口論
日露戦争の最中、日本初の国産ガソリン自動車が開発完了となった報告を受けて壱心は西新研究所に戻って来ていた。そこでの視察を終えた彼は福岡にある自宅に戻り、自らの家族に対してある話を切り出した。
「……今行われている日露戦争に壱心様が出撃する?」
「そうだ」
リリアンのオウム返しにも似た問いかけに壱心は頷いた。リリアンはその返事に対して更に疑問を投げかける。
「何故ですか? ウラジオストク艦隊を捕捉できていないからですか?」
「違う。ウラジオストク艦隊ならもうすぐ捕捉できる。今月中にはな」
史実の常陸丸事件から敵の位置を割り出している壱心にとってウラジオストク艦隊の捕捉はそこまで難しいものではない。もうすぐ玄海灘周辺に来るであろうロシア軍ウラジオストク艦隊を決して逃さぬように史実でウラジオストク艦隊を捕捉した上村中将に指示を出している。
しかし、そうであるのであれば何故優勢であり士気も高い今、壱心が前線に立つ必要があるのか。それがリリアンには分からなかった。そしてそれはこの場にいる誰もが同じ思いだった。
ただ、壱心を除いて。
彼は必要事項であることを強調するために続けた。
「旅順艦隊の撃滅が急務だ。損害を与えているのは間違いないが、あの艦隊を落とさなければ陸軍数万の命が失われる戦闘が繰り広げられる可能性が高い」
「……ですが、海戦において指揮官が出たとしても大して変わらないのでは? 逆に現地にいる指揮官を困らせ、士気が下がる要因になるやもしれません」
壱心の出撃を快く思わないリリアン。その脳裏には少し前までロシア軍の旅順艦隊海軍司令長官だったマカロフ司令の触雷による死亡が浮かんでいた。海戦の場合、不測の事態が起きる可能性が高いのだ。
尤も、近代戦の場合には陸戦においても同じことが言えるが。
どちらにせよ、香月家の女性陣たちは壱心に前線に出て欲しいとは思っていない。その為、止めに入るのだが壱心は決定事項だとして首を横に振った。
「すまないが、万一の事態に備えておいてほしい」
「……えぇ~ズルくないですか?」
「宇美」
「わかってますよぅ……」
やっと子どもが大きくなり始めたところでのこの事態に宇美は抗議の声を上げるが息子が小隊長として前線に出ている亜美に視線で制されると彼女も黙らざるを得ない。せめてもの抵抗として不承不承感を隠さずに引き下がるだけだ。
「壱心様、それはどうしても必要なことなんですね?」
「あぁ、相談と言っておきながら一方的な要求になってしまって済まないが」
「本当ですよ」
文句を言いながらも受け入れてもらう形。それが明治の男女関係として、少なくとも香月家では一般的なものだ。だが、今回は違った。
「反対致します」
「リリィ」
「危険です。今回こそ、反対させていただきます」
毅然とした態度で告げるリリアン。壱心は困ったような表情でリリアンを見た。
「リリィ、分かってくれ」
「分かりません。いつも、そうやって前線に出ようとするではありませんか。その必要もないのに……私が、どんな思いで待っているのか、わかっているんですか?」
「……必要なことだ。必要なければ、前線には出ない」
「違いますよね? 蝦夷共和国との戦いのときだって、西南戦争の時も結局は出ずに済みましたけどそうだったではないですか……」
二つとも壱心が司令官として前線に出ずとも数で押し切れる戦いだったはずだ。事実、西南戦争の時は壱心が出ずとも大勝利を収めている。それなのに壱心は自分が前線に立とうとするのだ。これは不必要なことではないのか。リリアンは壱心にそう告げる。
その抗議に賛成したのが宇美だ。
「そーですよぉ! 今回の戦いには私達斥候部隊も危険だから使わないって言って、ロシアじゃ明石さんの部隊、大陸じゃ恵美さんに私たちの部隊を預けて使ってる中で自分だけ出るんですか? 自分の方がもうそんなに簡単に動ける立場じゃないってことわかってます?」
「……重々承知だ。だが」
「壱心様が出るというのであれば私も出ます。いいですか?」
リリアンは強い意思を目に宿してそう告げる。不退転の覚悟だ。それを聞いて宇美も同じ考えを示す。
「私も出ます!」
「遊びじゃないんだぞ? 何をそんな……」
「私だって戦場には何度も出てます。遊びじゃないのは分かってますよ。でも、怖いのは戦場じゃなくて何も出来ないままでいることです!」
自らのトラウマを普通に話す宇美。それは薬を用いたとはいえ過去の自分を乗り越えた所作でもあるが、だからこそ強い意思を感じさせる。壱心は彼女を説得するための言葉を探すが、どれも自分が言うなと言われそうなことばかりしか思いつかない。
「船に女は……」
「戊辰戦争の時、亜美さんは乗せてましたよね?」
迷信を持ち出しても過去の自分がそれを否定する。理論俗説が封じられた時、壱心はもう感情論に訴え出るしかなくなった。同時に、彼にとって彼女たちがどれだけ大事な存在であるかというのを改めて実感することになる。
(……だからこそ、か)
そしてそれは向こうにとっても同じことである。それを壱心は彼女たちの目を見て理解した。こうなれば互いの意地と意地のぶつかり合いだ。だがそれならば壱心に分がある。壱心が認めないと言えば社会通念上、海軍の誰もが認めない。寧ろ、乗るのが認められている現状が特例なのだ。
(だが、こいつらが隠密に走った際にはもう俺しか気づけないだろうな……)
だがしかし、薬によって得られた若き身体で長年の研鑽を経て人外に近くなった彼女たちの妙技に気付けるのは最早同じ時を共にした自分だけ。そのことを考えると戦前に余計な手間を考えるのも煩わしい。前までならその煩わしさを厭って許可していたかもしれない。だが、今は拒否する。
この話によって香月家に長きに渡る冷戦が起こることになる。しかし、その時は刻一刻と迫る。その時が来るまで逃げきれれば壱心の勝ちだった。
そして、その時は間もなく訪れようとしていた。長期化する戦いの中で壱心は執務室で幾つかの報告を聞く。
「報告いたします! 玄海灘沖にて第二艦隊がウラジオストク艦隊を捕捉! 交戦により、敵艦一隻を撃沈せしめたとのことです!」
1904年6月15日の福岡の町にて壱心は興奮する部下からその報告を聞いた時、壱心は眉一つ動かさなかった。
「味方の被害は?」
「……常陸丸が、やられました」
「そうか……だが、ウラジオストク艦隊を潰せたのは大きい。上村中将によろしく伝えてくれ」
そう告げた後に壱心はロシアで後方攪乱を行っている明石からの情報を見ながらその手紙の主たる目的である資金要求に承認を下す。
これらの勝利報告を受けた壱心は部屋に飾られている掛け時計を見た。そして次にカレンダーを見る。
「……さて、ここから俺の介入の時間か」
彼が向かうのは黄海海戦。ドッガーバンク事件によって疲弊しながらもこの国へ向かうことになるであろうバルチック艦隊と連合艦隊が目下交戦を行っている旅順艦隊が合流する前に旅順艦隊を叩こうとしての出来事だ。旅順要塞に対して力押しを行う事による大規模な損害を避けるため、そしてこの国の未来のために彼はまた時代の流れに干渉しようとしていた。
……そして彼はこの戦いへの干渉を後悔することになるのだった。
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