壬午軍乱
壱心が書類に追われている中迎えた明治十五年、1882年。史実通りに朝鮮で壬午軍乱が勃発した。自らの権勢を取り戻そうとする興宣大院君が日本に近づいて開国しようとしていた朝鮮国王、高宗の妃である閔妃に対しクーデターを起こし、朝鮮は親清派になる。
この背景としては日朝修好条規により開国し、朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とした閔氏政権が日本の支援のもと開化政策を進め、新編成の「別技軍」を組織していたがその新軍にかける出費が嵩んで旧軍兵士への俸給が滞っていたこと。また、その新編成軍と旧軍との待遇格差が原因だった。
この理由からクーデターの趣旨を理解しておらず恨みで動いた者からは日本人が狙われた。日本から派遣された軍事顧問だった堀本礼造。また、日本公使館が襲撃を受けその他にも留学生らが殺される。
当然、日本としてこれは受け入れられない。国内では朝鮮に対する即時報復論が台頭し、国内各地から義勇兵志願者が殺到することになる。また、出兵を促すための署名嘆願運動が興り、民権運動参加者はそれに乗っかる形で政府を攻撃した。
政府も黙っているつもりはない。漢城に駐在していた公使館の花房が壬午軍乱より命からがらに長崎に帰国し、外務卿である井上馨に報告が行き、すぐに内務卿香月壱心へ連絡が入ると、彼の指示の下で日本は居留民の保護を名目として軍艦四隻と千数百の兵を派遣。ただちに動乱の鎮圧に向かう。
しかし、時を同じくして清国もまた朝鮮の宗主国として属領の保護を名目に軍艦三隻と兵3,000人を派遣していた。どちらが先に朝鮮の動乱を抑えることが出来るのか競争になった訳だ。
この競争に勝利した方が朝鮮での存在感を大きく出来る。そのため迅速な対応が必要になる。だが、日本が海を渡り漢城に向かうよりも先に清国軍は朝鮮の反乱軍鎮圧に成功してしまう。
日本に先んじて反乱軍を制圧した清は漢城府に清国兵を配置し、自国が望ましい形に朝鮮を動かすために鎖国を続けようとする大院君を天津に連行して朝鮮の外交方針を転換した。そして圧倒的な外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、親清政権を復活させると共に新式の軍を解散させた。これにより朝鮮軍は火縄銃に頼る旧式の軍が主力となり、自己防衛すら清国に頼る状態になったのだ。
遅れてやって来た日本は朝鮮に報復に出ようとするが、清の馬建忠の指示の下で全権公使として朝鮮に戻って来ていた花房に謝罪文が届き交渉に移ることになる。
そして朝鮮の新政権となった閔氏政権と済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを殆ど日本原案のまま認めさせることで合意し、済物浦条約という形で纏めることで矛を収めた。
この日本側の要求を概ね呑むという清国の姿勢にはベトナムを巡ってフランスとの緊張が強いられていたので日本と事を構えるつもりはなかったことが影響していただろう。
また、日本も外務卿である井上馨の基本方針が対清協調であり、朝鮮に対してもそこまで強硬的ではなかったことがそこまで軍を動かすことに固執せずに済んだというところだ。
その後、清国は朝鮮政府に外交顧問として袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退することになる。
ただ、この後が史実と異なる流れとなる。内務卿香月壱心より朝鮮への不信感を隠し切れない態度が見られたのだ。それは彼が漏らしたマキャベリのとある言葉と共にいとも容易く伝染し、首脳部に蔓延することになる。
広がった言葉は簡単だ。
「隣国を援助し、強大になる原因を生み出した国は亡びる」
「次のことは決して軽視すべきではない。一つは忍耐と寛容を以てすれば、人間の敵意をも溶解できるわけではないこと、そしてもう一つが報酬や援助を与えれば敵対関係すらをも好転させるわけではないことだ」
当然、壱心がそれ以降朝鮮に何かしたという訳ではない。朝鮮への介入を止めるということは即ち、かの地を清国やロシアに渡すということに繋がる。過度な支援は行わないものの支援していないと言われない程度には活動していた。
しかし、つい最近の壬午軍乱の日本人殺傷事件やかねてからの日本に対する朝鮮の態度は日本に強硬な態度を取らせるには十分だった。日清朝の連合という井上馨の言葉は無視され、脱亜入欧論が興隆し始める。言葉として誕生するのはこれから三年後、福沢諭吉が時事新報に載せてからだが既に気運は高まりつつあった。これに伴い、日本は史実通りに「軍拡八カ年計画」を決定し、軍拡へと転換する。
それらを仕掛けた壱心だが国内に不信感を抱かせたことを理由に内務卿を辞職。大久保に再び政権を渡して色々と丸投げした後に自らは福岡に戻り利三と共に紡績業を開始する。
この紡績業だが、がら紡による紡績を壱心たちは行っていたが、今度は渋沢栄一により開かれる大阪紡績会社と同じくイギリスの蒸気機関を利用したミュール紡績機を導入。更に早良製糸場と同じく昼夜二交代制で二十四時間稼働を実現させた。
また、同時期に壱心は大量生産した綿糸の一部を使ってマスクを製造し、製糸場で働く女工たちに着用を命じる。ボイラーを原動力とする暑い職場でマスク着用は嫌われたが、肺の病にかかる可能性が低くなるとの説明を受けると彼女たちも素直に指示に従った。実際にマスクを着用した後のマスクの表面を見れば誰もがマスク着用をしようと思うようになったのだという。
実際、この指示は空気中に漂う細かい繊維を吸わなくて済むという点において役に立ち、同時に流行していた結核患者の咳込んだ際の飛沫を直に吸わなくて済むという面でもある程度は役に立っていた。この指示により壱心の製薬会社は更に名を上げることになる。
このように壱心の会社は基本的に成功を収めていたのだが、その中で過去の因縁がつきまとってもいた。
それがこの年に発足した日本銀行と国立銀行の兼ね合い。つまり、釜惣が過去に壱心に黙って行った金融業に携わる問題だ。
日本銀行が設立されたことで銀行券の発行権が国立銀行から剥奪された。これにより釜惣がやっとの思いで軌道に乗せ始めて来た銀行業が大きく傾いた。これまでの事業から内容が変わったことで混乱した釜惣に経営を危ぶむ声が上がるとそれが一気に信用問題に発展。釜惣は事業を支えるために虎の子の企業を幾つも壱心の下に売却せざるを得なくなり、利三と壱心はそれをすべて買い取り壱心のやりたいことを集めた企業群はすべて香月組の下へ回収された。
釜惣は企業を売却した金で立て直しに成功するが、香月組との縁は更に薄れたと言っていいだろう。ただ、彼らもまだ地元に大きな影響力を持つ者。縁が切れるということはない。少なくとも釜惣が三菱の日本郵船に対抗して生まれた三井の共同運輸への出資も行っているため、壱心が政界にいさせられる限りは縁が切れることはないだろう。
そんな感じで過ぎてゆく1882年。壱心はこの年も慌ただしい一年を過ごして少しの休暇を得ては子どもたちの様子を見に行ったという。
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