建白運動
壱心が内務大臣として日々に忙殺され始めてから早くも1年が経過し、時は2年目の1887年に入っていた頃。
「……まぁ、大久保さんの言う通りやり過ぎだとは思いますよ」
内閣総理大臣である大久保利通からの相談を受けていた壱心は彼の意見に同意の形でこのように告げていた。それを受けて大久保は頷く。
「ふむ、やはりお前もそう思うか。少し目を離した隙に井上は随分とふざけた提案をするようになったな」
会話の内容は外務大臣、井上馨の欧化主義政策に対しての内容だった。
「鹿鳴館や帝国ホテルまではいいとして、あいつは西欧を美化し過ぎだ。何でも受け入れればいいという問題ではない」
「そうですね」
「どこから漏れたのかは知らんがこのせいで民権派がまた動き出した。内部分裂を招いた罪は重い……あいつには辞任してもらうか」
「妥当ですね」
イエスマンのようになっている壱心だが、実際その通りだとしか言いようがないのだ。大久保は壱心との話に満足したのか話は以上として切り上げ、また執務に戻るために部屋を後にした。残された壱心は屋根裏に潜んでいた咲を呼び戻す。
「……三大建白運動、それと大同団結運動はどんな感じだ?」
「残念ながら嫌と言う程の活気に満ち溢れていますね。言論の自由、地租の改正、外交の失策挽回を求めて連日抗議活動中です」
「だろうな……仕方ない。治安維持の名の下に保安条例を発令するか……」
余計なことをしてくれたものだと思いながら壱心は溜息をつく。
外務大臣となった井上馨だが、条約改正のために諸外国へ日本側の大幅な譲歩の提案を行っていた。その内容が関税の引き上げ、並びに外国人判事の任用だ。
これらは事前に総理大臣である大久保と内務大臣の壱心に話が行っており、反対された意見であるが念のためということで提案して来たという事らしい。
当然、不平等条約の内で何とかしなければならない柱であるこれらの条件で譲歩するなどとんでもないとして大久保や壱心たち同様に政府内役員たちや法律に関するお雇い外国人ボアソナードからも反対の声が上がる。
そしてその話は更に広がっていく。大久保と壱心が反対したので正式発表ではない提案という形になっており、公の発表は行っていなかったのだが民権派はこの一件を知ると一気に燃え広がり東京では政治活動家の他、学生運動にまで発展する。その動きを利用して片岡健吉を代表とする民権派がこの混乱の原因は政府と国民感情の乖離にあると唱え始めた。そして彼らは政府は過度な欧化政策と言論弾圧を止めて言論の自由の確立と民衆が望んでいる地租軽減を行う事、そして拙速ではなく対等な立場できちんとした条約改正を実現させるべきであるとした「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出する。
これを認めるまで抗議のデモが止まることはないという脅し文句付きでだ。
このころ丁度、内閣制の確立に伴い議会制が開設されるとして政府の弾圧や内部暴走によって分裂し、衰弱していた自由民権運動の各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治を打ち立てて条約改正や地租・財政問題を解決しようという動きが盛り上がっており、この動きと相まって政府としても自由民権運動が無視できない勢力となっていた。
(……まぁ、言いたいことは分かる。言論の自由に関してはさておくとして、地租の方は松方さんのおかげでインフレは止まり、必要だったデフレも収束。銀本位制の確立で通貨は安定し、民力休養出来そうに見えるタイミングだ。不平等条約の改正は無理だが、井上案が飲めないからこそ大きく打ち上げているのも理解は出来る)
壱心が内心でそんなことを考えていると咲がやけに様になる形で首を傾げていた。どうやら沈黙が長すぎたらしい。壱心は保安条例の内容を告げる。
「保安条例はそうだな……内容として秘密集会と秘密結社の禁止。後は内乱の陰謀や教唆、治安妨害の恐れがある人物を皇居から三里以上外に退去。3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止する」
「……通りますかね?」
「通すんだよ。今、民権派の動きを過激にさせていい事は何もない。加波山事件や秩父事件、大阪事件のことはまだ民衆も覚えてるだろ? 今の内なら通せる」
「……いずれも未遂に終わっているので説得力に乏しい気がしますが」
(……まぁ、確かに。警察部隊を強化し過ぎたかな……まぁ、治安を守るに当たってはいいことなんだが。自分たちも後ろ暗いことが出来なくなったのは微妙に痛い気がしなくもない……)
言っておきながら少々思うところが出てきてしまう壱心。しかし政府内でも困り事であるのは間違いないため、対策を打っておく必要はある。今回の一件を壱心が担当する内務……治安の面から見た場合に何もしないということは出来ないので、法務大臣である山田顕義に後は投げることにした。
「これでいいか……さて、お次は軍事拡大についての協議が入ってるか……」
「そうですね」
「……どうしたものか」
次に入っている会議について思考を飛ばす壱心。先程の民力休養と正反対な要求が陸海軍から来ているのだ。
(まぁ彼らの要求も分からんでもない。つい最近までイギリス艦隊が朝鮮の巨文島を占領していたこと、イギリスがそこまでしなければならない程、ロシア艦隊が東アジアの方に動こうとしていること。どちらも軍備増強の根拠としては一理あるものだ……)
壱心は彼の情報網、及び彼が持つ史実の歴史を思い出しながらそう考える。この1887年というのは1885年から2年に渡ってロシアに対抗したイギリス艦隊により朝鮮の島が占領されていた時期だ。ただ、この時期になると他でもないロシアの反対によってその島……巨文島は解放されている。
この問題の発端はロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制すという名目でイギリスが独断で朝鮮の保護を行ったということだが、保護とは名目に過ぎず事実上、占拠されていた。日本も過去に対馬という例があるため、敏感になるのは当然のことだった。
(それに来年にはアジア最大規模の水軍、清国の北洋水師が完成する……大陸浪人からの情報でこちらも政府の重鎮は知っていることだろう……)
また、李鴻章による清国の近代水軍も完成間近だ。周辺国がきな臭くなっている東アジア情勢を知っているからこそ、政府側は民権派の民力休養の叫びを無視せざるを得ない。
(実際に甲申事変では清国とやり合ってるわけだし、その辺りに敏感になって当然の問題だしな……)
しかし、国内が疲弊しつつあるというのもまた事実。一般的には松方デフレ後のこの時期は企業勃興期として好景気とされるが、もう二、三年もすれば企業勃興の反動として過剰生産による不況期が到来する。また、世界的な銀の増産などによる不況の煽りも来るのだ。バランスを取るのが難しい。
「……はぁ」
(まぁ取り敢えず日清戦争に備えて防寒着の在庫を作れるのはいいことだが……それとこれとは別の話だ。全体の景気、どうするかなぁ……)
また溜息をつく壱心。それを見ているだけの咲。彼女は大変そうだなと思うだけで何も手助けはしない。そんな呑気そうな彼女を見て壱心は咲に尋ねる。
「……何かいい案はないか?」
「知りません。私は壱心様の手足となる契約はしてますが頭になるのは私の役目ではないでしょう」
「……じゃあ誰に任せようか」
「……思い当たらないのでしたらご自身でされたらどうですか?」
冷たい咲。壱心は溜息をつきながらも今日も今日とてこの国の未来のために身を粉にするのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます