時間的猶予
わが国初の政党内閣が来るはずだった1898年。この世界線でそれが来るのを遅らせている要因である壱心は現在、国家運営から少し距離を置いて自分の会社の様子を見て回ろうとしていた。
だが、そんな彼の下にうら若き青年士官がやって来て彼に面会を求めてきた。
「閣下! ロシアが清国から遼東半島南端、旅順と大連を租借し旅順に太平洋艦隊の基地を作っているとの報告に関する続報です! 大連対岸のイギリスが威海衛を清国から租借したとのこと!」
青年士官が持って来た話は日本にとって一大事となる話だ。前提となるシベリア鉄道に加えて旅順に海軍基地の設置はロシアの圧力が一層強まり日本本土が脅かされるということで日本として、何としてでもそれを阻止しなければならないという状況だった。そして青年士官が言う話によるとその話の中にイギリスが入って来たということだ。
これは上手く事を運ばせれば日本にとって大きなメリットになる。慎重にことを運んで国家を守らなければならない。そんな重要な局面に国家の重鎮である壱心が中央から離れているのはよくないことだ。すぐ中央に戻って来てくれ。これが青年士官の言い分であり、現在東京にいる大日本帝国首脳部の意見だ。
だが、自分がいなくてもことを上手く運べるというのを史実で知っている壱心は今一乗り気ではなかった。彼は少し思案すると告げる。
「……まぁそうなるのは知っていた。陸奥さんに連絡してイギリスにロシアへの危機感を煽りに煽って日英同盟を早期に結べるように連絡しておいてくれ」
「閣下はいかがいたしますか?」
「俺はもう少しこの辺りでやることがあるから終わったら中央に向かう」
壱心を中央に引き摺り戻すという自らの役目を潰され、困り顔になる士官。だが壱心に何と言おうとも彼は中央に戻ることを良しとしない。彼には彼の大事な用事があったのだ。
「あー……もう時間なんだけど? 行かないなら帰る」
「ちょっと待ってください。すぐに案内するので……という訳だ。私はこれから用がある」
壱心は黒いローブに身を包んだいかにも怪しげな男を宥めて青年士官を外に追い出そうとする。当然、青年士官はその男のことが気になった。
「……失礼ですがどちら様でしょうか。あの方は」
「あー……凄い、技術者の人だ。まぁ、いいだろう?」
まさか巷で仙人と言われている存在だとは言えないので適当に誤魔化す壱心。そんな彼を見ながら黒ローブの男は気怠げに告げる。
「あー……無駄に歴史に干渉したくないから薬飲め」
「む、ぐっ!? ぶふっ……」
「あーもったいない。鼻から出すなよ汚ぇ……」
(無理矢理飲ませておきながら何て言い草だ……)
黒ローブの男……悪坊主は青年士官に無理矢理薬を飲ませたかと思うとその後、謎の暗示をかけ始めた。だが、それもすぐに終わる。
「よし、これで断られた記憶すらないな。すれ違ったことにでもしておけ」
「……そうですね」
「じゃあ行くか……事前に言った通り俺の姿は君以外には見えないようにしておくから俺が言ったことは全て自分のアドバイスという態で乗り切れ。時々は面倒だし君の声のまま適当に話す。口も動かさなくていいぞ。こっちで適当にやっておくからな。で、後は……いいや。面倒になったら投げるから」
「十分です」
合意が取れたところで壱心は悪坊主を大工町たちが居る場所に連れていく。彼らを待っているのは機械や道具を作るための機械、工作機械を作る研究所だ。
博多より北東方面へ少し向かった先。香椎と呼ばれるその場所にその施設は存在していた。また、近くには史実で存在するのは戦後のことになる産業育成のための教育機関が設立されており、未来の技術者たちが育てられている。その教育機関の教員として働きつつ研究を行っている香月組の一員が大工町だった。
鉄と油の臭いが染み付いた教員室に壱心が悪坊主を連れて向かうと大工町はその部屋の奥にいた。彼は壱心を見ると深々と礼をする。壱心はそれに軽く応じた。
「お疲れ。大工町、今日は切削加工機具と塑性加工機具、それから溶接加工機具について見させてもらう」
「あいよ、ってなんだ。今日は可愛い嬢ちゃんら連れてきてないんスか……」
「色々あってな……それで、中央に戻らなければならない用事が出来たから急いで案内を頼む」
「相変わらず忙しないねぇ……ま、いいですよ。ついて来てくだせぇ」
教員室から出ようとする大工町。悪坊主はその前に部屋中を見渡してそこにある書物の類を見ていたようだがその目は冷徹な観察を続けるものだった。そして部屋を出る時に悪坊主は壱心の声で後ろから大工町に幾つか尋ねていく。
大工町は壱心がいつもより少し饒舌だなと思いながらフライス加工に旋盤加工、冷間塑性に熱間塑性、溶接の技術まで分かる範囲で何でも答えていく。目的地に到着するまでの短い時間に数十の基礎的な質問と未だ解なしの質問を重ねられた大工町は着いた時には既に疲労していたが、同時にいつもよりも情熱ある上司に今回は何が起きるんだという期待を持ちながら工作機械の場所に案内してくれた。
「……まぁ、この時代にしては優れた知識があるみたいだな」
「ありがとうございます」
対する質問者は壱心にのみ聞こえるようにそう告げていた。しかし、褒められたのはここまで。ここからは怒涛のダメ出しの時間だった。
「基本的に作りが甘いな」
被工作物を固定する保持具を見て悪坊主はそう告げる。どうやら溝の間隔がお気に召さなかったらしい。だが、大工町は当然の様に抗議する。
「なっ……ですがこれ以上細かくすると強度の問題が……」
「どんだけ使い続けるつもりなんだ? 使い捨てだ。摩耗する部分は使い捨てろ」
「そんな、予算どうするんスか」
「任せろ」
(気軽に言わないでほしいんだが……)
ある程度の事であれば分かるが深い話は分からない。そのため、壱心としては今の話で予算が嵩むということぐらいしか分からなかった。
「飛距離出すためには圧力に耐えられるようにするんだよ。そのためには以前までの溶接じゃダメだ。まぁこっちの言いたいことは分かってるだろ?」
「そりゃ、そうっスけど」
「もっと強度のある素材が欲しいってんだろ? そっちにも顔は出す」
「ホントすか? いや、それなら期待して待たせてもらいますけど……」
(勝手に仕事を増やさないでほしいんだが……)
怒涛の勢いで次から次に壱心の仕事が増えていく。その勢いに負けたのか大工町もいつもより大人しくなっていた。
「いや、何か今日はいやにサクサク進みますね……」
「今日は調子がいいからな。いつもは別のことを色々と考えてるが今日は工作機具のことだけを考えて準備しておいた」
「はー……流石っスね。まるで熟練職人が乗り移ったかのようですよ」
(乗り移ったんじゃなくて成りすまされてるんだけどな……)
一々内心で毒を吐く壱心。話の要点としては今後の設備投資と研究費増額、それに加えて素材の強化といういつもの内容に過ぎないがそれでも大工町はいつもよりか満足そうだった。
「いやー、設備をいかに安く使い続けられるかを中心に腐心してましたがある程度のロスは必要不可欠ッスよね。理解してもらえていて何より」
「まぁ、余裕はないから最低限だがな。新しい奴がバンバン入って来るようになる時期だ。使い古しは民間に流してどんどん新しいモノを作って行ってくれ。ただし規格は標準化を徹底しろ」
「はいっス」
そんな感じで工作機器についての見学を終えた悪坊主。彼は終わった後に壱心に告げる。
「さて、これでまた少し時間的猶予が出来たわけだ……この時間、何に使うかは自由にしてもらって構わんが……自分にとって悔いがないようにな」
「……どういう意味ですか?」
「言った通りだ。自分にとって、悔いが残らないように動け。俺は君じゃないからどう動けば君の悔いが残らないようになるかは知らない。それ以上は俺が語るべきことじゃないしな……さて、それじゃあ俺は帰る」
そう告げると悪坊主は消えた。残された壱心は何がどういう事かは分からずに家族と相談するが何もわからないまま翌日に福岡を離れて中央に向かうのだった。
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