黄海海戦

「では、留守は任せた」


 ウラジオストク艦隊への攻撃を成功させてから二ヶ月が経過し、歴史に介入するために壱心は現地で実戦指揮を執るべく連合艦隊旗艦、三笠に乗り込んだ。


(結局、納得はしてくれなかったか……だが、誰もついて来てはいない。謝るのは戦後に幾らでも出来る。今は目の前のことに集中するだけだ……)


 周囲の気配を探っても隠された気配というのはこれと言って見当たらないのを確認して壱心は船に乗り込んで出港させる。これは史実において西南戦争の際に総司令だった山縣有朋が現地に乗り出すということ以上に反響のある出来事だった。

 何せ、明治の元勲が第一線に立つというのだから。万一のことがあってはならぬと散々止められ、果ては勅命が下りそうになったという有様だ。

 だが、国家存亡の危機ということで壱心は自分が第一線に立つのを罷り通した。国民はこれに歓喜し、海軍も奮い立つ。


 そして迎えたのが黄海海戦となる。まさか戦況視察のために元勲を乗せた船が本当に敵と一戦交えるという状況に陥るとは……そう頭を抱えそうになった士官たちだが、宮古湾海戦の時以来の壱心の鋭い意見と現状に即した判断を受けて東郷が彼に指揮を委ねることにしたことを受けて彼らも指揮を任せることにした。


(……正直に言って、海戦は未だによく分からん。だが……この日のために何度も綿密に煉り合せた戦略はある……距離、速度。相手の出現場所まで分かっている。覚えてるんだ。ここで旅順艦隊は潰す……!)


 意気込む壱心。それに対しロシア司令長官であるヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は基本的に消極的な行動指針を取っていた。元々防備の堅い旅順港に閉じこもり、連合艦隊との直接衝突を避けて艦隊を温存するという消極的な行動を見せていた彼だが、極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令されることでようやく旅順艦隊は一度六月末に旅順港を出発していた。

 だが、旅順艦隊は連合艦隊に遭遇したことによってすぐに港内へ引き返す。そして防備をまた固め、悲劇のヒロインが白馬に乗った王子様を待つように現在は西欧にいるバルチック艦隊を待つ日々を過ごしていた。

 そんな日々を送っている旅順艦隊にロシア極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは激怒。再度、旅順艦隊に対して海戦に備え、ウラジオストクへの回航を強く厳命する。彼はロシア帝国という列強国が日本などというアジアの小国に手間取っている現状を認めたくなかったのだ。

 そして何より、ロシアの国内情勢からして明るいニュースというものが欲しかったということもある。ロシア経済が不安定で国民が現在の統治に対して疑問を抱いている中で民衆に負担をかける戦争を小国相手に続けるというのは内政的にもマズいものであるからだ。それらを鑑みた要請を受けてようやく旅順艦隊は港外に出ようとしていた。


 そんなロシア軍の内情がある中で、日本軍にも動きがあった。大陸内部へと進行中の陸軍は後方の安全を確認するために旅順要塞の攻略と旅順艦隊の撃滅を図ろうとしていた。

 そこで日本軍は陸軍第三軍と海軍陸戦重砲隊の混成チームによって大孤山に観測所を設け、その拠点を用いて旅順港の艦船の砲撃を開始。それによって一定の功績を上げると旅順艦隊に旅順港内に留まっておくことは危険であると認識させることに成功した。

 そして、これに従い港内も安全ではないと判断したロシア軍が旅順を出る理由を見つける事に成功。旅順を後にしてウラジオストクを目指す環境が整った。これによって物語は冒頭の海戦へと移るのだった。







 8月10日早朝。旅順艦隊の護衛に当たる駆逐艦5隻が旅順に寄港した動きを日本軍が察知。これに対して旅順艦隊は哨戒艦が連合艦隊への報告を行う隙をついて旅順を出港し、まずはロシア領事がいる芝罘しふうへと向かう。


「来たか。追え! 旅順艦隊は今日までの命とせよ!」


 十二時三十分。連合艦隊による旅順艦隊への攻撃が開始される。対する旅順艦隊は海戦に応じることなくウラジオストク方面へと逃げの姿勢に徹した。


「……距離7000メートル! 丁字を……」


 海将の一人から声が上がる。だが、壱心は鋭くそれを制止した。


「まだだ! まだ引きつけろ!」

「し、しかし……」

「丁字の形に拘り過ぎるな。相手を叩きのめすことを優先しろ」


 静かにそう告げる壱心。司令部に沈黙が降りる……その時だった。この場に似つかわしくない軽い声が響く。


「あーあ、欲を掻いちゃってまぁ……邪魔するよ」

「お邪魔しまーす」


(……!? 雷雲仙人と財部様? 何故、ここに……)


 辛うじて反応を呑み込んだ壱心。しかし、彼らは姿を隠したまま壱心にのみ話が聞こえるという謎の技術を使えるのをいいことに好き勝手に話し始める。


「普通にやっても敵司令官のヴィトゲフトを殺せてツェサレーヴィチも潰せ、ついでに多くの艦を散り散りして大規模作戦を出来なくさせれるってのに。目に見えた成果を出さないといけないってのは怠いね」

「ねぇねぇ、今回の作戦って大丈夫なの?」

「さぁ? 丁字戦法は成功するように計画練ってたのは見たがその後は知らん」

「ふーん……じゃあ、やるのとやらないのだったらどっちがいいんだろうね?」


(好き勝手言ってくれやがって……)


 舌打ちしたい気分で無責任な観客の様に歓談する二人を何となく探してみるも彼らの影も形も見えない。不気味さが壱心に圧し掛かるが今はそれどころではない。眼前の敵に集中することを考えなければならなかった。


「旋回! 丁字を取れ!」

「了解です!」


 旅順艦隊の進行方向に対して丁字を取る連合艦隊。タイミングは少し遅れたが、些末なもので丁字自体は完成した。それによって砲撃が行われる。


「おぉー……これってどうなの?」

「決まったな。ここから敵艦が逃げるのは困難だ。さて、これがどう出るか……」


 見えない相手からのお褒めの言葉。壱心は相手が逃げられないという状態に持ち越せたのを確信して後の指揮を他に任せる。そして厠と偽って退出すると雷雲仙人達に呼びかけた。


「いるんでしょう? 出てきてくれませんか?」

「薬使わないといけないから後でね」


 一人になった壱心に返ってきた言葉はこれだけだった。誰かが現れると言う事もない。しかし、壱心は続けた。


「……後で?」

「多分、そうなる可能性が高いから後で」


 随分と含みを持たせた言い方だ。そう思いながらも壱心は席に戻る。連合艦隊の砲撃は成功しており、史実以上の戦果は確実に思えた。


「! ツェサレーヴィチに直撃弾! 艦橋が倒れます!」

「よし! 撃ち続けろ!」


 旅順艦隊旗艦ツェサレーヴィチがコントロールを失い、敵艦体の中に突っ込んでいく。史実と同じ流れだ。だが……


 ここからが違った。


「敵艦体動きを止めました!」

「動かないなら的と同じだ! 撃って撃って撃ちまくれ!」

「何だ? 何をやってる?」

「この期に及んで艦隊の再編制か?」


 準備万端の連合艦隊を前に自殺行為か? そう見ながらも連合艦隊は攻撃を緩めない。ロシア艦隊は確実に損害を被っていた。


 しかし、急に相手の進路が変わる。どうやら、編成を済ませてしまったらしい。これが連合艦隊の誤算になる。数を減らしながらも勇猛果敢に攻撃を仕掛けてくるロシア艦隊。その攻撃対象は丁字の最後列にあった三笠。死中に活を求めた敵はそこに集中攻撃を仕掛けて脱出を図ろうとしたのだ。


「……これは」

「不味いかもしれませんね」


 攻撃の手は決して緩めないが、海軍の間に動揺が走る。あの船には明治の元勲である香月壱心が乗っているのは周知の事実。また、連合艦隊司令長官である東郷も乗っている。


「こっちに来たか……」

「悪坊主、帰りは海の上走って帰るの?」

「かもなぁ……」


 不吉なことを宣う仙人たち。しかし、三笠周辺の状況を考えると運が悪ければ、そういう考えは拭えない。だからこそ、壱心がこの場にいることで全体の士気は高まっていた。


 ただ、それは自らの安全と引き換えに行われた行為だが。そしてそのツケは間もなく支払いの時が来たようだ。


「あ、直撃する」


 そんな軽い声。直後、壱心の身体は強い衝撃によって突き飛ばされた。



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