月隠れの夜

 次に壱心が目を覚ました時、既にすべてが終わっていた。だが、問題が片付き、彼が何事もなく目を覚ましたというのに室内の空気は重いままだ。その場にいる者を代表して口を開いた桜の表情も暗い。


「……壱心様。お目覚めになりましたか……隣室にて雷雲仙人がお待ちです」

「待て、何が起きているのか状況を……」


 目覚めてすぐに彼女たちの様子がいつもと異なることを理解した壱心。少なくとも重傷を負った壱心のことを気遣うよりも来客のことを気にするという行為は彼女たちとしては不自然だった。だが、壱心はそのことを咎めたりするよりも先に、何はともあれ情報が欲しいと問いを投げかける。


「申し訳ありませんが、道すがらでよろしいでしょうか? 今の壱心様のご命令に従うと、後程の壱心様からお叱りを受けると思いますので……」


 しかし、壱心の問いかけの返事は時間がないと急かす言葉だった。思うところはあるが、少なくとも病み上がりで上手く頭の回っていない壱心よりは思慮深いはずである桜の言葉を無碍にも出来ずに壱心はその言葉を呑み込む。


「分かった……では着替えを」

「そう、ですね……申し訳ありませんがその間にも状況の説明を。壱心様が病床に臥せっておられた間、状況は急速に進んでしまいました。壱心様にも幾つかはお話しておりますが……恐らく、その時の意識は曖昧だと思いますので……」

「……頼んだ」


 着替えの最中、そして移動の道中に壱心は彼が置かれている状況について桜から説明を受ける。気になる事は幾らでもあったが、一先ずは来客対応ということで棚上げして壱心は桜と共に雷雲仙人が待つ部屋の前へと移動した。

 そこで彼は言いようもない奇妙な気分に襲われる。その感覚に従った壱心は扉をノックすることも忘れ、その場に立ちすくんで自問した。


(……何だこの気配は。分からない……だが、これは……この感覚は……俺はこれを、この感じを知っている……?)


「壱心様?」

「ッ! ……いや、何でもない」


 一瞬意識が混濁する壱心。だが、桜の心配げな声で我に返る。気を取り直して扉をノックしようとするが、その前に室内から声がかけられた。入室を促す言葉だ。

 しかし壱心たちはまだノックも声掛けもしていなかった。恐らくは気配でこちらの様子に気付いたのだろう。そう予測をつけた壱心はその言葉に従って静かに扉を開き、無意識に礼をしてから口を開いた。


「失礼……」


 そこで彼は言葉を失った。挙動を止めた理由は中にいた人物だ。壱心が入室の礼から目線を上げ、すぐに視界に入ったその少女。それはこの世のものとは思えない美貌を誇る愛らしさと美しさを兼ね備えた尊顔だった。来ている服が現代……いや少なくとも、この明治の時代にあるものではないという情報を壱心の意識から吹き飛ばしてしまう程の美少女。

 それを認識した時、血液が沸騰するかのような感覚が壱心を襲う。同時に彼の脳は危険だと警鐘を全力で打ち鳴らしていた。体が熱いのに内部が凍り付き、冷汗が止まらないかのような感覚。しかし、壱心は目を逸らすことすら出来ない。少女の美しい瞳は彼の……いや、桜の心さえも魅了して息を忘れさせる。


 そんな、止まってしまった世界を動かすかのように男の声がした。それで初めて壱心は少女と一緒にいる男の存在を認識することになる。黒ローブという怪しげな格好をしていながら誰にもそれを疑問に思わせないような着こなしをした彼は絶世の美少女と密着した状態で死んだ目をしながら無造作に立ち上がった。


「……初めまして。他称、雷雲仙人の悪坊主だ」


 滑るような動き。男の身のこなしは只者ではなかった。だが、それでも壱心が気になったのは少女だ。まず、感じたのは違和感。彼女がどう、というよりも目の前の男の隣に顔のない、しかし何故か絶世を超えた金髪に似た色の髪をした美女を空目したのだ。


(今のは……?)


 心臓が早鐘のように鳴っている。だが、今は仙人を名乗る胡散臭い男を相手にしているところだ。それは一時的にでも忘れておく必要がある。代わりに壱心が考えるのは目の前の現実の動き。即ち、男の滑るような謎の挙動だ。その動き自体が異常事態だが、密着している彼女のことなど一切考えていなかった挙動に少女が何も気にせず追随したというのも気になった。


(……成程。左慈仙人を前にした曹操の気持ちがよく分かる。得体のしれん奴だ。ただ、少なくとも于吉仙人を相手取った孫策の二の舞にはならないように気を付けないとな……)


 異常過ぎる光景を目の当たりにしている壱心はそう考える。ただ、それでも問題はまだ残る。異常を生み出している原因と見られる男をしっかりと見る必要があるというのに……壱心の目は彼の理性が警戒すべきだと訴えている男ではなく雄の本能を捉えて離さない美少女の方に向かってしまうのだ。


 結果、非常に浅い範囲でしか相手のことが分からない。この程度では壱心の知性が奥底から訴えかけている危険の解明など出来そうもなかった。今、壱心がわかるのは彼らの表向きな世間話でも始めそうな和やかな雰囲気程度だ。


 人間としての備わっている本能の警鐘に対してあまりに乖離している現状。男の態度もそうだが、絶世の美少女もそうだった。彼女も悪坊主と名乗った青年の視線を受け取って反抗期の娘のような不承不承さを見せており、外見の神秘さに対してあまりに人間臭い印象を与え、違和感を際立てる。


 ……そして、案の定と言っていいのか青年たちの穏やかな雰囲気はすぐに崩れた。


「財部七奈、です。悪坊主のお嫁さ……」


 少女の外見に相応しい甘く蕩けそうな美声。それを壱心が知覚した刹那。少女の美貌のことなど頭から吹き飛ぶような……いや、頭ごと吹き飛ばしたと幻視させる程の殺意が室内に充満したのだ。

 その発生源は先程から壱心の理性が警鐘を鳴らしていた悪坊主。この世の悪と称される存在の全てを凝縮したような負の感情が絶世の美少女に向けられていた。

 だが、それでも少女は負けない。寧ろ、抱き取っている彼の腕に自らの形の良い胸が変形する程の力を込めて抱き着いて言い切った。


「悪坊主のお嫁さん。だから、色目使わないでね……?」


 愛情を具現化させたかのような態度で男の悪意を流した彼女。しかし、やはりと言っていいのか、彼女も普通ではないようだ。

 彼女は愛情を悪坊主に向けた後、返す刀で凍てつく殺気の混じった視線を壱心のすぐ隣にいた桜に向けたのだ。強烈な殺気に貫かれた哀れな犠牲者となった彼女は震えあがっている。


「そ、そんなことしないでち……信じて欲しいでち……」


 極寒の大地に肌着で投げ捨てられた少女のように震えながら必死に否定する桜。そこにはいつもの超然とした態度など欠片も見当たらない。だが、目の前の少女は殺気を緩めることなく続けるのだ。


「じゃあ、絶対に悪坊主の事好きになりませんって言って。この場で」


 桜は今度こそ凍り付いた。既に悪坊主と名乗る男が尋常ではない殺気を垂れ流しているのだ。ここで彼を下手に刺激してしまえば……だがしかし、この場で少女に逆らっても……


 解のない答え。そんな問題に直面した悩める桜の下に救いの声が降りて来る。


「言う必要もねぇだろ……面倒だから黙ってろ。遊びに来てるわけじゃねぇんだ。邪魔するなら「浮気?」……あぁ面倒臭ぇ……んのかお前? お前、ここに来る時の条件忘れてんのか?」


 だが、救いの声の主は誰かを救うには少々ばかり気が短過ぎた。発言者の悪坊主は七奈が挟んだ短い問いかけに目を据わらせて殺気を溢して睨みつけ、七奈は七奈でその美の極致とも称すべき肢体に何やら妖しい気配を纏い始めていた。

 救われたはずが地面に叩き付け直されただけの桜。彼女は秋月の乱の際に見せていた落ち着いた様子をどこに忘れて来たのか、あわあわと目の前の人外を見比べることしか出来ない。


 ……その様子を、壱心は何故か既視感を覚えながら見る。そして、殺意が渦巻く異常な空間だというのに何故か壱心は特段問題を感じずに口を挟むことを決めた。


「……大体の関係性は分かりましたよ。仙人様・・・。それで、ご用件は?」


 壱心の声を受けてこの場を覆っていた重苦しい殺気が霧散する。壱心を一目見た悪坊主が七奈の相手を止めたからだ。悪坊主に放置を決められた少女は無言で彼の腕を取ったまま彼の腕の中に顔を埋めてしまう。悪坊主はそれを見咎めるように少しだけ少女の頭を見て強めに叩いたが無視され、どうやら諦めたようだ。


「……まぁこいつのことはいいことにしよう。さて、こちらから話と言うのが色々とあるんだが……」


 悪坊主と名乗った男はそこで面白くなさそうな顔をしていたのを切って、目の前にいる壱心たちに向けて歪んだ笑みを浮かべた。


「一先ずは自己紹介の続きと行こうか。さて、木精霊に魂魄を二つ持つ男。木精霊は既に知っているからいいが、史実に名もなき逸般人……君には名乗ってもらおうか。で、挨拶を済ませてから本題と行こう」


 そう言って不気味に嗤う男。美少女が拗ねながら抱き着いているというコミカルな状況であっても、そこだけ空間が捻曲がったかのような不気味さが蠢いている。

 しかし、壱心は動かない……いや、動けなかった。それは先程の悪坊主の言葉が原因だ。


(木精霊に、魂魄を二つ持つ男……これは、どう考えても俺たちのことを指してるよな……自己紹介を促す視線は俺に向いているし……自己紹介も済ませてない上、男は俺だけだ……)


 悪坊主の短い言葉。その中には壱心の知らない情報が込められていたのだ。消去法で判明しそうな桜の正体についても気になるところだが、壱心が気にしたのは彼が溢した後者の情報。


 ……即ち、この時代に来てから何の情報も得られなかった今の自分の状態と状況に関する情報。


 自分も知らない情報を平然と扱うその男を前に、壱心は警戒の意を込めて言葉を選びながら名乗りを上げていく。


「……俺は、香月壱心。黒田藩の馬廻組だった香月家の長男で、明治維新に奔走して今は福岡県令をやっている」

「……まぁ、今はそれくらいでいいか。思ってたより覚えてないっぽいし、何よりも面倒だし」


 言葉を選んでいるだけでまだ続けるつもりだった壱心の言葉を切って目の前の男はそう言ってソファに身を預けた。彼の態度からして壱心がまだ何か言おうとしていたことに気付いているのは間違いないだろう。敢えて切ったようだ。

 思念渦巻く壱心は疑念の目を彼に向ける。どうしてそこで止めたのか。その視線は雄弁にその問いを伝えていた。

 だが、その抗議を込めた視線も相手に受け取られなければただ相手の周辺を見ただけだ。壱心の睨みは悪坊主が受け取らないため、舶来品である一人掛けのソファに悪坊主が悠然と座っていること。そして七奈が彼と同じ椅子に無理矢理入っている光景を目に映して脳に伝える以外の効果を果たさない。そんな光景から得られる情報など実害を被っている悪坊主以外の三人からすればどうでもいいことだ。


(……厳しいな。相手が悪い……しかも財部とか言ったなこの女……こいつがいると集中できない。ただでさえ相手が悪いというのに……!)


 壱心は自身の睨みを悪坊主が受け取っていないのを敏感に感じ取ってそう考えていた。最初で失敗した分を取り戻すべく目の前の存在の情報を出来る限り引き摺り出そうとしているのだが、非常に難しそうだ。だが、少なくとも今のやり取りから分かったことが一つだけあった。


(ただ、確かにこの人には起きてすぐに会うべきだったな……この男は非常に面倒臭がりで気まぐれなタイプみたいだ……無駄な時間を食っていれば会いに行く前に帰っていたかもしれない……)


 桜の判断に感謝しながら壱心は悪坊主を見据える。彼の表情からは相変わらず何の情報も得られない。加えて、彼の顔のすぐ近くにある絶世の美貌は楽しそうにしているだけで壱心の集中を乱すという理不尽さだ。果ては頼りになるはずの桜さんが絶賛ポンコツ状態であると来た。

 しかし、そんなハンデがある中でも壱心は近年で稀に見るギラついた目で二人を見続ける。悪坊主が苦笑する程だ。


「……やる気ある顔してるねぇ……まぁ、いいけど」


 七奈の美しい黒髪ごと彼女の頭を片手で押さえつけながら悪坊主は笑う。だが、壱心も同じ様に笑っていた。


「じゃあ、よろしくお願いしますよ。仙人様・・・


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