茶屋 薫香
福岡の町で壱心が皆に贈り物を買ってからしばらく経過した京都のとある茶屋。蛤御門の変が起きて焼かれた京の町の一角を壱心が買い取り、再興した場所にてとある美女が上機嫌で届いたものを見ていた。
「高そうですね。いいものです」
「……咲ってそればっかりだよねぇ。ま、いいけど」
この店のオーナーの私室でシルクの手袋やハンカチ、香水などを何度も見ながら頷いている美女。彼女と一緒にいるのは陰気そうな顔をし、くしゃくしゃになった髪の毛を整えようともしていない妙齢の女性だった。
「あぁ、因みにハンカチを贈るとどっかの国じゃ決闘の合図だっけ? で、清だと絶交。日本は
「恵美さんも相変わらずですね。イニシャルは入ってますよ」
「あぁよかったね。じゃあ普通に贈り物だ……あ、咲からすれば転売できないから外れかな?」
けたけた笑いながらそう告げる女性。彼女が壱心から与えられた名は恵美。本来は東京府にいて全国の情報を集めて壱心に送る香月組の情報戦の首魁だ。この日は少しばかり東京で警邏が頑張っているので避難を兼ねてこの店に来ていた。
「流石に売っていい物とダメな物くらいの分別は付きますよ。これからも頑張れと一筆添えてありますし……」
「案外、咲って純情だよね。見た目派手なのに」
「よく言いますよ。貴女も贈り物を見にわざわざ京都まで来ておきながら」
「いやいや、東京で内務卿が警邏を大規模に動かしてるからって説明したでしょ」
咲は形のいい鼻で笑い飛ばした。
「情報収集は貴女の専売特許じゃないんですよ?」
「んー。でも実際、咲とはちょっと違うかな~……あたしの場合、差をつけられてたら文句言おうと思って他の人のと直接見比べたいって思っただけだし」
「はいはい」
「生意気な……」
恵美の言葉を受け流し、咲は彼女宛に壱心から届けられた小包を押し出す。恵美は不満げだがここで口論をしたところでその問題にこだわっていると自白するようなものであるため、何も言わずに受け取って中を見た。
「で、どうでした?」
「……? 猫? 何これ?」
中から出て来たのは絹織物の中に綿が詰め込まれた猫のぬいぐるみだった。中々に大きいもので、
「おや、随分と可愛らしいですね」
「絹に綿が詰め込まれてるみたい……手触りいい。うん」
「……存外恵美さんは可愛らしい趣味をしているようですね。言動はアレですが」「……さっきの意趣返し? 別にいいけど。ふーん……まぁ、いいか……」
どうやら恵美は猫のぬいぐるみが非常にお気に召したらしい。咲の皮肉も適当に流すほどだ。彼女は猫が好きだがその業務内容から飼うことが出来なかったという世間話程度にしかしたことのない話を覚えていた上で気にかけてくれたというのが嬉しいのだろう。
「ま、依怙贔屓はなしってことね。よかったわね、あんたもその香水、みんなの前で隠さずに使えそうよ。因みにどんな匂いなのそれ?」
「……バレていましたか。まぁ、よくわかりませんがいい香りですよ」
「どこでこういうのを仕入れてくるのかしらねぇ、ウチの殿様は」
壱心から送られてきたオードトワレの香りを嗅ぎながら疑問を抱く二人。因みにこの香水は北海道開拓で絶賛栽培中の西洋リンゴ(現在見る大玉のリンゴ)を主体とした香りであり、その実から精油を水蒸気蒸留法で抽出したものだ。
現代でも採算が合わないという理由で滅多に行われることはない。ただ、この時の壱心は研究員たちに実験機材や実験自体に慣れて欲しいということで実験を大量に行わせていること、そして北海道開拓で土方が非常に頑張ってくれた文字通りの成果を無駄にしないために何となく指示を出していた。採算は見ていない。
そんな裏事情はさておき、咲も香水も気に入ってくれていたようだった。恵美にバレているのであればもういいとばかりに香水の入ったガラス瓶を取り出して絹で出来たハンカチに振り撒こうとしている。
「これを手布に……」
「これ以上色気を振り撒いてどうする気? 外にいるお客さんでも相手するの?」
「……何ですかね?」
「んー……お、見たことあるなぁ誰だっけ?」
不意に、物々しい気配が近付いて来たのを感じ取って二階から外を覗き見る恵美と咲。その視線の先にいたのは彼女たちがどこかで見た顔。
「……月形さん?」
「あぁ、思い出しました。そうですね……ウチに何か用でしょうか?」
そこにいたのは月形洗蔵。元黒田藩の討幕派首脳部であり、幕末に過激派として反幕府運動をして失脚し、大宰府に流れていた三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修ら五卿との親交も厚く、現在も新政府で朝廷内に多大な影響を与える人だ。
そんな彼が見慣れぬ者たちを大勢引き連れて茶屋、薫香を訪れていた。
「……どうするの? 戦いに来た、というつもりではなさそうだけど」
「そこは恵美さんのお得意の情報戦で何かわかりませんか? 戦いに来た、ということはまずないでしょうが」
アポイントもなしの急な来訪。彼ら一行がこちらに到着する前に何らかの対策を打っておきたいが手持ちの情報が少ない。そこで何か知っていることはないかと咲は恵美に尋ねたが、彼女は頭を乱雑に掻きながら苦い顔で答えた。
「情報ねぇ……そんなこと急に言われてもって気分だけど……確か月形さんの最近のお仕事は三条様たち開国派と島津久光様たち反欧化の間で調整、それから三条様の補佐だったかしら?」
そこまで言われたところで咲は脳裏に過るものがあった。
「……あぁ、三条様。何となく見えてきました」
「何?」
すぐに反応する恵美。そんな彼女に咲は軽く言葉を選んでから告げた。
「……三条様のところ、確か事業が上手く行っていないと聞いています。恐らくは壱心様への取り次ぎ願いでしょう」
史実ではこの時期に三条家の家令達が事業に失敗し、実美は莫大な負債を抱えている。負債を完済するのに約20年かかったというのだから余程だろう。
確かに、この線はありそうだ。しかしながら恵美はそれに待ったをかけた。
「お金の無心、ねぇ……それにしては大勢引き連れているみたいだけど? 名家の恥は隠したいものじゃない?」
「暗殺を恐れている、もしくは……嫌な予感がするので口に出したくないですね。現実になると嫌なので」
「がんばれー。私、ここに居ないはずの人だから何もしないから。ま、退路くらいは確保してあげるけど」
「大丈夫とは思いますがね……」
適当な感じで対応を促された咲はほぼあり得ない、普通に茶屋として薫香を訪問しに来たりしていないかなどと夢想しながら彼らが入店するのを待つ。
そして、彼らが入店する時はすぐにやって来た。しかし……彼らは何やら大規模な注文をして店内で飲食を始めたようだ。
「……あれ、まさかですかね?」
「えぇ……? 結構、アレな感じの空気だったけど……まぁ何事もないならいいんじゃないかしら」
「まぁ、ですね。正直、今日はいい気分なのでこのまま終わりたいところですが、どうでしょう……」
下の様子を窺うのを止めて万が一の逃走の時のために荷造りしていたものを解き始める咲。士族以上の身分が大規模に集まったので空気を読んで退店した客たちのことも気にしていないようなので、ここで暗殺の類はないだろうとの判断だ。
しかし、その荷解きの手もすぐに止まることになる。一階から駆け上がって来る足音に気付いたのだ。それを受けて咲は溜息をつき、恵美はにやにやと笑う。
「香西様、正四位月形朝臣様より面会の要請です。ご対応、お願いいたします」
「……用件は何かしら」
「さぁ?」
「頑張ってね~」
受けて当然。拒否権などあるわけがないと言った口調で一方的にそう告げた下女と他人事だと気楽に構える恵美。咲は一瞬だけ顔を曇らせた後、下女に月形を別室に案内するように告げて準備をするのだった。
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