日清戦争
音に聞こえた堅城、平壌城は史実と同じく二日で陥落した。しかし、相手の状況はそれ以上によくなかった。理由は壱心の……引いては福岡藩の介入によって戊辰戦争での犠牲が少なかったことでそれを乗り越えてここまで来られた日本軍の将兵らの質と量、そして彼らの努力があった。しかし、それ以上に史実の降伏時に可能だった雷雨の中の集団逃走が出来ず、軍が散り散りになって逃げたことが要因として挙げられるだろう。
そんな陸での勝利。それに海も続く形になる。
黄海、鴨緑江沖で日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋艦隊による決戦、史実で言う黄海海戦が勃発したのだ。
連合艦隊の構成は巡洋艦八隻にコルベット艦二隻の計十隻が単縦陣を取っており第一遊撃隊四隻が遊撃隊の旗艦である吉野を最前として高千穂、秋津洲、浪速の順で並び、その後ろに本隊六隻が本隊旗艦である松島を先頭に千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑の順で並んでいた。
この際、史実と同様に戦況視察に来ていた他の二隻、樺山軍令部長を乗せた武装した輸送船、西京丸と砲艦赤城は本隊後方の西寄りを追従。史実を踏襲したがっていた壱心の目論見通りに戦闘に参加することになる。
一方、清国の北洋艦隊は戦艦二隻に巡洋艦七隻、それに遅れて巡洋艦が二隻援軍で来るのと更に水雷艇が二隻加わった計十三隻が横列陣にして日本艦隊を迎え撃つことになる。
構成は艦隊最右翼から楊威、超勇、靖遠、来遠、鎮遠そして中央に東洋一の堅艦と謳われた旗艦、定遠。そしてそのまま順に左翼に移り、経遠、致遠、広甲。そして史実ではその最左翼に済遠がいるのだが、この世界線では豊島沖海戦にて沈没している。この他に援軍として来るのが北東に遊弋していた別働隊の巡洋艦平遠、広丙の二隻と水雷艇だ。
これらが互いに船から上がる煙によって敵影を認め、世界初の甲鉄汽船艦隊同士の決戦が行われたのだ。
さて、艦数で僅かに劣る日本軍だが、実態はそれどころではなかった。清国海軍が誇る北洋艦隊は東洋一の堅艦と謳われた定遠や、排水量7220トンの鎮遠を始めとしたドイツの最新鋭が揃っているのに対し、日本の主力艦は排水量4200トンという戦力差。それに日本には相手の装甲を貫くだけの強力な主砲がないという有様だ。
この戦力差を覆すために日本軍は速力では勝っているところに目をつけ、高速船から成る遊撃隊と本隊を切り分けて横列陣を挟撃する隊形を取った。加えて、清国軍に勝る数の速射砲を用いた接近戦を行うことで一発の威力よりも多くの命中によるダメージを狙うことで威力を数で補うことにしたのだ。
要するに今も昔も変わらぬ日本人の好きな当たらなければどうということはないという精神と下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるという戦略だ。
だが、これが史実通りに功を奏す。
そもそも、清国側のスタンスが日本軍の戦闘継続力の低さの上で成り立っていた消耗戦であり、清国としては列強の仲裁による停戦を求めての消極的な戦いだったことがこの戦いの趨勢を決める小さからぬ要因となる。
そして何より、この最新鋭の武装に対して清国が扱い慣れていなかったことが全ての勝敗を決めたと言ってもいいだろう。
口火を切ったのは北洋艦隊の定遠。砲撃は命中せず、日本軍は作戦行動を続ける。それに対し、北洋艦隊は戦い慣れた戦法である衝角戦(体当たり)に持ち込むべく接近を試みるが、速力で勝る日本海軍に取り付くことが出来ずに終わる。
これはつまり、接近戦によりせっかく海外から仕入れた優れた主砲の類の活躍の場を自ら奪い、代わりに連合艦隊の速射砲の活躍の場を与えることだ。この結果、北洋艦隊は本隊と第一遊撃隊の連携による集中砲火を浴びせられた。
しかし、時の運というものはあるもので、史実の日清戦争時に起きた松島の32cm砲が放った定遠への直撃弾はこの戦いではなかなか起こらず、史実と異なり指揮官が健在の艦隊を相手取ることになる。
因みにここで話を少しだけ捕捉しておくと史実における日清戦争時の日本軍と清国軍の戦いは基本的に清国軍が総司令官なしで撃破されている戦いが殆どだ。理由は師団長の暴走、そもそも決まってない、こんな
この師団長の権力が強いことで清国軍は装備の統一がされておらず、各自の装備のカタログスペックのみで言うのであれば日本より優れた軍も多かったが互いに銃弾の融通を利かせることが出来ないなど、統一された近代軍としては致命的な弱点を持っていた。
ただ、この事実をさておいたとして、総司令がいても結果が変わったかは微妙なところだ。まともな指揮官が自軍の軍艦や装備のスペックを知っていれば衝角戦を選ぶわけがない。連合艦隊は史実とそこまで大した差はなく北洋艦隊を徐々に追い詰めていく。
そこに最初に述べていた援軍、平遠と広丙、そして水雷艇二隻が参戦を図り南下してくる。
この頃より衝角戦を諦めた北洋艦隊による猛反撃に遭い、連合艦隊にも損害が出始めた。しかし、その時点では日本軍は彼らの懐に潜り込んでいた。そして浴びせられる速射砲の雨霰。
結果はほぼ史実と同様の内容。違ったのは日本艦の被害が少し増えたことだろうか。だが、それでも史実同様に日本艦に沈没はなく、清国の巡洋艦を半数近く沈めるという大勝利に終わる。
これらの勢いに乗じて日本軍は更に攻勢を強めた。黄海海戦を制したことでそのまま旅順攻略に乗り出したのだ。
旅順は清国海軍にとって最も大事な拠点の内の一つ。対岸にある威海衛と双璧を為す最重要拠点だったが、史実同様に予想外の劣勢による兵員不足により兵士一万三千名の内、約4分の3が急遽かき集めた新兵という有様の上……案の定、防衛線の最高指揮官を確定していなかった。
その結果は推して知るべきこと。元々低かった清国軍の士気は極めて低く、日本軍と交戦するとすぐに逃げ出す有様だった。そのため旅順港は史実通りに僅か一日で陥落。これが史実における日露戦争の旅順攻略を甘く見る発端となって当然だと言わんばかりの状況だった。
そして日清戦争最後の大舞台、旅順港と双璧を為す清国海軍の最重要拠点である威海衛の戦いまで日本軍は破竹の勢いで勝利を続ける。
史実では続く威海衛の戦いにおいて、日本軍は雪と寒さに悩まされることになるが、この世界線では壱心らによってもたらされた繊維産業の余力と他でもない香月壱心という維新の元勲による軍への伝達、そして今は亡き大日本帝国軍の父である大村益次郎らとの話し合いで対ロシアを想定した雪中戦の備えによってその寒さを克服した状態での戦いとなった。
この結果も言うまでもないだろう。史実においても日本軍はこの戦いでほぼ完勝しているのだ。その史実の戦略を知っている人間が入念に準備を行い、実務上の最高権力者としてベストを尽くしている。余程、運が悪くない限り、負けようと思わない限り負けはない。
日本陸軍は連合艦隊と連携して威海衛を制圧。北洋艦隊は威海衛港内で抵抗するも連合艦隊が繰り出してきた水雷艇の魚雷によって大敗。その後、北洋艦隊の一部は逃走するも主要な港を抑えられている状況では何もできない。
これらの連戦連勝に日本中が沸き立った。そして日清戦争の最後の締めくくりとして直隷平野での清国軍との戦いでの勝利が切望される中、その決戦前に清国との間で講和が成立。
日清戦争は日本の勝利で終わる事となるのだった。
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