夜明け前に
「……まだ足りてなかったんだ」
温度が下がった室内に響いた声。それに対する悪坊主の答えはこれだった。
「あ? 何だそれ。邪魔する気満々で反省の欠片も見当たらねぇな」
剣呑な表情と共に警戒態勢に入る悪坊主。七奈はそれを見て形だけは申し訳なさそうに、そして爛々と目に闘志を燃やして相手を見据えながら頭だけ軽く下げた。
「えっと、ごめん……本当にごめんなさい。でも、無理なものは無理だし、それはダメ。どれだけ悪坊主が頑張ってたのかも知ってるけど……それだけはダメ。今、悪坊主がやろうとしてることはボクには我慢出来ない。そもそも頭が真っ白になるから我慢しようと思っても出来ない……」
「そっちの都合だろうが。知らねぇよ……今回の一件には目を瞑ってやるっていうんだから後はお前と同じ屋根の下にいるボーイフレンド二人」
開戦の合図はその一言だった。
先手は七奈。恐らく、空間を蹴り飛ばしたのだろう。一瞬で悪坊主をソファごと倒して馬乗りになる。そこまでの一連の動作が完了してようやく、桜は七奈が空間を蹴った反動で地面に穴が開いた音を聞き取ることが出来たという程の早業だ。
辛うじて壱心は七奈の足が影になったと視認こそしていたが、動けたのは悪坊主が七奈に押し倒された後。緊迫した人外の争い。その中で一切の思考を止めるような甘ったるい声が妖しく響く。
「……あぁ、もう……何で……ねぇ、今なんて言おうとした?」
壱心の方からは声の主である少女の後姿しか見えない。だが、その声音は極寒の冷気を纏っていた。それに応答する悪坊主の答えは残念ながら聞こえなかったが、少女は続けて彼に問う。
「……何でわからないの? 何でわかってくれないの? ねぇ、何でなの? 何でボクと別々になろうとするの? 何で、ボクに、ぁく坊主がいなくてもいいって、思う……の?」
虚ろな美声。これ程までに空恐ろしさを感じる言葉と口調だというのにその美声は聞く者に安らぎを与えるという現実乖離。自身の正気を疑う壱心。桜も同様の様だ。二人でいなければこの場から逃げていたかもしれない。そんな中でただ一人、特段心が動いていない悪坊主が平坦な口調で彼女に応じた。
「まぁ仕方ないから順番に答えよう。君の言い分を分かってない訳じゃない。ただ、俺なんかが居なくともお前は大丈夫だと何度も説明してるのを聞いてない、分かってないのはお前の方だ。あの会社は俺が居なくともお前の事を守り続ける。
それに優秀なボ……ディーガード。お前にはあの二人と他にも家族がいるだろ」
「分かってないよ……」
力なく
「分かっていないのはどっちだ? ……順番に答えると言ったからには続けるぞ。別々が嫌だから一緒に居ろ、と。……お前のその言葉は俺にとって酸素のない世界で一生利用されて暮らせ、お前の意志は知らんということだが……それを受け入れる奴がいるとでも?」
「違うよ! そうじゃない! そんなこと……何で分かんない、の……!?」
感情を噴出させる七奈。ここで動くか。壱心の心配が現実になろうとしたところで大事に至ると困ると、壱心は素早く行動を起こす。
だが、彼が立ち上がった瞬間に何かがこの場を通り抜ける。それにより動けなくなる壱心。ただ、そこからであれば七奈の艶やかな黒髪が垂れている隙間から彼女の美顔が悪坊主に触れそうな距離になっているのが窺えた。
しかし、壱心が動けないままに彼女の事を見ている内に彼女の身体は不意に力を失う。それを見越していたかのように悪坊主は何も言わず。軽く首を捻って彼女と顔がぶつかるのを避けた。
「……はぁ。怠いことになったな。まぁ仕方ない」
悪坊主はそう呟くと明らかに不自然な動きでソファごと起き上がる。そして彼は何事もなかったかのように壱心たちと対面した。
「見苦しいことこの上なくて悪いね……まぁ、詫びは出す。何だろうな……今回の介入で思いの外簡単に歴史が変わることが分かったから大したものはあげられないが……あぁ、精神安定剤でもあげようか。これ使えば狂気に片足突っ込みかけてた金髪の嬢ちゃんも、鬱な記憶をそこの木精霊の薬で無理矢理修正されてる侵入者のお嬢さんの精神状態も元に戻るよ」
急に平坦な口調に戻った悪坊主。展開のジェットコースターに巻き込まれた壱心は何とも言えない形で自らのソファに戻る。さらっと桜が何かしているということも暴露されたが壱心は聞き逃していた。
「あ、ありがとうございます……それでその、そちらは大丈夫ですか?」
怪しげな色をした錠剤が六錠入ったケースに「一回一錠、常人使用不可」と書き込み、説明書と共に机の上にそれを置いた悪坊主に壱心はそう問いかける。壱心の視線は動かなくなった七奈の後頭部に向けられているが、悪坊主はそれを辿る事もなく頷いた。
「あぁ、まぁ……さっき不本意に口吸いさせられた時に毒を仕込んでおいただけ。こいつの記憶は多少飛んでるだろうが、身体的な影響はない」
「……それ、大丈夫なんですか?」
「んー、まぁ正直に言うと、ちょっと困ってる。気絶させるのは想定通りだったんだが……こんな密着状態でこうなる気はなかったんだよな……こうなるとこいつはくっ付いて取れなくなるし。どうしたもんか……こいつを置き去りにして異世界に行くつもりだったのに……」
「え?」
壱心にとって全くの想定外から返事が返って来た。二人の仲、そして唐突に静かになった七奈の体調を案じての言葉だったのが彼にとっては現状の問題として認識されていたのだ。それは暗に、壱心の心配していることは問題ないという認識の下での答えだろうか……壱心がそんなことを考えていると悪坊主は立ち上がった。
「はぁ……こいつを置いて行けないとなると、ここに居る意味もない。じゃ、長々と迷惑かけた。患者に無理はさせないようにと言っておきながら、こんな時間まで悪かったな……」
「え、ちょっと……」
「何だ? ……あぁ」
一方的に会話を打ち切った彼を止めようと壱心も腰を浮かすが、彼は苦笑ながらそれを制した。悪坊主が手を翳すことで壱心の身体から何かが抜け落ち、彼は再びソファにその身体を沈めることになってしまう。悪坊主はそのまま告げる。
「まぁ、用があるのは分かってるが……こっちも元の時間に戻るという目的があるんでね。そもそも手を貸すつもりはないんだ。諦めろ」
なら、どうして自分を助けたのか。そう問おうとする壱心だが、口が上手く回らない。だが悪坊主には声に出すか出さないかは関係ないようだ。
「何で今回は助けたかって? ……別に助けてないんだよ。介入の実験だ。今回の実験で行きたい未来への時間軸修正を入れるついでにその影響度を確認するつもりだっただけの話。
まぁ結果としては思いの外簡単に行きすぎてしまうから今後は介入しない方向で基本的には進めていくことにした。余計な労力をかけたくないしな。別に君たちの行動をとやかく言うつもりはないから何かしたいなら勝手に頑張れ」
「待、何を……」
唐突に自らの体の自由を失った壱心はそう言って力なく手を伸ばす。かつてない徒労感。このまま死ぬのではないだろうかと言う疑念と共に壱心はせめて自分に何をしているのかは教えて欲しいものだと考える。すると、悪坊主は常の様に平坦な口調で淡々と言った。
「あぁ、別に悪いことはしてない。治療を促進させるために身体の氣の巡りを早くさせてるから寧ろいいことだ。今回、夜更かしさせてしまった詫びとでも思っておいてくれ。これで一週間も寝こけずに済むぞ。尤も、今はいい感じに疲れて起きていられなくなるだろうが……」
悪坊主の言葉の通り、壱心を抗い難い睡魔が襲う。身の安全については問題ないのか。そうであれば眠る前に何でもいいから情報を……そう思って壱心は桜に視線を飛ばすが彼女は首を横に振った。
「諦めましょう……ここは無理をする場面ではないと思います」
「まぁ賢明だな。じゃ、目覚めた時には色々と大変だろうが……取り敢えず、今はお休みの時間だ。契約は守ってくれよ?」
悪坊主がそう言った時、壱心の身体から力が抜ける。彼はそこから一週間近く目を覚ますことはなかった。
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