日清戦争後

 日清戦争後、壱心は下関に居た。


(……絶対外見で判断されるから俺じゃない方がよかったと思うんだが……)


 色々と思うところはあるが、それでも壱心は全権大使として外務大臣の陸奥宗光と一緒に春帆楼しゅんぱんろうの控室にいる。因みに、今回は流石に外交とのことで壱心が常に連れている女性陣はここまで連れて来ていない。陸奥が国内ならまだしも、海外にまで我儘を仰らないでほしいと窘めて来たのだ。

 開始前はそんな感じで陸奥から窘められていた壱心だが、会談後は一転した評価を得ていた。戻って来た控室にて陸奥は少し休憩している壱心に徐に声を掛ける。


「……流石でございましたな。この国の一大事という交渉にあの胆力は。場慣れというものですか?」


 唐突な陸奥の言葉。それに壱心は苦笑した。どう考えても今回の交渉で活躍したのは陸奥だったからだ。


「まぁ、国の一大事というものにはこれまで何度も立ち会っていましたからね……立ち会うだけの愚物ですが。今回も陸奥殿に任せておけばいいよかっただけ。気楽に構えておりましたよ」

「ははは、ご冗談を。起草されたのは閣下ではありませんか」

「実務交渉をされたのは陸奥殿です。私が思い描いていた以上の結果を引き出せたのは貴方のお蔭ですよ」


 和やかな会話。それは陸奥の結核に壱心が放線菌のストレプトマイシスグリセウスを発見して少量だけ作り出せた抗生物質ストレプトマイシンを渡したこともあるが、今回の和平交渉が史実通りに上手く行ったことが大きい。当然、ペニシリンやフェノール、そしてピクリン酸という歴代の香月組の薬学系切り札たちで儲けた金とそれらに費やしていた研究員を注ぎ込んで設備をそれっぽく整えてようやく少量だけ作り出せた抗生物質ストレプトマイシンを渡したという個別の人間関係が全く影響していない訳でもないが、この和平交渉で全面勝利したのはそれ以上の出来事だろう。

 要するに、彼らが今談笑していられるのは清国による朝鮮国の独立を認めさせ、遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与を認めた上で賠償金2億テールを英ポンド金貨で日本に支払わせることを約束した結果だった。


(そもそも俺は史実の伊藤さんが捻じ込んだ条文をそのままメモ通りに書いただけだしな……)


 現地に住む人間を日本都合で日本人と見做すことや清国の各地の解放、日本への最恵国待遇を認めさせた上で撤兵を約束した壱心は実年齢はそれほど変わらなくとも外見上は親子ほども違う陸奥と親しげに会話する。


「さて、と……これからまた忙しくなりますな。その前に今夜は祝杯ですが。坂本さんから聞いてますよ、大概イケる方と」

「あの人は話を大きくするから……」


 陸奥が笑みを浮かべ、壱心が笑う。これも講和が成ったからこそだ。そしてそれは間もなく新聞により大きく報じられることになる。それによって日本中が日本の勝利に熱狂する中、壱心たち同様に勝利の美酒に酔いしれるのだった。




 しかし、日本中が熱狂する中でただ一つ例外となっている場所があった。それは日本国の福岡県西部にある雷山という山の麓での出来事だ。


「……こほっ、こほっ」


 生気の薄い顔で絶世の美女が咳込む。彼女はこの時代に存在するには不釣り合いな悪路でも走破出来る電動車椅子を操り、その場にやって来た客人を招き入れた。


「……お加減は如何でしょうか、弥子様」


 そこに現れたのはこの国の実務上のトップと言っても過言ではない男、香月壱心の内縁の妻である香月亜美だった。その姿は未だ20代そこそこを保っており、周囲からは不気味がられる美貌を備えているが、目の前の相手はそんな肩書も外見も意に介さずに仏頂面で答える。


「悪坊主がいないから最悪だよ」

「……愚問でしたね」

「そうだね」


 短いやりとりだけして弥子と呼ばれた美女は亜美を室内に入れる。この場所には時代に即してないものが多すぎるが、既に見慣れた亜美は一々驚くことはない。彼女たちはいつもの定位置、弥子の作業スペースにまで移動すると会話を始める。


「それで……? 今日はどうしたの?」

「……日清戦争にて日本が勝利しました」

「……で?」


 日本中が盛り上がっている話題に対しても弥子は何ら表情を変えることはなかった。それに少しだけ落胆を見せる亜美だが、彼女は続ける。


「今回の勝利に際して弥子様にも少し、お供えをと思いまして」

「ぼくは別に何もしてないからいいよ」

「ですが……」

「そういうのを貰うと、悪坊主が戻ってきた時にぼくが余計なことをして世界を変えたと思われるから要らない。いつも言ってることでしょ?」


 亜美が持ってきたものを決して受け取らない弥子。そんな彼女を見て亜美は困り顔を浮かべる。


「……あの、以前純金が足りないと仰っていたのでそれなりのものをお包みしたのですが……」

「ほしかったら自分で取りに行くよ。こほっこほ……それに、回路ならもう出来たからもういらない」

「でしたら、他のものを……こちら、すとれぷとまいしんとか言う薬でして、結核によく効くとのことですが……」

「ぼくの咳は結核じゃない。ただ単に氣がなくなっていってるだけ」


 亜美が何を差し出そうとしてもにべもない弥子。彼女が唯一受け取るのは僅かな量の食物だけだ。しかし、それも米と野菜など質素なものしか受け取らない。亜美は弥子にもっと元気になってもらいたいので色々と差し出すのだが断られるのだ。


「……あの、牛乳とリンゴは体にいいと聞いてますので」

「心遣いだけ貰っておくよ。でも、君の息子さんにアップルパイでも作ってあげた方がいいよ」

「私は弥子様に元気になってもらいたいのですが……」


 億劫そうに亜美の持ち込み品を拒否する弥子。彼女は傍目から見ても疲れ切っている表情だ。このままでは死んでしまう。そう思わせるだけの何かがあった。亜美は雷雲仙人が如何こうという問題ではなく、亜美個人の感情的に弥子を死なせたくなかった。


「……雷雲仙人様が戻って来られた時に弥子様が元気でなければあの方も心配されると思いますよ。ですから、何か食べた方が……」


 その言葉には弥子は無言だった。しかし、ここに僅かな隙を見出した亜美は更に攻勢をかける。そこから少しの問答の結果、亜美が持ち込んだリンゴと牛乳、生姜を用いた飲み物を作り、飲むことになる。


「……何という名前なんですか?」

「知らない。悪坊主が前に作ってくれた」

「美味しいですね……」


 体が温まる飲み物だ。それを飲み終えたところで弥子は亜美に今日は休むことにすると告げて彼女に退出を促す。その言葉を受けた亜美は体をいたわるように返して退出した。


 外に出る亜美。しばらく移動していると宇美が現れた。


「……あ、出てきた」

「何かあったのですか?」

「んー特に何もないですよ? だから遊びに来たというか……あ、そうだ。今日のお供え物はどうでした?」


 要するに暇だったから遊びに来た。そういうことらしい。外見上は殆ど変わっていない上、精神面も肉体年齢に引き摺られているのか殆ど変わりない宇美だが立場は順調に上に登っている。そのため、最近では重要なこと以外は部下に任せるようになっているのだ。そして暇を持て余すようになっていた。


 そんな彼女を前にして亜美は溜息をもらす。


「はぁ……今日のは食べてもらいましたよ」

「え~! じゃあ、何か新しい食べ物とか出てきました?」

「まぁ、そうですね……名前は分かりませんが、それなりに美味しい飲み物になりましたよ」

「じゃあ帰ったら作ってくださーい!」


 いい年して甘えてくるな。この元気の十分の一でも弥子に分けてあげられたらいいのに。そんな悪態を内心で転がしながら亜美はそれもまた仕方ないかと受け入れて自宅への道を歩き始めるのだった。


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