時代の終焉へ
どんな手段でも、また、たとえ非道徳的行為であっても、結果として国家の利益を増進させるなら許される……
後に日本で和訳されたマキャベリズム。ルネサンス期のイタリアの政治思想家であるニッコロ・マキャヴェッリが『君主論』で語ったとされる権謀術数主義の大まかな内容である。
だが、こう述べた彼は決して非道徳的行為を推奨していた訳ではない。寧ろ彼は慈悲深き君主を目指し、決して残酷であると受け取られないようにするべきだと口酸っぱく進言している。
その大前提の上で彼はこう言ったのだ。
『君主は、自分の臣民を結束させ忠誠を尽くさせるためには、残酷だという汚名を気にかけてはならない』
と。
理由は慈悲深さ故に全てを助けんとし、熟慮を続けて殺戮と略奪を生み出すような混乱状態を放置するよりも極僅かな酷刑を下すだけで全体の収集をつけた方が民への被害が格段に抑えられるからだった。
この理屈から全てを救おうとする慈悲深さよりも問題解決のためにごくわずかの残酷な処罰を下す方がある意味で慈悲深き君主であるとしている。ただ、その残酷な処置が
その結果が、先に挙げた『残酷だという汚名を気にかけてはならない』の一文という言葉。必要であること実行するために余計なことを考えずに決断を下せということになる。。
そしてその言葉を実行すべき全ての慈悲深き君主の中で、残酷だという評判から逃れることは不可能であると称された存在がいる。
……それが新たな国家の君主。
新たな国家は危険に満ちた場所に立っている。つまり、一歩違えば殺戮と略奪が渦巻く混沌状態へと転落する可能性が高い出来事に囲まれ、取らざるを得ない残酷な処置が多いということだ。
時は1877年。国家君主の在り方について彼が語った時より幾年月が過ぎ、場所としてもイタリアの地から遠く離れた東洋の島国。時代も場所も異なれど、彼の地においても新たな国家が試されようとしていた。
その国家の名は大日本帝国。直面している危機は旧特権階級である士族の反乱。
危機の中心にはそのすべてを救おうとした男がいた。理想を求め、過去に一度はそれを成功させた男。彼の名は西郷隆盛。維新の元勲である。
彼の故郷で彼の名を知らぬ者はいない。民衆への情報伝達の主流が口伝の当時でさえ、国民の多くが彼の名を知っていたことだろう。当時の政府首脳部……そして国家元首である天皇からも厚く思われた男。
そんな男に対し、政府側にいるある男が仕掛けた。それは恨みでもなく、妬みでもなく、権力闘争でもない。
ただ、必要だった。その理由だけで、その男……香月壱心と呼ばれる史実にない維新の元勲と称される男は非常に残酷な一手を打ったのだ。
舞台は、1877年。萩の乱が終わり、その後処理が済まされた頃の福岡の地。彼の地の長がいる場所になる。
「……壱心様。御尊父様より―――」
「俺に父は居ない。十年以上前より、それは決まったことだ」
「ですが、このままでは……」
「くどい」
その時は迫っていた。不平士族の乱に何の温情もかけずに法の下に照らし合わせた処置を行った壱心の下へ届く手紙の数々。直接来るものだけではなく彼の家族を介して届くものも増えていた。
怒りの文面。宥め、
「壱兄さん、どうすんのさ……」
「兄上、止められるのは始まる前までだ。俺は無駄な争いなんてしたくない。兄上しかいないんだ。ここで止められるのは」
壱心の下には不安気な二人の彼の実弟の姿がある。次男で大日本帝国海軍少将、香月家の継嗣である次郎長。そして巨万の富を得て新たな豪商として西日本を中心に名を轟かしている三男の利三だ。彼らはきな臭くなっている九州の情勢を知った上で壱心に何らかのアクションを求めてやって来ていた。
「……利三、聡いお前なら分かってるだろ? どうすることも出来ない。無理矢理止めたところでそれは一時的に過ぎず、後回しにすれば更に悪化していく」
利三から肯定を表す沈黙が帰って来る。続けて、壱心は次郎長に告げた。
「次郎長、無駄な争いをしたくないのは誰にとっても同じだ。だが……」
そこで壱心はこの家に迫って来る気配を感じ取って言葉を切る。不自然な状況で黙った兄を訝しげに見る次郎長だが、壱心は苦々しい顔で続けた。
「……この話はここまでになるみたいだ。次郎長、利三……文が来た」
「文が?」
唐突な妹の登場。それにより更に訝し気な顔になる次郎長だが、苦り切った表情の長兄を見て利三は何かを悟ったようだ。
「……そっか。もう、始まるんだ」
「そういうことになるな……こうなったからにはもうどうしようもない」
二人の会話を聞いて次郎長も遅れて理解する。次いで、彼は激高した。
「どういうことだ……! これがそうであるなら、あんたは分かってた上でこれを放置してたってことか……!」
次郎長の発言は指示語ばかりだった。通常であれば何のことであるか分からないだろう。だが、兄弟の間ではそれで十分に意味は通じた。
次郎長は妹の文がこの場に駆けて来たことを瞬時に把握し、そして兄がその意図を正確に理解した素振りを見せたことで兄が家族の動きを把握した上で泳がせていたと判断したのだ。
(そうだ……とは、流石に言えないよな……)
そして次郎長のその想像は的中していた。しかしその秘密は壱心が墓まで持って行く予定の出来事。彼はずっと前から作り続けて来た鋼板を表情の面に張り付けて答えた。
「最悪の想定にあった話だ……まさか、本当にするとは思ってなかった。ただそれだけの話」
「ざけんな!」
「だったら」
怒りの形相で兄に一歩近づく次郎長。それを壱心は冷たく突き放す。
「お前には予測できていたのか? お前は分かっていたというのか? だと言うのであれば何故お前が止めなかった」
酷い論点のすり替えだ。壱心は自覚しながらそう言った。だが、その剣幕は次郎長から二の句を奪う。それによって生まれた空白の間は次郎長の先の発言が壱心に自身が出来なかったことを他者に押し付けただけだと理解させてしまう。そして、そこで手を緩める程、壱心は甘くない。
「次郎長。お前は俺があの家の敷居を跨ぐことが許されていないと知っているはずだ。あの日から一度たりとも俺は許されていないことを……それを分かった上で、お前は同じことを言えるか?」
その一言に次郎長はハッとする。同時に、彼は弟の姿を見て……彼もまた、武士にとって小人の技……算術と呼ばれるそれを追求し、壱心と共に新たな時代に適応する道を歩んだことで家から離れた身であることを思い出す。そして彼は冷水を掛けられたかのように項垂れた。
「……すまない。頭に血が上ってた……重ねて詫びる。あの人を、父上と藤五郎を止められなかったのは俺だ……」
この場で唯一、普通に実家に戻れる身であったことを思い出す次郎長。そんな彼に二人は何も言わなかった。それが却って彼の自責心を苛む。
「ま、まぁ……もしかしたら壱兄さんの勘違いかもしれないから……取り敢えず文に会ってみようよ」
ようやく入った利三からのフォロー。だが、それは文がこの部屋に入室し、話し始めるまでの微かな時間までしか意味を保てなかった。
薩摩立つ。それに呼応し、肥前、肥後、中津、福岡の各地で狼煙が上がる。その規模、約三万。
(まさか……この一番苦しむ時に感情が戻るなんて、本当についてないな……)
「兄上……どうか、父上と藤五郎を……」
大人になった妹から頼まれたのはかつて、この時代の香月壱心として意識を浮上させ、家族に対する思いを蘇らせたあの夜と同じ願い。家族を大切にしてほしい。そんな些細な願い事だ。
それに対する壱心の答えは月が照らしていたあの夜と変わらない。それを包んで彼は言う。
「……出来る限り手は尽くす。疲れただろう……もう休むといい」
「お願い致します。どうか……」
(……国の為だ)
マキャヴェリはかつて、こう言った。
『君主は、自分の臣民を結束させ忠誠を尽くさせるためには、残酷だという汚名を気にかけてはならない』
と。同時に、彼は残酷な行いをする場合に残酷であると受け取られてはならぬとも告げている。相反する両者を両立させるために必要なこと。それは明白で正当な理由だ。
その、誰にでもわかる正当な理由。その中に、疑念の余地を残してはならない。それを許してしまえば誰にでもわかるという部分に引っ掛かりを作り、影が生じてそこを根城に憎悪の遺恨が蔓延るからだ。残酷な処置を取る際には誰にでも分かる公平性を対外的に見せなければならない。
それを愚直に求めた結果どうなるのか……彼は理解している。それでも彼は止まらない。いや、もう止まれない。
(この戦が史実通りにこの国での最後の内戦となるように……俺は必要なことを、やるだけだ……)
文の強制退出を何も言わずに見送り、彼女の軟禁を命じた後に彼は立ち上がる。既に動いていた薩摩の動向を察知した中央から辞令は下っている。
「次郎長、桜……征くぞ」
「……あぁ」
「畏まりました」
鹿児島県逆徒征討総督有栖川宮熾仁親王麾下、七万。その総督府の参軍長、香月壱心が動く。
日本国内で最後の内戦とされる近代で最大の士族反乱、西南戦争が今始まろうとしていた。
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