悪魔の契約

「香月閣下!」

「誰か! すぐに衛生兵を呼べ!」


 慌ただしくなる甲板。強い衝撃を受けて甲板に吹き飛ばされて倒れた壱心は顔を顰めながら上体を起こした。どうやら、大きな怪我はないようだ。壱心の鍛え上げた肉体はこんな状況下でも受け身を取らせてくれたようだった。


「何が……」


 そして状況を把握しにかかる壱心。同時に、自身の上に何か柔らかいものが乗っていることに気付いてそれをどかし……絶句する。


「閣下! ご無事で!」

「お、おい……誰だこれ……?」

「女?」

「何で女がこんなところに……」


 周囲の困惑の声が遠い。そんな中、壱心は忘我の状態で彼女の名を呼んだ。


「な……亜、美? なんで……」


 呆然とした声。そこに新たな声が聞こえて来た。どこかで聞いたことのある謎の声だ。それは呆れたように言う。


「何でとは酷ぇな。お前を心配してここまで来て直撃弾から身を挺してお前を庇って死ぬってのに」


 声と共にこの場に悪坊主が現れる。同時にこの世の者とは思えぬ美少女も現れるが壱心は今、それどころではなかった。


「な……あなたは……いや、それより亜美の気配なんて全く……それに、隠密するにしても誰にも、俺にさえ気づかれずにそんなこと……」


 現実を認識したくないかのように否定材料を述べる壱心。だが、それは目の前の存在によってすぐに否定された。


「なんかボクの偽物が教えてたみたい。実際、誰にもバレずにここまで動けるってのはボクらがその証明だよね。そんなことより我が身を挺して君を庇う程の強い愛情に対して何か言ってあげないと。ほら」


 この世の者とは思えぬ美少女、財部はそう告げると彼女は壱心を囲うようにいる諸将の意識からすり抜けるように不発ではないが不完全な爆発で両足を失った亜美に近づく。そして彼女を壱心に向けた。


 彼女は壱心の方をぼんやり眺めると満足そうに一言だけ告げる。


「ご無事、ですか……何より、です……」


 そして目を瞑り亜美はそれきり何も言わなくなる。


「な、おい! 何を勝手に満足して……」


 言いたいことは幾らでもあるとばかりに壱心はそう言うが、続く言葉は見当たらない。しかも、壱心が何を言おうとも亜美がそれに反応することはなかった。


「さて、ここで薬の時間だな」


 直後、悪坊主から何かが投げられて壱心の口の中に入る。そしてそこから周囲の動きが止まった。戸惑う壱心に悪坊主は告げる。


「超反応薬だ。これで俺たちと普通に話しても周囲には何も理解できない。ただ、口以外は動かすなよ? 説明が面倒だから端折るけど無理に身体を動かせば筋断裂とか筋がイカれたりするから」


 鉛のように体が重くなっているのを実感する壱心。そんな彼は悪坊主を睨むように見上げて尋ねる。


「何がどうなってるのか、説明してくれますよね?」

「説明っつっても、俺は死人がいっぱい出そうなところに移動するついでに観戦してただけだしなぁ……その途中でそこの女がこそこそやってたから興味本位でついてきたらこんな感じになった」


 特に何の気負いもなくそう告げる悪坊主。壱心はそれを受けて尋ねた。


「それだけ、ですか?」

「まぁ……後、ちょっと七奈が幼馴染の黒髪がどうのこうの金髪は家で待つだけでダメだのなんだのうるさかった。ただ、そんなことはどうでもいいと思うがどうなんだ?」


 悪坊主は視線で亜美の方を見ながら壱心にそう尋ねた。それに対する壱心の答えはyesだ。彼は今、悪坊主に何としてもやってもらいたいことがある。それ以外の事は些末な問題だ。壱心は悪坊主の気が変わらない内に告げる。


「そう、ですね……単刀直入に言います。亜美を助けてくれませんか?」

「見返りは? 俺が……歴史に介入するのを拒否している俺が僅かながらでもお前に協力するにあたって、どんなメリットを提示できる?」

「金なら……」

「そんなもの要らん。邪魔になるだけだ」


 笑いながらそう告げる悪坊主。壱心はしばし考えるが何も思いつかない。そんな彼に悪坊主は嗤いながら告げた。


「ヒントをあげようか? 俺はさっき、何を目的にして移動してるって言った?」

「……死人が出る場所? まさか……」

「そう。だが、安心しろ。俺は別に日本人の死だけが欲しいわけじゃない。誰が死んでも別にいいんだ」


 壱心の表情が一瞬険しくなったが、悪坊主は続ける。


「お前の愛すべき妻を殺した憎きロシア人の死でもいいんだ。そうだ、死に物狂いで敵討ちした結果、最愛の妻が戻って来るってのはどうだ? なぁに、話は簡単だ。史実以上の戦果。それがお前に課すノルマだ。簡単だろう? 普通に戦ったとして、奉天会戦の後に追撃を仕掛ければいいだけの話。それが出来るだけの準備は整えてたはずだ」

「そ、れは……」


 ぐらつく壱心。そんな彼に悪坊主はつまらなさそうに言った。


「それともなんだ。お前にとって、そこの女は敵討ちする価値もないのか? なら俺が助ける必要もないな。可哀想に。こいつは危険を冒して戦地に臨み、身を挺して愛する夫を守ったというのに」

「ふざけ……」

「おっと、そろそろ時間切れだ。さて……チャンスは一度切り。治療できる機会は今回だけだからな。答えを聞こうじゃないか」


 愉しそうに悪坊主は壱心に尋ねる。まともな思考時間も与えられないままに壱心は答えを出さなければならない。


(どうする? 勝たなきゃならないのは勿論だが、この後の黄禍論について考えるならここで勝ち過ぎるのも問題だ。何より、勝てば勝つほどロシアとの戦後交渉時に有利に働いてしまい、朝鮮を日本に引き込む力が強くなってしまう……あの土地の開発はしたくない。だが、大勝利の暁にどこかに売り飛ばすなんてことをすれば今後の活動に影響が……失脚するにはまだ時期が悪い。オストワルト法とハーバーボッシュ法まではせめて俺の手で時計の針を進めておきたいんだが……フェーズを考えて併合まで行かなければ……第二次日英同盟と桂タフト条約の時に米英に一枚噛ませるとか……)


 目まぐるしく思考する壱心。それに対して悪坊主は歪んだ笑みを浮かべたまま彼を見下ろしている。


「超反応薬が切れるまで10秒ちょっと。それまでに決めなきゃ俺との契約はなしってことだ。よく考えるのもいいが、早くしな」

「…………受け、ます」


 悪坊主は笑みを深めた。歪んだ笑みだった。彼はもう一度、壱心の口の中に何かを投げ入れると続ける。


「言霊で言質は取った……契約は成立だ。さて、もしも成果を上げられなかった時にはこの女は死にながら生きていたという、文字通りの死ぬ程の痛みを感じながらもう一度死ぬことになるから気をつけろ」

「なっ……」

「何、勝てばいいんだ勝てば……そら、内浦湾で採れた人魚の涙と深き者の血液で作った名状し難い回復薬だ」


 暗緑色の液体を七奈が抱えている亜美の足に適当に振りかける悪坊主。すると嫌な音と共に彼女の肉体が再形成される。


「これで問題なし、だ。ただし過剰回復を防ぐために深き者の血液という不純物を入れている以上、俺から解毒薬を貰わなければ身体は朽ちるがな……」

「……これだけで助かるんですか?」

「これだけ? 割と手間かかってんだがな……まぁ説明するだけ時間の無駄だし、やらないが。そんなことより……」


 悪坊主は亜美から興味をなくしたかのように無表情になるとその後、壱心に対し歪んだ笑みで告げる。


「お前、弱くなったなぁ? 国の為、己の命さえも賭けていたそいつの記憶の中のお前とは大違いだ。まぁそう仕向けたのは俺だが……」

「……何が言いたいんですか?」

「いいや、何も。ただ、お前はそれでいいのかって「愛の力は偉大だからね。しょうがないね」……七奈、うるさい」


 七奈が悪坊主に絡みついたことにより悪坊主から無意識の間に放たれる圧力から壱心は解放された。しかし、彼に掛けられた言葉の重圧からは解放されない。


「さて、それじゃあ俺の後の用事はお前らの頑張りにかかってる。まずはこの海戦の勝利からだな。あぁ、そうそう。この場にいる奴等の記憶と認識は適当に弄ってあるから後は頑張れ」


 そう言って悪坊主は姿を消した。



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