制度の見直しをするという行為だけである程度の改革が見込まれる……はずだった。


 だが、安川は現地で数年働いた後にそう考えていた時の自分をぶん殴りたくなるようになる。


 理由は簡単だ。軽工業から重工業へと発展していく通常の経済成長モデルに当時の韓国を当てはめることが出来なかったのだ。正確に言えば、軽工業の発展のために必要な民間の資本家が韓国国内に殆どいなかったというのが問題となる。

 また、生活水準を向上させる意思も薄いというのが当時の韓国だった。その両方の原因となるのが両班制度に基づく官吏の苛烈な徴収だった。彼らに働いた分だけ徴収されるのに慣れ切ってしまい、資本の蓄積も出来ずに努力というものは無駄であるという認識が根付いてしまっていた。飢餓を凌げればそれでいいという考えで漫然と生きているだけの者たちが下級国民の殆どを占めていたのだ。

 その中でも一念発起して成り上がろうとする者も当然いる。だが、そこで成り上がろうとする者は官吏に密告されて貯めた金銭を徴収されて、その芽を潰される。そのため、向上心がある者でも金銭を持っていることがバレている状況でも盗られないと理解するまで行動に起こせないのだ。

 その代わりに行動を起こすのが現状に慣れきっており、ある程度の力を持つ地方官たちになる。彼らは自分の権益を守る為に抗日運動を起こし、その行動のために民草からその僅かな貯えを徴収する。そして、その徴収の理由付けのために日本を悪者とする。

 史実では日本が朝鮮政府から内政権を委任させ、公共投資を行い雇用を生み出すと共に貯蓄をさせ、それが奪われないことを理解させて成長の基礎を作っていくのだが本世界線ではそれがない。一応、朝鮮半島北部からは良質な石炭が取れるためその辺りには雇用創設のための公共投資という名目で介入は行うが、彼らが本当の意味で立ち上がるのはまだしばらくかかることだろう。

 だが、しばらくの間は立ち上がらせる気もないので別に壱心にとっては問題なかった。ついでに言うのであれば治安改善が見込まれる程度には介入するが併合する気はない。韓国が自力で立ち上がることが出来るようになれば保護国化を解除してもいいと思っていた。それが壱心の偽らざる本音だ。

 しかし、その辺りについてはまだまだ先の事。日本からの手助けは最低限として自助努力を狙うという方針だけ定めておく。


 そうやって日露戦争後の日本は史実とまた少しずつ乖離し、壱心の思う未来を描くことになるのだった。



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