現場見学
西新総合産業研究所より南西の方向。唐津街道を西進し、室見川の方面へと馬車で南下した一行は赤煉瓦の真新しい建築物が見える場所で馬車を降りた。そこにいるのは養蚕業を営む人々。早良製糸場と契約して繭を卸し入れる業者だ。
因みにだが、この場所の養蚕農家はモデル地区として保護されている半分研究員の様な存在だ。そのため、元から農家だったのではなく食い詰めた下級士族が運営している場所になる。実際に早良製糸場に繭を入れている農家たちが居るのはもう少し山の方だ。
ただ、今回はそこまで説明する必要はない。今回の主要目的は技術紹介だ。実見と座学を交えての紹介さえ出来ればいい。
「えー、この辺りの川の土手や田畑の
「うーむ……違いが分からん」
「枝条、芽、葉、花に至るまで色々違いますが……まぁ、基本的には夏は両方よく食べるので、春と秋以降に使い分けできればどちらでもいいです。因みにこちらは目下、品種改良を行っておりまして採取し易いように改良中です」
「……そこまでする必要があるのか。うぅむ……」
そう説明を受けつつ強力な管理体制が敷かれた周囲の光景を見て史実よりも少し早く熊本県令となっている安岡良亮が声を漏らした。彼は板垣や西郷と親交のあり薩土密約の際にも同席していた人物だ。今回彼は板垣、そして西郷の紹介によって壱心に会いに来ていた。
ただ、彼は壱心への目通りだけをしに来た訳ではない。群馬県参事としても活躍したことのある彼は以前より製糸業に目をつけていたのだ。しかし、富岡製糸場では利益が出ていないと聞きそれでは熊本で困窮している神風連の士族を助けることは出来ないと判断し、こちらに出向いていた。
そんな安岡の元に利三が近寄り、小さく声をかける。
「興味があるのでしたら桑と蚕を少々お譲りし、技術者を派遣致しますが」
「……ふむ、単刀直入に訊くが如何程になる?」
「兎の種銭に比べれば何てことはないですよ。それに、兎と違ってこちらは外れというものがない。最悪、こちらで繭を買い取りますからね」
空前の兎バブルを引き合いに冗談交じりでそう告げる利三。だがしかし、その目は本気だ。各地を暗躍する香月組の諜報網から熊本のどの地域で育てられるかの目星は付いている。どこであれば福岡への輸送も楽に出来るかを兼ねて、だ。
「うぅむ……しかし」
「決断するのであれば今の時期がいいですよ。今でしたら新芽挿しが間に合い、桑の育成がすぐ出来ます。この機を逃すと来年の早春まで待たなければなりません」
「東京府では桑を植えても失敗したとの話もあるが……利三君。熊本でこれ程までに桑は育つのだろうか?」
「適した場所は間違いなくあります……が、今はここまでにしておきましょう。他の方々がお待ちになっておりますので」
技術者の質問に対する返答も含めて織戸の説明が終わりそうだと見て取った利三はそこで話を切った。安岡は残念そうにするが利三は平然としている。
(ちぇ、産山村取りたかったな。両方にとって悪い話じゃないと思うんだけど)
内心ではまた違う考えを抱いていたが。因みに、この件に関しては見学が終わる頃には協力して欲しいと安岡から要請があり、契約を取り付けることに成功するのだが、同年に起きる壱心暗殺未遂事件と神風連の乱による安岡の暗殺によって実現されることはしばらくない。
それは兎も角として、一行は割と大きめの建築物の中に入っていく。中では蚕独特の臭いが充満しており、虫が苦手な人であれば即座に逃げ出す光景が広がっていた。
「ようこそおいでくださいました。私は川戸と申します。どうぞごゆるりとご覧になってくださいませ」
こちらに気付いたこの建物の責任者が名乗り、一行はまばらに返礼する。それが済むと実工程を各器械がある場所を順番に巡りつつ見学していく……とは言うものの、基本的には先に見たパネル通りだ。
この養蚕場から早良製糸場にまで繭を輸送するに当たって蒸熱(蚕の呼吸と代謝による熱と蒸れ)を避けるために必要な竹製の繭籠と気抜籠の前まで一通りの見学を終えて彼らは更に移動する。
既に見えていた西洋造りの赤煉瓦の建物まで時間は殆どかからなかった。ここで何やら記念撮影を行おうとする動きが出ていたが壱心のみ丁重に断って彼らは中に進んでいく。基本的には、数年前に壱心たちが試運転を身に来た時と同じルートになる。前回と異なるのは今回はどの生産工程にも問題がなく、順調に稼働していることだろうか。
(……毎回、暑い時期によく来るもんだな……)
独特なにおいの立ち込める煮繭場にて壱心は内心で独りごちる。今回も煮繭所は見たものの
その後も東側に建つ東繭倉庫を紹介し、西側倉庫も内部は同様であることを紹介して簡略化。繰糸所に入ってからは外国人技術者たちがいなくなってから改造中の
場所を除いて基本的な場所を巡っていく。改造中の場所にはベルトコンベヤによる選定の効率化など重要な場所があったのだが、その辺りは旧式の手法のみを見せて一行は止まることなく進んで行く。
そして今、一行がいるのは食堂だった。食堂内には主食として米の他に、壱心の農業政策によって推奨されている麦や北海道開拓により格安で入手されている小麦、蕎麦を用いたうどんとソバ。
また、おかずには煮繭時に不要になる蚕の蛹の死骸を利用して行われている養鶏所から持って来られている鶏肉や卵。そしてその鶏糞を発酵させて得られた肥料を用いた農場の野菜などが使われている。
加えて、当然のように蚕の蛹をそのまま佃煮や素揚げにして売ってあるがそちらには同行者の誰も食いつかないようだった。
「ここの食事は外国人技師にも人気でしてね。お代は結構ですのでこちら、お試しになりますか?」
「う、うむ……」
下手な官庁で提供される食事よりも美味しそうな匂いを漂わせている食堂で一行は食事を摂る。今回のおかずはすき焼きに入っている牛肉を鶏肉に変え、肉は申し訳程度に入れてあるが汁でご飯を進められる鳥すきと、僅かに山菜が入った味噌汁だ。また、うどんやそばもあるがトッピングはなく、仮に付けるのであればという形で鳥すきがこちらにも流用されている。その他には単体で卵とじがあり、それとかけうどんやご飯で丼ものを作っていた。
このどれもが北海道産の大豆で作られた醤油で濃い目に味付けされており、具材が少なくとも主食は進み、熱気が篭る製糸場で熱中症などに対応できるように対策されている。
それはさておき、お客様たちにはまた別の食事が準備されている。外国人技師に支払っていた大金を少しでも回収するために編み出されたメニュー……よく言えばおもてなしの料理となる。ここで壱心が選んだのはそこまで高くない親子丼だった。彼はそんな気分だったのだ。
しかし、周囲はそれを見てちょっと考える。一食で一五銭する天ぷらご膳などを食べてみたかったが、この場で最も偉い壱心が五銭程度の親子丼を食べるとなっては頼み辛いのだ。利三がその空気に一早く気付いて
(ちょっと、二人とも……!)
「……ん。では、我々も香月殿に倣って……」
「そうですな」
「で、では、私たちは実際に女工が食べている物を体験してみますか……」
好きに選んでいいと言われたが、勝手に空気を読んだ面々は名残惜しそうに他の品書きをチラ見しつつも女工たちが使っている木の札を選んでいく。利三が逆に浮いてしまう有様だった。
(なら……!)
ここで利三は機転を利かせる。天ぷらの盛り合わせを頼み、少し時間を置いてざるそばを持ってくるように指示したのだ。
「おぉ、弟君は健啖家ですな」
「あっはっは。そうでしたら今頃は兄上の様に大きくなっていますよ。これは折角ですのでご賞味いただきたいと思いまして……兄上」
「あぁ。いいぞ」
「これはこれは……お気を遣わせてしまいましたな。では、折角ですので」
せっかくの申し出だとお偉方は喜んで利三の言葉を受ける。ついでに利三は技術者たちにも揚げ物を提供した。
程なくして、食事は揃えられる。壱心がいる状態。食堂の全員が全霊を以てことに当たった結果だ。湯気に乗って出汁と醤油の良い香りが漂う中、彼らは食事を始める。
「ん……これは美味い。ほうほう、美味いですな」
「いや、名前だけでは何のことかわかりませんでしたが……鶏と卵ですか。これはいい。ですが、結構量を頼まれているように見えますが、どこから……」
「アメリカから食用の鶏を輸入して増やしています。蚕蛹の死骸が有効に使える上に鶏糞がまた畑の肥料になるので」
「……なんとまぁ」
事も無く返された一言に何も言えなくなるお偉方。技術者も慌てて聞き取ろうとして失敗し、咳込んでいる。
「……お話を聞けば聞くほど、色々とわかって来るのですが。凄いですな」
舌で鼓を打ったかと思うと今度は巻き始めた一行。彼らはこの後もこの製糸場の見学を続けることになる。だが、それが終わる頃には誰もが壱心のことをコネのみの人物ではないとはっきりと理解し……それが故に壱心とのコネを強く持ちたいと思うようになっているのだった。
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