遅老薬

 桜が咲と弥子のセッティングが出来たのは結局翌年の春になってからだった。


 世間では松方正義が史実よりも一年早く帰国し日本帝国中央銀行の説立案を含む政策案である財政議を政府に提出して緊縮財政・軍事費以外の歳出の抑制及び増税を実施し、不換紙幣の整理を開始しようとしていた頃のことだ。


「……何ですかこれは」


 コンクリ造りの様に見える謎の建物を前にして咲はそう呟く。そこには二人の美少女が喧嘩をしていたのだ。


「悪坊主はー?」

「だからいないって言ってるでしょ! ぼく、今日はお客さん来るから来ないでって言ってたよね!」

「お客さんはー悪坊主じゃないー?」

「そうだってば。もう来ちゃったじゃん! 多分、あの人だよ!」


(……このところ、壱心様がまた内務卿に戻られて開拓使官有物払い下げ事件への対応で忙しかったですからね……幻覚でも見てるんでしょうか……)


 薩摩藩閥の黒田清隆による五代友厚への払い下げ事件、並びに福岡藩閥の波呂による釜惣の瀬戸への払い下げ事件。

 史実では明治十四年の政変と称されるそれ。だが、本世界線では壱心らの活躍により戊辰戦争が早期決着したため、開拓使十年計画の満了時期がズレた結果としてこの時期になった問題。これへの対応を理由に現実逃避する咲。


 それほど、目の前に居た存在を認めたくなかったのだった。


「……見られちゃった。絶対黙ってて」

「別にー黙ってなくてもー信じてもらえないかもー?」

「あなたも黙ってて!」

「【忘我術】ーきゃはー! これでもう大丈夫ー」


 そう言って大空へと羽ばたいていなくなった美少女。咲は翼の生えた彼女のことを既に覚えてはいなかった。何故か疲れた顔をしている絶世の美少女……弥子を前に首を傾げるだけだ。


「……はぁ。取り敢えず入りなよ」

「えぇ、そうさせていただきます」


 弥子はそう言いながら室内に戻っていく。それに付き従う形で咲も白亜の建物の中に入るのだが、その中を見て彼女は首を傾げる。


(金属に……油の臭い? 仙人様が通った後は臭いが想像していた桃源郷のような匂いに変わってますが……聊か、機械仕掛けな印象を受けますね……)


 非常に鋭敏な彼女の嗅覚は弥子が通った後以外の臭いを嗅ぎ取ってそう考えた。最初から命を救われた相手という印象を抱いている亜美とは異なり、疑ってかかっているのも影響しただろう。

 そんな彼女が通されたのは亜美と弥子がいつも話している作業スペースだ。そこは弥子の匂いとでも呼ぶべきか、良い香りになっている。その場所で空いた椅子に腰掛けるように促されると彼女は素直にそこに座った。


「……それで? 悪坊主がぼくの血から作った薬について知りたいんだって?」

「はい……」

「んー……悪坊主から説明があった範囲内しか話せないんだけど」

「それで構いません」


 そう言うと咲は五円金貨を十枚差し出した。情報料だ。弥子はそれを見たが受け取らずに答える。主な内容は既に桜から咲たちに説明があった通りだ。それを聞き終えると咲は更に五円金貨を十枚積む。


「そこまでは聞いています」

「だったらいいんじゃない? 何か気になる事があるの?」

「……まず、一つ目はこの薬を飲んだ後に子どもはどうなるのか。次に、仮に老化を遅らせる必要があった際に必要分だけ飲むことは可能か。そしてこの薬はいつまで使用可能か。取り敢えずその辺りからお願いいたします」

「んー……じゃあ答えるけど」


 少し首を捻ってから弥子は答える。一つ目の質問には漠然とした質問内容を整理することから始め、子どもを身籠ることが出来る上、服用した状態で出来た子どもには薬の影響がないことを説明した。

 次に必要分だけを飲むことについてだが、これはアンプルを見せた上で半分以上を飲まなければ意味がないということで、逆に言えば遅老を半分程度であれば使いこなせるということだ。最後に使用期限だが基本的にはないという回答だった。


「で? 結局のところ飲むか飲まないかだけど。今のところどうなの?」

「……飲みたくはないですね。私は人として生きて人として死ぬつもりですので」

「ふーん……じゃあもう飲まなくていいんじゃない? 君たちの上司の人がどう思うかは知らないけど。君の思いってその程度なんでしょ?」

「……そう、ですね」


 咲は弥子の問いかけに頷く。その次の瞬間には机の上にあったアンプルは弥子の手の中に入っていた。


「じゃ、捨てるから」


 速い。咲の目にも映らぬ速さだった。それが故に彼女は焦る。まだ決断した訳ではないのだ。しかし目の前の存在は今すぐに決断しなければ捨てる勢い。


「ま、少々待っていただけますか?」

「捨てる。そもそもぼくの血だよ? 飲まれるの嫌」


 至極真っ当なご意見だった。咲の方は壱心が言うところの血清のようなものだという意見に従っているが、飲まれる側も何か嫌だというのは分かる。最近、彼女も似たような被害に遭っていたのだから。


「少々考えますので。今しばらくお待ちを」

「どうしたの急に? 嫌なんでしょ? 飲まなくていいよ。普通の人として生きたいなら飲まない方がいいよ。何ならぼくが取り上げて捨てたことにしていいよ?」

「……いえ、その……」

「同調圧力が凄いならぼくの所為にすればいいって。実際嫌だもん。ぼくの血、飲みたいわけじゃないでしょ?」


 はい、とは言えなかった。この時、咲は自分がおかしくなっているのに気付く。だが時既に遅し。彼女は弥子に魅了されていた。遅老云々よりも彼女の一部を我がものとしたい。そういった感情が強く生まれてくる。


 そして咲は言った。


「は、半分だけ……」

「えー……嫌なんだけど」


 その嫌そうな顔すら愛おしい。それを鋼の精神力で抑え込んで彼女は澄まし顔で告げる。


「悪坊主様より死にそうにない現地人に飲ませよとの話があったはずです。勝手に捨てるというのはいいんですか?」

「う、そうなんだよね……悪坊主に怒られるの嫌だなぁ……もう会えないかもしれないのに会えた時に怒られる心配するのもなぁ……」

「会えない?」


 悩む顔もまた可愛い。そう思いながら咲がそう尋ねると彼女は何の衒いもなく普通に告げた。


「うん。ぼくは七奈の悪い部分だけが残された要らない存在だからね……後十年も生きればいい方じゃないかな? その前に悪坊主が帰って来るかどうかわかんない」

「それは……」

「適当なこと言わないでね? 悪い部分しか残されてなくてもぼくは悪坊主のこと大好きだから。誰にもわかってもらえないくらいに」


 そう告げた彼女は狂信的な目をしていた。その美しい瞳に咲は息を呑む。そして何も言えなかった。


(……自分が永く生きられないというのに、私の相談は酷ですね……)


 これは自分の血液の一部が飲まれるのが嫌だとかそういう問題ではない。それを理解した咲はきっぱりと言い放った。


「それは仙女様がお使いください」

「ん? ぼくはこれ飲んでもあんまり意味ないよ?」

「あまり、ということは少しは意味があるんですよね? どうぞお飲みください。そして、お二人に未来がある様に手を尽くしてください」

「……ここで素直にうんと言えないところが七奈との違いなんだよね。でも、まぁありがと。気持ちだけ貰っとく」


 そう言うと彼女はアンプルを咲に向けて投げた。咲は反射的にそれを受け取る。


「その気持ちにお返しするよ。多分、飲んだ方が後悔しないで済むって余計な言葉も付け足して」

「……仙女様の有難いお言葉ですか。ですが」

「自分にとって大事な人と同じ時を歩めないって言うのは辛いよ。君にとっての大事な人、大事なことに優先順位をつけてみて……半分だけなら若返りの効果も半分だし、後で取り返しもつく。だから、ね?」

「……畏まりました」


 他でもない弥子の言葉に咲は頷き、アンプルを半分だけ飲みほした。非常に甘い香りのするそれを飲み干した後、二三の雑談をした彼女たちはそのまま時間が来るまで話し込み、解散する。



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