対岸の火事

 鹿鳴館で西欧風の社交場に参加してからというものの福岡に引き籠りになっている壱心だが、そんな彼にも今年の七月には華族令に従って伯爵の位が付与された。

 これにより数年後にやって来る貴族院への参加が義務付けられることになるが、今の壱心にとってはそれよりも大事なことがあった。


 しかし、その大事なことを無視して壱心は現在、福岡にてそろそろ五歳になろうとしている鉄心が広い庭で楽しそうに走り回っているのを見ながら友人である安川と一緒にいた。

 隣にいる安川だが、彼は何を考えているのか分からぬ視線で人外の道へと歩む英才教育を受けている我が子を眺めている壱心を見て何か言うのを躊躇っていた。

 そんな分かりやすい視線に気付かない程壱心は鈍感ではない。だが彼は敢えて何も言わずに宇美と追いかけっこをする我が子を眺めていたのだ。


 そして、とうとう痺れを切らしたのか安川は切り出した。


「……おい、俺が言うのも何だがお前今ここにいていいのか?」

「まぁ……」

「朝鮮が大火事だぞ? 日本も一枚噛んでる」

「……みたいだな」


 何ともやる気なさそうに答える壱心。現在、時は1884年の12月。朝鮮で甲申事変が起きていた。概要としては史実通りの内容だ。朝鮮で清国の介入により親清派にさせられた事大党の閔氏に親日派で独立党の金玉均クーデターを仕掛け、一時的には金玉均が勝利したものの清国の介入によって閔氏が勝利したというものだ。

 これは清仏戦争によって清国がベトナムを巡ってフランスとの間に緊張が高まったため朝鮮から駐留清軍の半数が帰還したことを契機として起きており、朝鮮政府内で劣勢に立たされていた開化派が日本の支援を利用して起こしたものだ。

 クーデターは成功。金玉均らは急進開化派の新政権を樹立。その中で日本の動きとしては特に自由民権運動を行っている自由党がその動き動きを注視しており、彼らはフランスに朝鮮の支援を求めたりしていた。

 だが、自由党は1882年の福島事件への反発で起きた1884年の加波山事件の計画を壱心が強化した警察によって暴かれ、史実よりも少しだけ先んじて事が運んで解党している。そのため今回の一件は日本政府が改革のために公使を通じて日本の警護兵百名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内させている。


 そんな背景があるのだが、壱心はごく私的な感情を以て安川に答えた。


「……正直、朝鮮に介入したくないんだよなぁ俺。この前まであれだけ日本のこと悪し様に言っておきながら清国の圧力が強まるとこれだ。面倒」

「……気持ちは分からんでもないが、あそこを抑えておかなければ日本が危ないのは分かってるだろうに」

「勝手にやっててくれんもんかね。俺は征韓論に反対した立場だし」

「勝手にやらせたらあそこは清国になるだろうな。もしくはロシアだ。どの道日本にとっていいことは起きんだろう」


 壱心もそれは分かっている。だからこそ溜息をつくのだ。


「はぁ……まぁ、動きはするさ。この前だって公使だけじゃなくて民間の居留民が狙われて殺されたんだ。保護の名目で動く」

「で、その後は?」

「……フランスさんと睨み合ってる清国次第だろうな」


 まだ彼らにまで届いていない情報だが、実際に現場では史実通りに清国の動きが起きている。袁世凱率いる駐留清軍による軍事介入が発生し、金玉均のクーデターは失敗。また、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。

 この結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図る道は絶たれることになる。そして壱心が言っていた朝鮮不信論に合わさる形で脱亜論が盛んになるのだ。


 ただ、現状で分かっていることだけを集めて話している安川からすれば壱心の言動は非常にやる気がないだけのものに見えた。自由民権運動に参加しているからこそ政府の動きとして代表者である壱心の動きが気に入らないのだ。

 だが、それを言ってしまえば「じゃあ政府に戻ってやれよ」と言われてしまうので極力別の形で攻めている。しかし、回りくどいやり方をするのは安川的に仕事だけで充分だった。そのため単刀直入に尋ねる。


「で、清国次第とは言うが清国がどう出たらどうするという算段はあるのか?」

「一応ある」

「ほう、ご教授願いたいもんだが」


 興味深そうに聞く態勢に入る安川だが壱心には取り分け話すようなことはない。日本政府としてどう動くか聞いていた情報を話せる範囲で話すだけだ。


「……普通のことだ。取り敢えず、朝鮮から両方手を引きましょう。と言っておいてもしも今回みたいな騒ぎがあって出兵する必要があるとなったら勘違いしないためにお互い連絡しましょうねと取り決めする」


 史実では天津条約と呼ばれるそれだ。尤も、史実とは異なり日本全権として現地に赴くのは大久保だが。


「で?」

「で? も何も……」

「神算鬼謀の香月閣下様はどうしようとしてるのか聞いてんだよ。個人的に」


 冗談めかして、目だけは本気で尋ねて来る友人。壱心は少し考える素振りを見せながら答えた。


「やる気はないが……それは向こう次第だ。お前の考えてる通り」

「向こうがやる気になったら?」

「そりゃ、やらなきゃダメだろ。そういうもんだ……あ、転んだ」


 我が子が庭先で転んだのを見ながら壱心は思わず反応する。しかし、鉄心は元気そうに再び走り始めた。それで真面目な空気が切れたのか安川は壱心に茶化し気味に尋ねた。


「そん時の算段が聞きたいなぁ」

「おっさんの猫なで声は気持ち悪いな。話す気が失せた」

「話す気あったのか……つーかおっさんね……いやまぁそうなんだが、お前はどうなってんだ……? 全っ然老けないが……」

「色々あってな、色々……」


 我が子から目を離して遠い目をする壱心。最近は流石に実年齢に対して外見が不変すぎて奇異な目で見られることも増えて来た。そのせいか、薬谷に運営を任せている薬学所に不老長寿の妙薬をくれと頼みに来る変な依頼も出てきている始末だ。


(俺がこの世界で目覚めてから二十年が経った。それで歴史を変えてまで助けた知人たちも次々に寿命で死んで行ってる……)


 自分だけ歴史に逆行。それも物理的に歴史の流れに取り残されているのを実感する壱心。その上、このまま行けば見た目年齢を自分の子どもにすら越されるのではないだろうか。そんな不安が鎌首をもたげるが、桜の話からして越される日は確実に来るというのは理解していた。

 しかしもうどうしようもないことだ。何も知らない安川は不思議そうな顔で突然考え込み始めた壱心のことを眺める。


「ほんと、皺もねぇしなぁ……」

「じろじろ見るな気色悪い。ま、何にせよ朝鮮について俺のスタンスはそんな感じだ。俺は特に何もしない。するとすれば大久保さんと井上さん、後は伊藤さんが何とかするさ」

「他人事かよ……まぁいいか。あくまで個人的な話だしな。組織的な話となれば話すもまた変わって来るだろうし」

「本当にな」


 組織人としての辛さを感じながらそう告げる二人。二人の会話はそこで終わり安川は壱心に暇乞いをした後、鉄心と宇美に軽く別れの挨拶をして去った。


「……ようやく去りましたか」

「で、さっきからうろうろうろうろしてたが何か用か?」


 安川が香月邸を去ってその後姿すら見えなくなった頃。見送りから戻って来た壱心の下に金髪碧眼の美女、リリアンが姿を現した。その姿を見て何ら動じることなく壱心は彼女に何用かを尋ねる。すると彼女は頬を少し赤らめながら答えた


「その……何と言いますか、やや子が出来ました」

「……! そうか!」

「はい!」


 誰の子か疑う余地もない。鉄心に続く二人目の子が香月家に生まれようとしていた。この日、彼らは祝宴を楽しみ安川はまた後日に鮑を持って走って来ることになるのだった。




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