鹿鳴館

「壱心様、タイが曲がっております」

「ん……そんなはずはないが」

「くすくす……」


 1883年の晩秋。日本に海外の要人を招くための迎賓館が出来たとして東京に呼びつけられていた壱心は燕尾服テイルコートを身に纏いスマートを着こなす紳士となっていた。

 同じく彼と行動を共にしている亜美、咲、リリアンはバッスルスタイルのドレスを身に纏い、煌びやかな様相を呈していた。ウエストは細ければ細い程よいという当時の西洋の認識に合わせてコルセットで締め上げられた彼女たちだが割と平然としていた。元々が細いことや変装技術の賜物ということもあるが、壱心は彼女たちに共通しているある人物の影がちらついていた。


 さて、それはそれとしてこれほど着飾った彼らが向かうのは鹿鳴館。外務卿である井上馨が外国使節を接待するためにお雇い外国人のコンドルに設計させた欧米風の社交施設だ。

 それまでは国賓は既存の施設を借用する形でもてなされていたが、井上主導の下にここに設立されることになった。壱心としては井上と仲がいいわけでは決してないため行きたくはないが、日本の首脳部が集まる祝い事であるため行かざるを得なかった。

 ただ、それは壱心の個人的な思いであって、同行する淑女たちは二ヶ月前に送られてきた招待状を見て胸を躍らせていたが。彼女たちは招待状のプログラムに載っていたカドリールやワルツ、ポルカを一所懸命に練習し、今日に備えていた。

 尤も、練習時でも十分に楽しそうだったが。実際には踊りたい相手は常に一人であるため舞踏会に出る必要もなかったりするが、周囲に自身と壱心の仲を誇示することが出来るという点で舞踏会も楽しみだった。四連続で同じ男性と踊ってはいけないというマナーも三人いれば回避できるため問題ない。


 因みに、こういったプログラムを事前に組んでセッティングする側からすれば壱心とその周囲関連についての話は非常に頭を悩ませるものだったが。


 さて、それはさておき当日の様子に戻る。


 夜に入り始めた頃。開始時刻が回ってから壱心らは会場入りする。当時の舞踏会のマナーとしては開始時刻の15分後に入るのが一般的なマナーだった。それに則った形となる。

 そこについた壱心は軽食が準備されている1階の大食堂に通される。そこには政府高官が既にそれなりの数いてビスケットやサンドウィッチ片手にワインを嗜みつつ話をしていた。


(……マナーがな。喋りながら食べるんじゃない。フィンガーボウルの水はワインを冷やす場所じゃないぞ。そもそも赤ワインは常温だ。形だけ真似るとはこういうことか……)


 鹿鳴館が出来た当時についての話を思い出す壱心。今日は舞踏会であるため軽食しかないが、実際に晩餐会などになっていれば更に酷い有様だっただろう。


(マナーに拘るのはあまり好きじゃないが、外交上は通過儀礼みたいなものだし、一応ある程度は指導を入れておくべきか……)


 マナーにうるさくない壱心でも流石に部下にフィンガーボウルの水を飲まれた日には少しは言ってしまうことだろう。相手は知らなかっただけであるとしても、だ。そう言ったことを避けるためにも後日マナー講座でも開こうかと壱心は思った。

 因みに、壱心の後ろにいる彼女たちにはマハンとの会食の時やお雇い外国人とのやり取りの前にマナーについてはきっちり仕込んである。


 そんな彼女たちの堂々たる所作を見てか、周囲の政府高官の子女たちもおっかなびっくりで西洋風の食事に触れていたのを止めて真似を開始する。ついでに着付けの方法についても見直しが図られた。それを見て政府高官たちも席を外させる。


「……楽しみですね。特に私の手塩にかけて育てて来たバックダンサーたちが輝くのが」

「……仕込みについては黙っておけ。誰が聞いてるか分からんだろうが」

「すみません、楽しみで」


 中州からわざわざ連れて来た踊り子たちのことを話題に出す亜美。史実通り当時の日本人ではダンスを踊れる者が少なかったので、動員数を増やすために踊り子を足しているのだ。尤も、亜美が今回連れて来たのは西南戦争で落ちぶれたとはいえ元々それなりの地位の女性たちだ。当時の婚活パーティとも言える舞踏会ではそこまで場違いなものではないだろう。

 寧ろ、維新で名と財だけのし上がった元の出自が低い身分の家が箔をつけるために元々高名だった家の血を欲しがるというのは両者の結びつき的には問題ないとも言える。


「ふふふ、これであの店の名が上がり、質の良いダンサーが入ればライブもよりよくなるというものです……」

「……最近、お前は本当にそちらに傾注してるな。まぁ、子育てに集中して欲しくて仕事を任せてないから暇なのかもしれんが……」


 音楽系の趣味を持つ内縁の妻のことを見つつ壱心は何とも言えない気分になる。因みに今日の鉄心は宇美に預けられている。既に離乳食を食べている彼だが、古賀はさておき、普通に壱心の家で雇われている家人にも非常に大切にされているので何の気兼ねもなく彼女たちはこの場にいた。


 それは兎も角として壱心の下にホストが現れる。外務卿、井上馨だ。彼は壱心に会うなり嫌味をかましてくる。


「本日はようこそ、香月殿。今日も群を抜いてお目立ちになられてる。やはり上に立たれる方は違うというところですか?」


 言いたいことは要するに周囲に合わせずに今日も目立ってるなということだ。その他の言葉はそれを隠すための修飾に過ぎない。それを理解しつつ壱心は返す。


「本日はお招きいただきありがとうございます。いやはや、背が高いだけですよ。邪魔になって仕方ない。今回は邪魔にならないように務めさせていただきますよ」

「邪魔なんてとんでもない。主賓のお一人なのですから堂々とお願いします」


 壱心の返しは邪魔だと思うなら帰るというものだ。それを受けて井上は大袈裟なまでにそれを否定する。ただでさえ新政府首脳部である大久保にはこの催しが気に入らないとして、そして木戸も療養中ということで来ていないのだ。ここで壱心にまで帰られると彼の面目は丸つぶれとなる。

 

(だったら最初から煽るなと言いたいところだが……まぁ、政治でも利権でも散々やり合った仲だ。色々言いたい気分になるのも分からんでもない。特に壬午軍乱の後にも色々あったしな……)


 他にも挨拶しなくてはならないとしてこの場から去る井上馨を見送りながら壱心はそんなことを考えた。その後、周囲と色々と話していると時間になったようだ。

短い挨拶の後にプログラムの一曲目にあるカドリールがスタートする。その後、最初に踊り出す皇族の男性と女性のダンスを見てから壱心たちも踊り始めた。


(しかし、嫌な客と言えば嫌な客だよな……井上さんが煽って来た理由も分からんでもない……)


 周囲が試行錯誤を重ねながら踊る中で一組だけ見事に踊っていることを自画自賛しながら壱心はそう思った。今踊っているのは亜美とだが、咲は空気を読んで踊りを受けるがリリアンは見事な壁の花となって踊りを拒否している。


(……ちょっと箱入り娘に育て過ぎたか。俺とのワルツまで誰とも踊る気がないらしい)


 踊りながら向こうの様子を窺う壱心はそう思う。当時、人気があったワルツのみを踊るというリリアンだが、それを咎める者は特にいない。まだ始まったばかりということ、壱心の庇護にあること……理由は色々とあるだろうが何より見目麗しい金髪の淑女を踊りに誘えるほど自分のダンスに自信がないというのが問題としてあるのだろう。特にリリアンを連れて来た壱心ら一行が見事な踊りを見せているというのが更にハードルを上げている。


(……今度は練習してから頑張ってもらうか)


 恐らく、自分は晩餐会はさておき、こういった催しにはもう来ないためリリアンたちが来ることもないだろうが。そんなことを壱心は次のワルツでリリアンと踊りながら考えるのだった。

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