明治十四年の政変
明治十四年、1881年。
壱心が内務卿に復帰し、松方正義が大蔵卿として軍事費以外に緊縮財政をかけ、同時に増税を実施することで不換紙幣の整理を開始したこの年。新政府内は開拓使官有物払い下げ事件により荒れていた。
「香月閣下、ことはこれだけではすみませんぞ! このようなものは氷山の一角に過ぎません! 至急、対策が必要です。黒田殿の辞任を!」
「既に手は打ってある。あの人は
「…………ありません」
どう考えても他の用件がありそうな雰囲気を醸し出しながら壱心の一瞥に負け、何も言えずに出て行った政府要人。彼が言いたかったのは自由民権運動により今ホットな話題となっている国会開設と立憲体制への移行についてだろう。それらに消極的な姿勢を見せている大隈重信らが今回の黒田清隆の汚職事件……開拓使官有物払い下げ事件を庇う発言をしたにより失脚させられそうだという段階で、民撰議院設立の建白書発案時に話し合いに入っていた壱心であれば何か意見があるはずだと思ってのこと。
しかし、そうは思いながらも国会開設を訴え出るということは現状に不満があると言っていることに等しい。それは壱心に今の地位から降りろと言っているのと同じことだ。流石に維新の要となった相手にそんな直接的な言葉を彼からは出せず、壱心からも何も言う気はなさそうだと見て引き下がったのだ。
(……正直、黒田関連の話は個人的にはどうでもいいが……)
そんなやり取りをどうでもいいと宣う壱心。彼の中でこの一件は既に話が進んでおり自分の手を離れているのだ。既に国会開設の詔が出る方向で話はついている。
黒田とその後ろにいる大隈がどうであれ、憲法がなければ諸外国との条約を結ぶ際に不利に働くため、立憲体制にするのは既定路線であり、国会も近い将来、開設するつもりだったのだ。政府の中央で耳聡い者たちであればその話は既に聞き及んでいるところで、政党を作ったり派閥づくりに勤しんでいる者が多い。
だが、壱心はそんな政府内の動きよりも壱心は経済の方が気になっている。
現在、松方正義が敷いた松方体制によってインフレがデフレへ転換しようとしている。不換紙幣を回収するためにそうさせているのだ。だが、これによって中小企業の体力が大いに削られていく。
史実ではこの松方デフレと呼ばれる現象が自作農が小作農に転落し、寄生地主制へと移行する切っ掛けとなっている。そしてこのデフレが齎す不況こそが先程挙げた民権運動の話にも繋がって来る。壱心に国会開設の話を持ってくるのであればその切り口からにすべきだっただろう。
(……ただまぁ、必要なことではあるんだよな……財政黒字を目指すうえで松方財政は必要なことだ。来年には日本銀行が設立されるし……あぁ、もう。嫌だ……何で俺はこんなところにいるんだ……)
何だか疲れ始めている壱心。彼の予定では民間企業として色々と事業を立ち上げては収益を上げるか国有化して売り抜くか、そんな感じの生活を送るつもりだった。
それなのに今の彼は一国のトップとして国を預かる事業をさせられている。予定にはなかった人たちとのコネが出来た所為で簡単に動くこともままならない。壱心の成功を後追いしようとしてすぐに真似する輩が出て来るようになっているからだ。
(あー……何にも考えずに鉄心がよちよち歩いてるのをゆっくり見たいな……あいつ中々成長が早いみたいだし……)
ちょっと彼方へ意識を飛ばす壱心。目の前には北海道開拓の成功についての報告と今回の開拓使官有物払い下げ事件を残念に思うが、これからも国を挙げてのバックアップを頼むとの連絡が来ている。
(朝鮮半島よりも食糧生産拠点として俺はこっちを推したいんだがなぁ……まぁ、既得権益が入り乱れて入り辛いってのはあるだろうが……折角農業機材を揃えてるしもう少ししたら利三が製糸業や紡績業で貯めた金を使って製鉄業に入る。その時にコークスの副生物から硫化物を取り出して……)
北海道開拓で成果を上げている福岡としての意見を交えつつ国内にある多くの声について考える壱心。国内では未だに征韓論に賛同する者たちがいるのだ。恐らくは史実よりは少ないとみていいだろうが、李王朝が支配する朝鮮への介入を求めている人は少なくなく、大久保が内務卿の間に朝鮮の開化派への軍事顧問などに人材を派遣していたりする。
何かあった際には必要であることから壱心もそれ自体は反対しないが、このまま行けば来年の壬午軍乱は自分が担当しそうであることが嫌だった。
(……嫌なことばっかりだ)
壱心は溜息をついた。だが、放り投げる訳にもいかない。大久保は立憲君主制の調整で忙しいし、木戸は療養中。この時期にトップに居て色々とやってくれるはずの伊藤博文は上がいるからいいやくらいで他派閥の攻撃に勤しんでおり、他も自分の地位を守る事にご執心で実務は上の命令に従う気つもりだ。そんな政府内の人間に呆れて民権運動に傾注する者たちもまた、いざ自分たちがその立場に入れば文句だけを言いながら上の命令に従う機械となるのだろう。
(まぁそれでも回るから回してもらおうかなぁ……しかし、今いる首脳陣の中じゃ俺が一番の若手なんだよな……引退するにもまだ早いだろうし……つい最近なんざ国家元首様が直々にいらしたくらいだから拒絶も出来ない……はぁ)
壱心が愚痴にもならないことを色々と考えているといつの間にか現れた咲が書類を追加して一言「お願いします」とだけ告げて去ろうとする。
「咲……」
「はい」
「実務処理、一部引き受けてくれ……」
「おや、今は払い下げ事件で神経をとがらせている問題だと思いますが。そう簡単に他の者に重要な書類を任せてはいけませんよ」
正論だ。だが、彼女もやりたくないだけであるのは見なくてもわかる。
「いくらでやる……」
「嫌です」
「本音が出たな……」
「はい。頑張ってください。応援だけはしますよ」
ふわりと微笑む咲。遅老薬を飲んだことによりうら若き乙女に戻った彼女の可憐な笑みに男であれば誰もがぐらつき、それだけで頑張ろうと思えるところだろう。
壱心も例外ではなかった……と言いたいところだが、今回ばかりは例外だった。彼の疲労はそれどころじゃなかった。
「あぁ……応援ね。何してくれるの?」
ぞんざいな壱心の対応に咲は表情を普通に戻して少し考えた後に答える。
「……歌でも歌いましょうか」
「応援を寄越してくれ……誰でもいい」
「わかりました。木戸様に連絡を取りましょう」
「鬼か」
もういい、そう言って自分で仕事をやり始める壱心。それを見てから咲は静かに退出した。
「はぁ……」
そして室内には溜息をつく壱心と書類だけが残されるのだった。
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