急転

 中州での初の和ロックの演奏は終わった。ただ、その後もしばらく歓談は続いているのだが亜美が戻ってくる気配はない。財部と話込んでいるのか……壱心はそう考えていたがそうではないようだ。亜美と同じく演奏をしていた宇美だけが普段着の着物に戻ってこの場にやって来て言った。


「壱心様~亜美さんが一人で来てくださいって」

「……あぁ、そうか」


 素直に頷く壱心。リリアンが同行しようとするが亜美の心情を慮った壱心に排除され、宇美によって引き留められることになる。そして壱心は桜たちに見送られながら一人で狭い通路を通って舞台裏へ進んだ。


(……普通にセロハンテープが使われてる)


 とある部屋の前にある壁で壱心はそれを発見した。それには酷く綺麗な文字で次のようなことが書いてあった。


『私はもう帰ってます。

  条件を満たせばこの紙は別の文字が浮かびます。では、その部屋の中にいる

 亜美ちゃんとお話してください。                 by財部』


 条件とは何か。壱心の脳裏に最初に浮かんだのは先の音楽で亜美がすぐに退場したことに対する慰めではないか。アルコールの入った頭でそう考えつつ彼は居ると思われる部屋に入る。


「亜美、入るぞ」


 入室を求める声に応じられ、部屋に入る壱心。中に居たのは亜美だけだった。


「壱心様……」

「何と言うか……」


 中に居た亜美は少し涙目だった。壱心はそれを羞恥から来るものだと思いながら慮り、近づくが彼女はそれよりも先に壱心に抱き着いて来た。


「壱心様……先程の歌、どうでしたか?」

「いや……よかったよ」

「本当ですか!」


 壱心はそこで初めて気付く。彼女は羞恥に染まっているのではなく、非常に興奮しているのだと。そしてそれは歓喜から来るものだ。


「頑張りました……よかったです」

「お、おい……泣く程か」


 抱き着いている彼女の目から涙がこぼれる。そこで不意に壱心は彼女との距離の近さに気付いた。同時に、先程の歌詞が蘇る。壱心は何にも抗う事はしなかった。自然に近づく顔と顔。そのまま距離はなくなる。


「ん……」


 素直に受け入れられるキス。壱心は先程までの色街のことを思い出してしまう。しかし、目の前の美少女ほどの可愛い女性はいなかった。そしてこの先を求めるような縋る目はアルコールで罅の入った壱心の理性を崩していく。


「……お願いします……」

「それは流石に……リリィ達も待たせてるし、財部様は……」

「弥子様はもうお帰りになっています。それに、皆さんだってまだ会食の時間はあります……どうか、このまま」


 壱心の手を引き、その柔肌に触れさせる亜美。楽屋にはここ最近は缶詰になっていた亜美が仮眠を取れるようにと設置されているベッドがあり、そこに彼女は壱心ごと倒れ込む。今度は、ベッドについて余計なことを考える暇はなかった。


「ん……」


 押し倒された亜美が少し身じろぎして壱心の手を動かす。それに対してごく自然に押し倒す形となってしまった壱心は彼女を見下ろしながら迷いを残した目を彼女に向けた。それは相手が何を望んでいるのか、そして自分が何をすべきかわかっているがそれが本当に正しい事なのか悩んでいる目だった。

 その目が縋るように、ねだるようにこちらを見上げている目とぶつかる。彼女はそれですべてを理解したようだ。だから、直接願う。


「お願いします。どうか、抱いてくださいまし」

「…………あぁ」


 まさかこんなことになるとは。いずれそうなりうる可能性はあったが……今日、ここでそうなるとは思っていなかった。そんな壱心の感情はすぐに脳の片隅に押しやられていく。



 その日、亜美と壱心は男女の関係を持った。







 亜美が「初めて」を済ませてしばらくして。


 あまり外にいる者たちを待たせることは出来ないと我に返った二人は事後の余韻に浸ることも出来ずに立ち上がる。部屋を出るとそこには入室前と同じように張り紙が一枚残されていた。違うのはその文面だけだ。それは入室前と同じ非常に綺麗な文字で記されているが、内容は先程と全く異なっていた。


『亜美さんおめでとう。

 大村益次郎 東京にて暗殺。犯人は警邏隊により射殺。身元は特定中。

    二人きりになったのは これについて話し合ってたことにするといいよ

                                 by財部』


 この文言を見た瞬間、二人は時を止める。


 差し出し手は誰であるか、語る必要もないだろう。入室前と同じようにセロハンテープで止められていることから壱心はこれを書き残した相手が財部であることを理解する。

 それと同時に、書かれている内容も同じく真実であることを直感的に理解した。財部にはここでこんな嘘を吐くメリットが何もないからだ。


(……これは、ふざけた内容だな。ついでみたいに書かれてるが……)


 恋に生きる天女の順序は狂っているらしい。人の死を悼むよりも恋の成就を祝うことが優先のようだ。人外と人の間で生まれる当然の価値観の違いを実感しながら壱心は考える。


(しかし、このタイミングで大村さんが暗殺されるとは思っていなかった。確かに西南戦争が終わった今、民力休養派にとってあくまで防備を進める方針の大村さんは目の上の瘤だっただろうが……あの人がいないと困るのは自明の理。まさかそれを暗殺で片付けるとは……)


 苦々しい気分になりながらも壱心はすぐに次の手をどうすべきか考えるための材料を手に入れにかかる。


「亜美、すぐにこれが事実であるか確認を」


 優秀な秘書にすぐに指示を飛ばす壱心。しかし、その優秀な秘書は少し歩き方がおかしくなっており、申し訳なさそうに告げる。


「……すいません、流石にちょっと私が今から動くのは厳しいので宇美と合流しましょう」

「……あ、あぁそうか。何かすまん」


 自分がやった……ヤったと言った方が正しいかもしれないが自分が行ったことで亜美は動けなくなっている。そのため壱心からは何とも言えない。ちょっと一時間の間に無茶をし過ぎた衒いがある。その辺りにはあの天女様の音楽による興奮効果の所為もあるがこの場にいる誰もそれを知らない。取り敢えず分かっているのは今は情報共有のために身内と合流すべきであることだ。

 急いで会場に戻る二人。既に会食は終わりに近づいており、既に退室した人間も多くいるようだった。


「壱心様? どこで何をされていたのでしょうか……」


 何故か警戒し、探る声音のリリアン。だが壱心はそれに取り合わずに短く尋ねた。


「大村さんが暗殺された。宇美、情報はこっちには入ってないか?」

「え……入ってないですけど……」

「……兵部卿が。壱心様、それはどこから」


 取り敢えず、亜美と何をしていたのかは有耶無耶になった。しかし、壱心としてもそれは後回しだ。もしかすれば国の一大事に発展しかねない事件が起きている。

 

 一行はすぐに情報確認のために動き始め……その日の内に大村の死が電信を通じて伝えられた。


 内容は不平士族による暗殺。反乱が起きる程困窮している武士や地租改正や士族反乱に対応するために政府が行った取り立てで苦しんでいる民たちを憂いた士族の一部が暴走したとのことだ。彼らにとって、仮想敵と戦うことが出来る算段が立つまで休んでいる暇はないとしていた大村は怨敵だったという。


 また、大村の死に伴い木戸の病状が悪化。大村の死が胃に堪えたのだろう。彼は完全に療養体制へと移り、田舎で静養することになる。




 そして、それらの報告が入った翌日。壱心の下に勅許が届く。内容は、中央への赴任だ。この時の勅許にそれほどまでの束縛効果がないのは明治天皇の頼みを無視して下野した西南戦争の西郷らに何のお咎めもなかったことから分かるが、新政府としてここにいる壱心はそれを無視できない。


(……元々、やると言っていたことだ)


 既に引き継ぎの内容はあらかた決めてある。後は実行に移すのみ。壱心は故郷を離れて東京の町へと行く準備を始めるのだった。



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