明治後期の動乱

日清戦争前

 明治27年、1894年の1月上旬。日本で大久保利通が年齢を理由に政界を引退しようとし、壱心が政府内の維新四傑の最後の一人になろうとしていた頃。度重なる失策の挽回、また清国の要求を呑むために朝鮮政府が行っていた重課税に苦しむ朝鮮国の民衆が蜂起した。俗に言う甲午農民戦争である。

 清国によって軍隊の力を削がれていた朝鮮政府は自国内での鎮圧が不可能な事を悟り、宗主国である清国の来援を求める。それを見た日本政府も天津条約に基づき日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し6月5日に大本営を設置した。


 これが事の起こりである。


 清国の軍事力を背景とし、甲午農民戦争の主力となっていた宗教団体「東学党」との講和を進めようとしていた朝鮮は内閣総理大臣となっていた香月壱心の下、史実よりも早く日本側が部隊を送り込んできた事を受け、急いで東学党と和睦して農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。

 しかし、壬午事変、甲申事変を引き合いとして今回の内乱も一時的な平定であり朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないと日本政府は通達。一時対策ではなく根本的な対策が必要であるとして日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。

 だが、清国政府はこれを拒絶。現状に問題はないとし、これまで通り朝鮮は清国の属国として内政を整えていくことを強調して日本が撤退したのを見た後に清国軍の撤兵を行うとの提案を返した。この拒絶を受けた日本は清国が現状維持するというのであれば日本単独で改革を行う旨を宣言しこれが最初の絶交書となった。

 同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し土方歳三が率いる日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。壱心はこの辺りのことの運びについて史実を完全に踏襲するつもりでいる。


 だが、彼が手を加えた部分もある。幕末時の介入によって生じた不可抗力である人事などの担当が変更などを除いて彼が手を加えたのは内政・外交の問題についてだった。


 史実では外交の失策により衆議院が入り乱れ、総理大臣だった伊藤博文の辞職か衆議院解散を行うかという瀬戸際だったこの時期。しかし、この世界線では維新の傑物とされている壱心の存在。そして彼の辣腕によって担当大臣へロシアの東アジア進出を懸念するイギリスについての様々な情報と条約締結に当たって必要な権限を渡すことでイギリスと日英通商航海条約を締結させることに成功させ、その混乱が起きずに新政府内は内部に色んな思惑はあっても表面上は団結させられている。

 加えて国内向けに国難が来ようとしていることを強調し、民衆への統制を強めた。また、福岡藩閥など壱心個人の伝手を使って内密に連絡を取り合うことで史実では挙動の遅れた海軍の動きも即時適応が可能にされていた。


 ここに準備は整ったとばかりに壱心は更に交渉を加速させる。1894年の7月初旬、同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側に日本は朝鮮の内政改革を再度要求。再び交渉が決裂するのを確認した後に壱心は清国に絶交書を送るように指示して日本は清国との開戦を閣議決定。送り込んでいた兵に指示を出し、朝鮮王宮を事実上占拠して高宗から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出した。


 この大義名分の下、日本は清国の権力を朝鮮から追い出す戦争、日清戦争を開始する。


 だが、宣戦布告前にことは起きる。これも史実通りの流れで、最初に起こるのが豊島沖海戦だ。史実では礼砲交換(敵意のないことを示す空砲発射)しようとしたところ、突如清国軍艦による砲撃を仕掛けられたことを発端として起こる事件だがこの世界線でも同じ出来事が起きる。日本の行動が早かった分だけ清国の行動も早められたということだ。

 だが、時期は多少異なれど、起こる内容は同じとなる。壱心が日本の内情をいくら変えようとも海外はそんなこと知らないため当然のことといえば当然だった。


 それはさておき、日本の戦力は吉野を旗艦とした巡洋艦三隻。清国は巡洋艦二隻に砲艦一隻、それに史実より時間がない中で集めた清兵1100と武器、弾薬を輸送中のイギリス商船一隻という組み合わせだった。


 まず行動を起こしたのは奇襲を仕掛けて来た清国側。それに応対する形で日本軍の巡洋艦、浪速の砲撃が清国艦の巡洋艦、広乙に命中。轟沈させる。これを受けて清国側は逃走を図るが、当時世界最速の最新鋭艦である吉野と、秋津洲は逃走する清国の巡洋艦と砲艦を追いかける。


 そして最後の一隻を任された浪速だが、輸送艦に停船を呼びかけるも暴徒化した清国兵によって占領されてしまったイギリス船、高陞こうしょう号はこの呼びかけを拒否。そのため、二時間にわたる問答を行う。問答の末、艦長である東郷平八郎は高陞号を撃沈することを決意。水雷による攻撃を行いこれを撃沈させた。その後、イギリス人船員・士官を救出する。

 この一件に関して、通商航海条約を結んだばかりのイギリスは当初こそ事情を知らぬままイギリス艦を轟沈させたことに非難を浴びせて来たが、事情を知ると日本側の行動を適切だったと判断。これによりイギリスは日清間で清国よりも日本側に感情が動くことになる。


 そして、日清戦争宣戦布告前に戦闘が繰り広げられたのは海ばかりではない。陸においても戦闘は起きていた。


 甲午農民戦争の鎮圧要請を受けた清国軍だが、彼らの主力は平壌に駐留。これを快く思わない朝鮮政府は日本側の公使、大鳥圭介に清兵の撃退を要請。日本政府はその要請を受け入れ、朝鮮へと送り出した旅団長、土方歳三に撃退を命じる。

 土方は朝鮮に忍び込んでいた香月組の支那浪人から一早く敵情報を得ると三千を後方警備のために仁川に残し、五千を率いて平壌にいる清国軍主力との戦いの際に後顧の憂いとなる南方に布陣している牙山あさんの部隊を叩きに出る。

 これに対応して清国軍は牙山より北東の成歓せいかんの要衝、罌粟けし坊主山に進出し、日本軍を待つ。


 この結果は、史実通り。いや、史実以上の戦いぶりだったと言っていいだろう。


 要衝、罌粟坊主山での戦いは史実よりも早期に、かつ香月組の支那浪人によって案内者も生まれていた。更に軍を動かすのが戊辰戦争の雄である土方。これで兵が遅れて動く訳がない。

 迅速に動いた日本軍に対し、待ち構えるといっても何を目標として戦うのかがまだ定まっていなかった清国軍。


 兵の規模や装備が同じであったとしても内容がまるで違う。戊辰戦争を戦い抜いた歴戦の将と来るべき日のために鍛えられていた兵。彼らは見知らぬ土地の一つで大した思い入れもない地のために渋々戦っているという感情を拭えない清国軍の兵を散々に叩きのめした。


 ここまでは史実でもある程度は言える内容。この頃戦場に同行するなどして盛んに活動していた新聞の特派員が書くのであればもっと素敵な言い回しで聞ける内容となるだろう。だが、ここからが少し変わって来る。


 罌粟坊主山の戦いの結果を見て牙山の兵たちは平壌の主力組と合流するために北上するのだが、その途中で遭遇戦が起こったのだ。これは史実にない運びとなる。香月組が放っていた諜報員の索敵能力に相手が引っ掛かり、様々な思惑が重なった結果だった。

 敗走する清国軍を相手取るのは史実では土方の役職であるこの軍団の旅団長だった大島義昌。彼は何の戦果も挙げずにその辺りをうろついているだけというのは嫌だった。清国軍の兵を被害なく損傷させることが出来ないかとして動いていた。


 この考えを踏まえた上で大島は敵軍をある程度まで見過ごして中軍以降に食らいつく方針を固める。真っ向からぶつかるよりももう少しで逃げ切れると相手に考えさせた方が相手の抵抗が少ないからだ。


 この思惑も見事に的中。日本軍の緒戦はかなり日本側に優勢な状態から始まることになるのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る