余暇
1897年。金本位制が確立したその年。壱心はまさかの暇をしていた。理由は雷山の一件が片付いたことにより亜美を始めとする優秀な人手が戻って来たこと。それに加えて悪坊主からパソコンと複合機を借りられたことが大きい。
(……今日の執務も夕方には終わるな)
当初は久し振りのパソコンで使い方を忘れかけていたが、今となっては過去の事で相手方の承認を得るまで壱心がすべきことはない。時刻は18時を回っていた。
(今日も会食はないことだし家に帰るか……)
以前まで執務に費やしていた時間を持て余し始めていた壱心。しかし、パソコンたちはいつ悪坊主に回収されるかもわからないので執務の時間を必要以上に削るというのも躊躇われた。
「亜美、俺はもう帰ることにするが……そっちはどうだ?」
「そうですね……後、一時間というところでしょうか。その
「そうか。だったら雑務でもしながら待つとするか……」
そう言って壱心は画面に目を落とした。しかし、つい先程自分の仕事は終わりだと思ったからだろうか。どうにも手が動かなかった。
そんな折にメールが届いた。この時代にメールを送れる相手など限られているというレベルの話ではない。差出人は案の定と言っていいのか、彼にパソコンを貸与している悪坊主だった。
件名は返信不要。内容は内浦湾という単語に加えて画像が送られてきていた。
(……何だこれ)
そこに写っていたのは人魚だった。しかし、被写体は美女と呼ぶに相応しい女性と半魚人としか言えない男といった具合に明暗がはっきりと分かれていた。
美女の方は艶やかな黒髪に大きな黒い瞳。白雪のような肌をした整った顔立ちに豊満な胸と芸術的なくびれをしていた。だが、男の方は頭髪がなく、一見して蛙の様な顔立ち。加えて鼻は低く、耳は平べったく広がっており肌の色は暗緑色で鱗に覆われ、首には肉の垂れさがった皺が深く刻み込まれており人間目線では恐怖を抱くような姿をしている。また、身体も腹部は魚の腹や蛙の腹を思わせる膨らみ方をしており背中側の鱗との境目はグロテスクささえ感じさせる。
そんな両名の内、美女が少し恥ずかしそうにはにかみながら小さく手を上げており、半魚人の男の方は力強いフロントダブルバイセップスをしていた。
(……いや、やっぱり見ても意味が分からん……そもそも半魚人の方は筋肉があるように見えない……)
幸いなのは返信不要と言う事か。この国のトップまで上り詰めている壱心を国内でこれほどまでに困らせるのは悪坊主位なものだ。取り敢えず、壱心は画像に人魚と魚人と名前を付けて保存しておいた。
(さっきのには何の意味があったんだ……この国には色んな知的生命体がいるとでも紹介したかったのか?)
無理矢理意味を見出す壱心。そしてまた彼に微妙な時間がやって来る。先程のインパクトある写真のことがちらついて仕方がないが、それよりもあの意味不明な仙人について思考が引き摺られたことで壱心には別の悩みが出来る。
(……あの超常現象は俺の事を二つの魂を持つ者と呼んだ。桜は横井さんの言葉を信じるなら本当に木の精霊。そして、俺も同じような発生をしていた……だとすれば今の俺の外にあるもう一つの魂は今、どうしてるんだ……?)
つい、今も意味不明な言動をしている悪坊主との初邂逅の時を思い出す壱心。彼はもう一つの魂について心当たりがあった。簡単なことだ。この身体の持ち主……本来の香月壱心だ。
(二つあるということはまだもう一つの魂が生きているという事。出てこないのは何故? 俺が彼の家族を見捨てたからか? もう出て来る必要はないと判断したのか? それとも、出て来れない理由が……)
悪坊主との再会から少し時間が出来て考えることが増えた問題だ。それはずっと先延ばしにしていた問題でもある。それが時間的猶予が出来たことによって彼の中で再燃していた。
(俺はずっともう一人の俺……香月壱心の魂が働いてこの国を変えるために全力を費やしていると思っていた。だから、わき目もふらずに走れた。だが今の状況は……二つ目の魂はまだあるのか? 俺はどこまで俺なんだ? 何で俺はこの国のためにここまで頑張れるんだ?)
答えの存在しない問い。思考の坩堝に嵌れば壱心の心に黒々としたものが渦巻き始める。先程の半魚人の写真で首を傾げていたのとは本気度が全く異なる悩みだ。だが、どちらもあの仙人がもたらした悩み。
(分からない……俺は一体……今は目の前にあることに一心不乱に打ち込むことも出来ない。会食の予定を増やすか? いや、必要ない。仮に行き過ぎてしまえばそれこそ俺が俺でなくなった時に歯止めが利かなくなる……)
自身が自身でなくなった時のことを考えるとあまり権限を渡し過ぎても困るが、既に壱心にはかなり権力が集中している。今までは目の前のことに集中して特に何も考えずに仕事をこなしていたが、考える余裕が出来ると不気味になってしまう。
壱心は亜美を少しだけ見て彼女が仕事に打ち込んでいるのを確認すると彼女から見えないように頭を抱えた。その時、不意に亜美が口を開く。
「何を悩まれてるのかは存じませんが、話してみてはいかがでしょうか?」
「……何だ?」
亜美はこちらを見ていないはず。壱心が顔を上げると果たして、亜美は未だ書類に目を落としたままだった。だが彼女は顔を上げずに続ける。
「私がしばらく席を外している間に随分と悩まれているようですね……」
「別に、そういう訳じゃないが」
「そうですか。失礼しました……恥ずかしながらお話を受ける代わりに私の相談に乗っていただこうと思っていたのですが」
「……うん? お前が私的な相談か……珍しい。その方が気になる。言ってくれ」
ここ最近は全てにおいて順調だった亜美の私的な相談。壱心は何事かと身構えるが亜美は静かに顔を上げて告げた。
「えぇ、ある未来からの旅行者さんのお話です」
「ッ!」
「……弥子様から色々と聞かせていただきました。壱心様から言い出してくださることを待っていたのですが……」
「……どこまで知ってる?」
亜美の言葉を遮って壱心がそう答える。それに亜美は困った。彼女は本当は何も聞いていないのだ。ただ、彼らが来てから壱心が悩み顔になっているということを受けて鎌をかけただけ。だがここに来たからには知っている知識だけで話を続けざるを得ない。
「色々と、です」
「だからどこからどこまでか聞いている」
「この国の未来を変えるためだけに全精力を傾けて、自分のやりたいことをやっていない……くらいですかね」
まさかの直撃弾だった。亜美からすればただ隣で見ていてそう感じただけのことを言ったまでだが壱心にしてみれば彼の事情を知っている悪坊主に少し前に言われた一言。正にクリーンヒットだった。それを受けて壱心は言葉に詰まる。
「……あの人たちがそう言ってたのか」
「……えぇ」
言っていた気がしないでもない。だが、今の壱心の顔を見てそんな曖昧な言葉は吐けなかった。不幸中の幸いといっていいのか、亜美と弥子の会話を知る者はもういないことだけが救いだ。
「俺に、どうしろとかは言ってたか……?」
「それは何とも……」
「そうか……」
「ただ、そう言っていたということはもう少し自由にしてもいいんじゃないかと思っていたのではないかと思いますがね」
亜美はそう告げて書類を片付ける。
「ところで壱心様」
「……何だ?」
「私は私的な相談と言って壱心様のことを話題に上げましたよね? 賢明な壱心様であればその意味、分かると思いますが……ねぇ旦那様」
「……あぁ、そういうことか」
ここで初めて壱心は思い詰めていた表情から苦笑を浮かべる。
「わかった。俺から話す……俺が、どういった存在なのか」
「えぇ、お願いいたします」
この夜、壱心は亜美に初めて自身の魂の素性について語ることになる。だがそこで改めて壱心は自分について何も知らないことを自覚することになるのだった。
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