甲夜

 悪坊主と壱心の会話は夜更けまで続くことになる。今回の悪坊主との邂逅は壱心にとって大きな変化が起きる序章となる。

 会議ではなくあくまで会話として流れる夜半の話。それは特に道筋もなく自由に流れていくのだが……その中で悪坊主が最初に切り出したのは壱心の体調に関するものだった。




 時刻は悪坊主の苦笑に合わせて壱心が獰猛な笑みを浮かべたところに戻る。壱心の意気込み様を見て悪坊主が苦笑してコメントした後、彼は更に口を開いていた。


「いや、随分とやる気があるね……だが、悪いがこっちはそうでもないんだ。用件が済み次第帰るから手短に行こうか。そっちもその方がいいだろう?」


 悪坊主は半笑いでそう告げる。だが、壱心は首を横に振った。


「あぁ、お気になさらず。それに申し訳ないですが、ここ最近はずっと眠り込んでいましてね……子守唄にも飽きてまして色んなお話が聞きたいところなんですよ。ついでにおかげ様で元気も余っていますしねぇ……」


 半笑いで発言した悪坊主の言葉を撤退意志と見た壱心の逃がさないという意思を込めた軽口だ。だが、それを受けた悪坊主の反応は壱心が思っていたものと違っていた。彼は薄く眉を顰めると呟いた。


「んー……やっぱり気付いてないのかこれ。こいつが鈍感なのか、七奈の魅力が頭おかしいのか……まぁ後になって色々言われるのは面倒だし最初はその辺のことについて話させてもらうとするかな」

「……その辺のこと?」


 壱心の呟きも無視して自分の中の考えを勝手にまとめる悪坊主。彼にとって想定内だが予想外に出くわしたらしい。壱心は疑問を抱くが彼は別に何でもないことのように告げる。


「早めに切り上げた方がいい理由。それから元気が余ってるとかいう辺りの話だ」

「どういうことで?」


 悪坊主の端的な説明では疑念しか抱けない。ただ、悪坊主はそんな壱心の疑問を気にせずに七奈が妙な動きをしようとしているのを片手で止めてから壱心の状態について語り始める。


「じゃあ言わせてもらうか……主治医の前で元気が余ってると言ってくれた気遣いのところ悪いけど君はまだ瀕死のままだ。理由は俺がそこまでしか回復させてないから」

「どうしてですか?」

「治療を止めた理由? まぁ幾つかあるが大きく分けて二点だな。その理由は……色々と言いたいことはあるが、大体元凶はここで楽しそうにしている七奈だな」

「……話が見えないんですが」


 片手で動きを封じた七奈をその手で弄びながら悪坊主は軽く言う。彼女は悪坊主の為すがままで楽しそうな声を小さく上げるだけだ。彼女が一体何をしに来たのか本当に分からないところだが、今は悪坊主の話だと壱心は切り替える。


 悪坊主は七奈のことを気にせずに口を開いた。


「まぁ、面倒だが一応説明するよ。簡単でいいか。要するに常人以上に氣を持ってるだろ君。そういう奴がこいつ見ると性欲が暴走して頭が弾けて話にならなくなるからだよ。これはそういうものだから仕方ない。生物なら植物にも通じるんだからそういうものだと思ってくれ」

「は?」


 思わず疑問の声を上げてしまう壱心。だが、悪坊主は特段咎めもせずに頷いた。


「……まぁ、そう言っても分からないだろうなぁ。やっぱりこの辺りの説明は面倒だ……君らに分かり易く言うなら……あぁ、そこに観葉植物があるな。で、こいつがもし花が見たいとか言ったら季節も成長度合いも関係なく花が咲く。しかも花粉を撒き散らして枯れる。植物でそれだ。明確な性欲があり、直接それを向けられる人間になるともっと大変なことになる。そんな感じでいいか?」

「どういう原理で……」


 壱心は悪坊主に顔を埋めて美貌を周囲から隠してしまっている少女の方を見る。彼女の表情は分からないが、少なくとも悪坊主は気だるそうな顔をしていた。


「その辺は本題からズレるしどうでもいい。君を瀕死状態のままにしている説明の方が優先だ。君の場合は本来なら精神体が主で肉欲が薄く、記憶すら朧気な状態で到底他者に対して性欲を抱ける状態じゃないはずなんだが……まぁ七奈を見ただけで自信満々に元気が余ってると宣い始める位には暴走してる。

 こんな状態でこれだから、肉体的にも完全な状態で七奈を見るとなると性欲で話が出来なくなるくらいに暴走すると予想して止めておいたってことなんだが……」


 不意に言葉を切る悪坊主。壱心が訝し気な目を向けると彼と目が合った。怖気が走るような真っ黒な瞳を直視した壱心はすぐに視線を外す。それも気にせず悪坊主は言った。


「何となく理解したがまだ微妙ってところか……ただまぁこの辺りで時間取られてもな……まぁいっか。説明はしたし……そっちの木の精霊が分かってれば後で何とかしてくれるだろ」


 説明すると言っておきながら最終的には丸投げした悪坊主は少し考える素振りを見せる。彼の発言を素直に受け取るのであれば壱心は現在、暴走中であるらしい。

 だが、それで悪坊主が壱心を咎めるという様子はない。彼は単に自覚症状で不要な不安を覚えている患者を安心させるために医者が至極当たり前の生体反応だから気にしないようにと言っているような口ぶりだ。もし分からなかったとすれば壱心の入室前と入室後の変化について隣にいた奴に後で聞けばいいと告げ、彼は続けて二つ目の理由を話し始める。


「で、二つ目の理由は治療法の問題だ。こっちは人知の及ぶ範囲で説明のつくことだし、君が置かれていた状態を君の知識の範囲内で端的に説明するよ……」

「一つ目の理由については終わりですか……」

「詳しく説明するとこいつが調子に乗るから割愛。それに落ち着いたら勝手に意味が分かるしね。で、話を普通の怪我の内容と治療法に戻すんだが君は切傷から細菌が感染して死にかけていた。で、抗生物質ペニシリンで対抗しようとするが……それが粗悪品低純度だったせいでアレルギー物質が混じっていた。その結果がアレルギー反応、ペニシリンショックだ。そこに止めとして来たのが抗生物質が使えないということで仕方なく使用された石炭酸。殺菌にはいいんだが、そいつが傷口から入って石炭酸中毒になってた」


 結局、自分の状態が分からないままで不満げな壱心に渡されたのは用語ばかりの説明だった。だが、今度は壱心に理解できる内容だ。瀕死になるのもさもありなんという話に壱心は瞑目した。


「……それは」

「ま、普通に死んでたな。どれだけ運がよくとも壊死えししてた部分が多すぎる」

「壊死……ッ!」

「あぁ、思い出した?」


 この時点で壱心は全てを思い出した。そして直前に自身が吐いた軽口とその時点の自分を消したくなっていた。


(何が元気が余っているだ……少し前まで死にかけだった奴が良く言ったな……)


 死の淵に瀕していたことを思い出した壱心。それと同時に急激な疲労感が壱心を襲う。自らの身体のダメージを知覚したというよりも精神的な問題が大きい。


(今は思い出したくなかったな……否が応でも命の恩人だと認識してしまい、交渉を弱気に進めてしまう……だが思い出した以上は、もうどうしようもないな……)


 恐らく、自身は悪坊主が居なければ死んでいた。その事実を忘れて彼は悪坊主に大口をたたいてしまった。そのことが彼のメンタルを大きく削っていた。その羞恥に気付かれたかと考えて壱心は悪坊主の方を見るも彼は特に表情を変えていない。ただ、話を続けるだけだ。


「二つ目の理由を説明する前に何か勝手にもういらないって感じになってるみたいだが……まぁいいか。

 二つ目の理由としては君が危篤状態にも拘わらず、七奈が男に血を入れるのが嫌だと言って非協力的だったから治療法を普通にしたことだな……本来ならあの映像で見せた治療法を使うつもりだった。それだと手っ取り早く気力と体力も戻せた上に魅了への耐性が少しは付くんだが……」


 そこで言葉を切って悪坊主は少女に視線を落とすが彼女は悪坊主の胸の中に顔を埋めていた状態から彼を見上げて一言。


ー」


 ……としか答えなかった。悪坊主は予想通りとばかりにそれを聞いて諦念染みた目を壱心に向けて口を開く。


「……とのことだ。こいつの我儘のせいであんたは七奈がいなくなった後に見込みでもう一週間ほど寝込むし、俺は治療の手間を増やされ、治療のために周囲の気力も使われ、治療内容を目撃したことで付添人たちのメンタルがやられた……まぁ、最後のは些細なことか」


 悪坊主はそう言って一言で壱心の心を撫で切った七奈の頭を何度か叩く。彼女はそれでも顔を上げない。それを見つつ壱心は何とも言えずにただ黙っていた。


「……いえ、あの。お世話になりました……」


 その間を壱心が状況を把握していないのだと判断した桜が代わりに頭を下げる。壱心としては輪をかけて恥ずかしい。ただ、意識がはっきりしたからこそ気になる事が幾つかあった。特に気になったのは、自分を治療した方法だ。


(俺の記憶が正しければ、最後に目を覚ましたのは秋月の乱が起きた頃……その頃に怪我と頭の具合から覚悟を決めた記憶はある。だが、今はそれから三日しか経過していないと聞いてるぞ……?)


 着替えの間にどれくらい眠っていたのか聞いた時の答えを思い出す壱心。自分でも見たが、明らかに細胞が壊死して黒ずんでいたり黄色くなっていたりしており、死を覚悟する程の重傷だった。しかし、今は何の問題もない。寧ろ倒れる前よりも体調が良い位だ。


 そしてこれはかつて映像で見た亜美に起きた奇跡ではなく、悪坊主の治療によるもの、しかも彼の発言を紐解けば人知の及ぶ普通の治療法らしい。しかし、壱心の知識からすれば明らかに常識を逸していた。


「……どうやって治したんですか?」


 そのことがどうしても気になる壱心は思わず先の羞恥を頭から放り投げて悪坊主に問いかける。

 対する悪坊主は何かを小声で呟いた七奈と小競り合いをしており、傍から見るのであればいちゃついている様にしか見えなかった。しかし、壱心の問いは聞こえているようだ。少女の相手を止めて壱心の方を向いた。そして、彼が口を開く一瞬の間に壱心は考える。


(これが分かればこの後大戦を迎えるこの国にとってどれだけ助けになるのか計り知れない……あの時の映像から考えるなら、この二人は恐らくはこの時代に落ちて来た俺よりも未来から来た存在……二人の協力があれば、もっと色々……)


 そんな期待を抱く壱心に告げられたのはたったの一言だ。


「教えない」

「え?」


 聞き間違いか何かかと思わず壱心が発したところに悪坊主は重ねた。


「教えない……というより『教えたところで意味がない』が正しいかな。教えられなくもないが……常人が聞いて気分がいいものでもないだろうしな。それでも聞きたいなら言ってもいい」


 当てが外れてフリーズしている壱心に「ただ」と悪坊主は付け加える。


「俺としてはこの後に予定もあるし、言っておくべきことがあるから君の質問時間を削ることになる。それでもいいか?」


 退屈そうに告げる悪坊主。その言動と態度が不一致な点はそろそろ壱心にも気になり始めていた。彼は小さく呟く。


「……予定、か。この人のその治療技術があれば救える命があるかもしれない……いや、間違いなくたくさんあるというのにそれよりも大事な予定がある、か」

「勿論。当たり前だろ? 俺は元の世界に戻るからな……今回は実験と実益のために介入したが本来なら死んでた人間に生きててほしくねぇよ」

「な、聞こえて……」


 聞こえてしまっていたことに反応する壱心。遅れて、悪坊主の発言の内容を理解するが壱心が何か言う前に悪坊主は続けて言った。


「随分と混ざり始めてるなぁ? 君の記憶を見る限りじゃここに来た当初は目的のためなら何でもするってはずだったが? えぇ? 変わったのは弟妹利三と文に情が湧いてからか? それともやっぱり、金髪リリアン拾ってからか?」


 邪悪過ぎる嘲笑のようなものを浮かべる悪坊主。何を思ってそんな態度を取っているのか不明だが、彼から常軌を逸した気配が漂い始めた。

 しかもそれはすぐに壱心のいる側にも侵蝕を始めている。そんな中、一連のやり取りを見ていた桜が二人の会話に素早く割り込んだ。


「申し訳ございません。救われておきながらの非礼をまずはお詫び申し上げます」


 凛とした一言。悪坊主は興を削がれたように桜の方を見下ろす。


「……別に救ってないけどな。話があるから話の出来る状態にしただけだ」


 桜の短い言葉で悪坊主は獲物をいたぶる猫の目を止めていた。彼もそこまでいたぶる気はなかったのだろう。変なスイッチが入っただけらしい。彼が引いたところで桜は再び頭を下げ、今度は壱心の方を振り向きながら告げる。


「それでも、です……そして壱心様、お話が」

「何だ……」


 恥ずかしいところばかりを見られている壱心は少しだけ不貞腐れた感じになってしまい、それを自覚して戒めてから桜に応じた。だが、彼女は主の心情よりも優先すべきことがあると声を落として告げる。


「……この件は深入りなさらない方がいいです。隣にいた私達も実際の処置を見ても何をしているのか全く分かりませんでした……」

「頭では分かってる……だがな」


 尚も未練を残す壱心。しかし桜は重ねて言った。


「知らない方がいいです。知ったところでどうしようもないので……恐らく、壱心様はその治療を再現なさりたいのだと思いますが……人間では技術的に、そして何よりも倫理的に不可能です」

「そ、そうか……」


 きっぱりと言い切る桜に壱心は少し気押されながらも首を縦にした。残念に思いもするし、自らの身体に倫理的に問題のある行為をされたと聞いてさらに気になることになる壱心だが、強い理性によってそれで引き下がったのだ。


 そして、少しだけ沈黙が降りる。そこで悪坊主の方が口を開いた。


「さて、そっちが止まったことだし続きと行こうか。治療の結果と今後の見通しについてだな」

「……お願いします」


 苦汁を呑み込んで壱心は悪坊主に頭を下げる。思うところはあるが、今の立場上何とも言えないのだ。

 そんな壱心の感情などどこ吹く風という態度で悪坊主は特に何とも思っていないように続けた。


「じゃあ……取り敢えず短期的には七奈に対する性的興奮が収まった後、一週間は泥の様に寝るだろうな。次に中期的には身体の再生に際して細胞を無理矢理活性化させた結果、体質が変化して老化が常人と異なることになってるから」

「……はい?」


 こともなさげに言った悪坊主。倫理的に問題がある行為を受けた結果、常人から逸脱してしまったと簡単に言われてしまった壱心の素っ頓狂な声が静かに壁に染み込んでいくのだった。




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