鉄鋼参入
1890年。前年に天皇が定めて国民に権利を与える欽定憲法である大日本帝国憲法が公布され、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和・条約締結などの天皇大権が確立され、衆議院と貴族院から成る帝国議会が成立した翌年。
史実ではこの年にようやく綿糸の国内生産量が海外輸入量を超えるというレベルでの話だが、壱心らの介入によって輸出量が輸入量に届こうとしている程の生産体制が整えられていた。だがしかし、これはいいことばかりではない。日本は生産過剰による不況が到来しようとしていた。
「くすくす、昨年は大変でしたね……」
「大変なんてもんじゃない。この一件が終わったらお前にも手伝ってもらうぞ」
そんな中、壱心は昨年に朝鮮が日本に対して穀物類の輸出を禁じるなどの嫌がらせを筆頭に、様々な問題に対して歴史の先読みをすることで処理して稼いだ時間を合算して練りに練り合わせていた作戦を実行しようとして福岡に移動していた。
「やっと時間が取れた……利三や鉄山、須見の方は上手くやってたか?」
「そうですね。少なくとも、私がよく分からないところまで鉄やコークスの類への造詣は深くなっていますよ」
「よし」
桜や香月組の多くの面々を中央に呼ばず、福岡に留めていた理由……それがこれから向かう場所にはあった。壱心がやろうとしていたのは一貫製鉄。これまで史実を塗り替えるペースで資本を蓄え、それを注入して史実よりも先にそれを達成しようとしていたのだ。それを達成するために自分は内務大臣を引き受けている。壱心はそう思いながら史実とはまた別の道を辿りつつあった釜石製鉄所にいる高橋亦助を筆頭とした熟練工の力を借りて八幡製鉄所を作ろうとしていた。
「……お久しぶりでございます。父上」
「おぉ、鉄心か。大きくなったな……久し振りだな。元気でやってるか?」
福岡にある自分の屋敷に戻って来た壱心を出迎えたのは自分の11歳になった鉄心だった。母親である亜美が福岡にいる弥子を担当していること、ついでに中州で和ロックにご執心であるため、彼は壱心と一緒に東京に住んでいる妹の智子と異なり福岡に在住していた。壱心との顔合わせも久々となる。
「僕は元気です。母上も相変わらず
「……何かすまんな。それにしてもしっかりしたな。後で稽古しよう」
「是非!」
「あぁ。利三との話が終わったらだ。それまでに準備しておけ」
軽く鉄心の頭を撫でて壱心は屋敷内に入っていく。そこに利三はいた。
「……あー兄さん。久し振り。リリィちゃんは?」
会うなりリリアンの姿を探す利三。その姿はそろそろ年齢相応に見える。そんな彼に年齢と乖離した見た目の壱心は何の気後れもなく答えた。
「リリィは東京だ。今日連れて来たのは桜だけだ」
「ふーん……まぁいいや。早速本題に入るけど取り敢えず八幡製鉄所の完成は報告した通り。周辺には製鉄に必要な設備が整えられ、その更に外側に加工所が揃ってる状態だね」
「よくやってくれた」
「流石ですね」
お手柄だと褒める壱心と桜だが利三はあまり嬉しくなさそうに言葉を濁した。彼は壱心とリリアンが祝言を挙げた日から大体こんな感じになっていた。
彼も既にいい年で所帯を持っているのだが、リリアンが利三の初恋の時から姿が変わらないというのも相まって思うところがあるらしい。
「……で、他の報告も書面通り。世界的な不況が来てるから生糸の輸出も微妙だし生産調整中。その間に余った人材と生糸と綿糸で得た金を使って鉄鋼業に参入させてるよ」
「女工からの不平は大丈夫でしょうか?」
「今のところ特には。労働時間は少し減ったけど元々が働かせすぎな状態だったしある程度まとまった金を持って実家に帰る人も多かったから調整は効いてる……」
「そうか」
問題がなければ何よりなのだが。そう思いながら意見交換を続ける三人。彼らの話はしばらく続くことになるが、細かい話は現地に着いてからにすると決め、彼らは席を立つ。
「おっと、その前に一度鉄心と手合わせしてくる」
「……傍から見てると何か親子というより兄弟だね。兄さんは変わらなさすぎる。髭でも生やした方がいいんじゃない?」
ちょっと威厳が、とか周囲の目が、などと言ってくる弟。確かにそうしたいのだが壱心には壱心の事情もあった。
「……何か生えなくなったから無理だ」
「……そうなんだ。何か、ごめん」
「……もしかしたら出来なくはないかもしれないんですが、試してみますか?」
「何かいい……」
既に見た目年齢では逆転している弟の言葉を流して何やら得体の知らない桜の笑みを見た後、壱心は自宅にある道場で鉄心との掛かり稽古を数本行う。かつての壱心が土方と行った面取り式の本格的な稽古だが、まだ十を超えたばかりの息子相手にそこまで本気にはならない。指導の範囲で済む形での取り組みだ。
そこに弥子の場所に行っていた亜美が戻ってきて合流し、利三と桜も観戦する中で壱心親子の稽古は行われた。
「面!」
「……よし」
半時にも満たない時間だがずっと稽古となればかなり疲労がたまる。しかし、彼の息子はそれをやり切った。英才教育の賜物だろう。最後の一本を打たせたところで壱心は息子の胴に手を当てて稽古終了の合図を出す。
「お疲れ様でした」
面を取ったところで亜美が二人に飲み物を出してきた。面を取った鉄心はそれを見て弾ける笑顔を見せる。
「ラムネだ!」
「今日はお父さんがいるから特別です」
「ありがと!」
そんなやり取りをしていると利三がどこか遠い目で壱心を見ながら呟いた。
「いいなぁ、ウチの子どもは甘やかしすぎて……あれくらい素直なら……」
「……お前のところも苦労してるんだな」
「聞こえてた? じゃあ言うけどもっと鉄心に優しくしてやりなよ? 正直、かなり可哀想だから」
「あぁ……」
(と言っても、雷雲仙人との契約があるからなぁ……中央政府も離れたいんだが今は難しいところだし……)
そうしたいのはやまやまだと内心で葛藤しながらも頷く壱心。一先ずこれで約束は果たせたので壱心と利三は北九州の方にまで移動することになる。
「行ってらっしゃいませ」
「また夜に戻って来る」
「! 行ってらっしゃいませ!」
亜美と鉄心に見送られて壱心は利三と桜と共に馬車に乗り込む。大柄な壱心には少し狭い馬車だが桜が小柄である分、入る余地がある。それでも距離が異様に近くなってはいるが二人は気にしていないようだった。
「それで、鉄の方はどうなってる?」
「兄さんの言う通りに製造中だよ。燃料用は周辺の炭鉱から、コークスは軍艦島のものをわざわざ取り寄せて、そして鉄鉱石も国内からどんどん集めて作ってる」
「そうか……何か困ったことは?」
「手が足りない。何とか兄さんが言ってた周辺の炭鉱……亜瀝青炭だっけ? それで何だっけ……何とか法ってのを使ってコークスを作ってみたいんだけど日々の大量生産に追われて研究が難しい。それから、コークスを作る際の硫化物を農業に転換するって話なんだけど、あれどうなの? ちょっとよくわかんないんだけど」
馬車の中でも活発な議論が行われる。福岡にいる間は出来る限り福岡にいる家族との時間を取りたいという壱心の考えを汲み取っての利三の行動だ。この様な細やかな心配りが彼は幼少期から得意だった。それが今の商売にも役に立っている。そんなことを思いながら壱心は告げる。
「硫化物の農業転換については俺より桜の方が詳しい。だが、手が足りないのは俺の方がどうにかしないとな……大野に言って福岡の教育レベルを上げてはいるんだがあいつも中央に取られたからなぁ……」
「うーん、やっぱり時間がかかるよなぁ。兄さん、少なくとも思い描いていた生産規模に達するにはあと二年は見た方がいいね」
「二年、か」
鉄鋼業において規模の経済が活かされる最小効率生産規模に至るまで今から二年かかる。つまり、本格的な量産は1892年からになる。その頃に壱心が今思い描いている量の鉄鋼が作れるとすれば……
(間に合いはする……か?)
来るべき日に備えての国産鉄の増加。それを目指しての活動はどうやら何とか実を結びそうだ。それに、その後も色々と控えている。
「何とか縮めたいところだが……」
「難しいね」
「そうか……」
表面上は残念がっておきながら壱心は内心で利三たちを賞賛しておく。釜石製鉄所という前例から学ぶことは出来たと思うし、ドイツ人技師たちの教えや予め答えを壱心の方で用意していたといえどもこの短期間で量産に入れるとは思ってもいなかったのだ。
(これで国産鉄による製鉄が出来れば、十八年式村田銃の大量生産に移れる……量はまだ足りないが、それでも国産というのが皆を団結させるにあたっての一つの鍵となる。また、戦争による経済の循環が自国で享受できる……)
壱心の中に冷たい考えが渦巻く。勿論、鉄は産業の米とも言える重要な物質としてこれから国内の様々な分野で活躍させる予定だ。
だが今は、まるでこれから確実に起ころうとする戦争の準備施設の様に壱心には見えていたのだった。
果たして八幡製鉄所が軌道に乗って二年が経過した1894年。その事件は起きる。
朝鮮で減税と排日を要求する農民たちの反乱。甲午農民戦争……これにより、日本と清国の戦争が始まろうとしていた。
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