嵐の合間

 福岡県県令、香月壱心が兇刃の下に倒れる。


 その一報は瞬く間に全国を駆け巡った。特に、中央政府が受けた衝撃は大きく、速やかに医師団が福岡に派遣されることが決まる。現場に転がっていた死体と壱心の意識がはっきりしていた頃の証言。それから彼らが所持していた斬奸状から身元が判明し、熊本、佐賀、仙台の志士が実行犯として関与していることが判明。

 加えて、計画の方に薩摩の関与も確認された。それは大きな問題として取り上げられ、福岡藩閥からの突き上げで薩摩と福岡の仲は険悪に至る。それが後にどんな遺恨を残すかはさておき、今回の事件単体としては速やかに解決に向かった。


 しかし、香月組の表情は未だに暗いままだ。壱心の意識が定かではない期間が増えてきているのだ。病床に就いた壱心への治療が捜査や政府の初動に比べ、遅々として進まないことが悪化の原因だ。この状況になっても何の手も下せないのは壱心の手術許可が下りないことに由来する。


 西洋医学への理解が不十分だった明治初期。当時定められていた規則に政府高官の手術には勅許が必要というものがあった。史実では大村益次郎の暗殺事件の際に見直されることになるこの規則だが、大村の暗殺事件に壱心が介入した結果、その辺りの改正は後回しにされていたことが災いした。

 更に言うのであれば、そもそも壱心を襲撃した河上彦斎も大村益次郎の暗殺事件に加担した犯人として処刑された人物だ。実際には河上は暗殺に何の関係もないという説が有力だが、それを口実として殺されたことは事実。


 つまり、壱心の現状は彼が大村を救うべく歴史を史実から変えてしまったことが原因となる。


 ただ、そんな因果関係など未来を知っている壱心くらいにしか分からない。そして、そんなことは傷付いて倒れている壱心を前にした彼ら、彼女たちにとってそれほど大事なことではない。壱心が眠っている部屋で彼女たちは険しい顔をしながら今日も目前にある問題をどうにかするための会議を開いている。


「……壱心様の安否を気遣うという名目で今日も退任の進言がありました。桜さんが実務の方を片付けているとはいえ、面会が出来なくなってしまっては……」


 外から戻って来た亜美が変装を解いて少女の姿になり、静かにそう告げる。壱心が眠りがちになってしまった今、秘密裏に香月組を取り仕切る頭となっているのは報告を受けている彼女……国守桜だった。


 桜は変装を解いた亜美に静かに告げる。


「ここは、我慢しなければならないところです。亜美さん、外のことを任せている状況でこういうのも心苦しいのですが、ここで引いてしまえばその時が彼らの決起の時。壱心様が築き上げて来たものを壊される訳には……」

「……わかっています。ですが、何の対策もなしというのは……」


 桜の言う彼ら。それは史実で秋月の乱を起こすであろう勢力だった。旧福岡藩の佐幕派、そして壱心によって立場を失ってしまった者たちが史実以上の勢力で蠢いていた。壱心が倒れており、そのフォローに手を割かなければならない現状、彼らの監視も緩んでいる。これに加えて県令に始まる新政府内の様々な権力を返上してしまえば彼らの動きは本格的につかめなくなってしまう。

 それに対応するには今の権力が必要。亜美も理解はしている。だが、相手の要求が正当である以上、反論はどうすればいいのか。しかしこれも自分の所為。

 そんな思いを滲ませて亜美は手を強く握る。彼女は、壱心が重傷を負う原因となった襲撃の日に何も出来なかったことを悔やんでいた。個人的な感傷に囚われ、本来果たすべきだった索敵を疎かにしていたことを悔やんでも悔やみきれない思いだったのだ。


 そんな暗鬱な空気を払うかのようにこの場に新たな人間が登場する。彼女もまた香月組の一員であり、壱心が眠りに就いてしまったことを知っている者だった。


「宇美さん、どうでしたか?」


 入室してきた彼女……宇美に問いかける桜。だが、その問いかけへの答えは何も言わずとも表情だけで分かった。それを察したとは分かっているものの一応、彼女は口を開く。


「ダメです。どうしても亜美さんが言っていた場所は雷山には見当たりませんよ。別の場所なんじゃないですか……?」

「……いえ、その可能性は薄いでしょう。引き続き、捜索をお願いします」

「でも、情報の限りだと色んなところに行ってるみたいですよ。そもそも、確かに色んなところで治療してるみたいですけど……噂の内容が滅茶苦茶ですし、信憑性がなぁ……他の「宇美」……はーい。ガンバリマス」


 亜美に睨まれて宇美は黙る。しかし、不承不承というのが透けて見える態度だ。彼女は現状が不満だったのだ。

 宇美に任せられたのは雷雲仙人という未確認の人間の捜索。桜から壱心を確実に治すことが出来る人物と聞いて探しているのだが、一考に手掛かりが出ない。

 噂をまとめても何故か伯耆の周辺にある打札越に行ったり長崎に行ったり天候を変える代わりに鉄を要求したり、と……結果は伝われど、姿は見えず判明する結果すら宇美には意図の分からない有様だ。

 そんなどうしようもない任務よりも彼女はもっと実りのある、眼前に迫る脅威を何とかする仕事などがしたかった。しかし、睨まれている今、そんなことは言えるはずもない。ただただ不満の意を視線に乗せて目の前の二人に伝えるだけだ。

 それを分かっているが何も言わずに仕事しろと訴える亜美と桜の目。互いに譲らずに沈黙のままに睨み合う空間が形成される。


 だからこそ、小さな声が良く聞こえた。


「……ぐ、ぅ」


 低く唸る声。同時に身じろぎする音も聞こえる。どうやら、壱心が目を覚ましたらしい。酷い頭痛と倦怠感から彼は目を覚ましてもしばらくは何も出来ない。それが日常になっている。彼女たちはそんな日常に対して何も言わずに壱心のことを見守っている。しばしの間。壱心はしゃがれ声で問いかけた。


「……江華島、は」

「事後処理が進んでおります」


 唐突な問いかけは様々な過程をすっ飛ばしたものだった。それでも即座に桜は彼の意図を酌んでそれに応じる。それは正解だったようで壱心は頷いて力を抜いた。


「そ、か……」


 ぼんやりとした頭で壱心が考えるのはこの国の行く末を決めるにあたっての大事な出来事。朝鮮湾岸の航路を測量していた雲揚が朝鮮の草芝鎮砲台の守備兵に砲撃され、応戦した事件だ。征韓論を再燃させる火種になりそうな一件であり、朝鮮の内部分裂を引き起こす原因の一つとなる事件。


(……釘を。やり過ぎないように、行きすぎないように釘を刺さねば……)


 対朝鮮との関係を考えて壱心は呻くようにその考えを桜に告げる。何度も聞いた話だが、彼女はそれに嫌がることもなく頷いた。それを見て満足げに壱心は頷く。

 次いで、思い出したかのように壱心は尋ねる。


「北……北は……」

「樺太・千島交換条約が締結されました。樺太の権益を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全ての権利を確保しました。現在、政府としては占守島に軍事基地の設立と幌筵パラムシル島に入植者を募り、千島アイヌ住民との混在を進める計画が立案中です」

「なら、いい……」


 千島列島の状況確認を行い沈黙する壱心。最北の島に軍事拠点を築くための大義名分にそのひとつ前の土地に自国民を住まわせる。

 色々と問題がある手かもしれないが、当時の人からすれば新政府のみならず日本国民として虚勢でも張らなければ日本国という存在が食い物にされるという恐れを抱いていた。そうでもしなければ自分たちを守れないという意識があるのだ。

 そのため、この対策は日本国民には普通に受け入れられる。壱心としてもこの手は悪手ではないので横やりを挟む気にもならない。ではこの問題はいい。次に、何を言うべきか。ただ考えているだけで体力が消耗される。声を出すのも億劫な壱心だが、最悪の事態を考えて意識がある内にやっておきたいことがたくさんある。


「……筆を。桜、頼む」

「畏まりました」


 思いつくがままに遺していく。既に、自身が最初に考えていた計画書については前々から認めてある。意識が不明瞭な時間が増えてきた以上、その計画書の所在を明らかにする時間が近くなってきたかもしれない。そんなことを考えて壱心は自身が弱気になっていることを悟る。思い当たる節は幾らでもあるが特に今、壱心の頭に浮かんだのは彼が心血を注いでいた薬学の一つの事象。


(……あぁ、ペニシリンが使えなかったのが心に来てるなぁ)


 碧素の名で登録されたペニシリンが自分に仕えなかったという事実。壱心は外傷を受けて病状の悪化を防ぐために自らが生み出した抗生物質……ペニシリンを使用しようとして、事前の検査で唐突にペニシリンショックの可能性が出たため使用できなくなってしまったのだ。

 当時の壱心の落胆ぶり……そしてそれをはるかに上回る薬谷の失意は壱心がまだ生きているというのに、病室がまるでお通夜になってしまったかのようだった。


 そんな光景を思い出していると目の前の幼い少女その端整な顔を訝し気に壱心の方に向けて来た。筆が止まっているのに気付いて横になった方がいいのではないだろうかという心配の目を向けていたらしい。それで壱心も我に返る。


(……いかん。過ぎたことを考え過ぎて意識がある、残された時間を無駄にするところだった……しかし、このことは言い忘れてないだろうか……)


 石炭酸の臭いに染められた病室で壱心は口を開く。まずは自身には使えなかったペニシリンについて。絶対に今以上のペースで量産すること。そして、薬谷が自殺しそうなほど落ち込んでいるのを何とかする事。


 その後も幾つもの懸念事項を告げていく壱心。思いつくがままに口から出て来るそれは過去に既に告げたことかどうかの見分けすらつかない。それでも言い残したことがないか壱心は更に言葉を探す。


「……後、後は……」


 ちょうどその時だ。病室の扉が静かに優しくノックされる。物音こそ丁寧だが、火急時以外には部屋への立ち入りを禁止していることから何かが起きたことが一同にはすぐに分かった。


「すみません、緊急の……」


 入って来たのは香月組ではない人物。壱心の……というよりも、福岡県に雇われている役人の男だった。彼は気まずそうに入室して来る。そして壱心と目が合うとそのすべての挙動を停止させた。止まっている彼の代わりに壱心が口を開く。


「何だ……」

「こ、これは壱心様……お目覚めで……あの」


 壱心が起きていたのが予想外だった彼は周囲に目配せをして助けを求める。どうやら壱心の前では話し辛いことらしい。だが、壱心がそれを許さない。


「言ってみろ……」

「お、お体に障るやもしれませんので……」


 食い下がる男。壱心の健康を気遣う忠義と己が職務を全うする使命感、そして壱心の言う通りにしなければならないという恐怖が内心で混ざり合っていた。そんな彼を見かねて亜美が告げる。


「……言わない方が健康に悪いようですので、どうぞ。貴男を責めることは致しませんので」

「きょ、恐縮です……では……」


 そう言われても尚、酷く言い辛そうな男。だが、逡巡するのも僅かなこと。彼は毅然と石炭酸の臭いが充満する部屋に、しっかりと聞こえるように言った。


「報告いたします。熊本にて敬神党が挙兵し、熊本城を襲撃しています。こちらにはすぐに小倉鎮台より兵が差し向けられていますがその隙を突いて福岡で秋月党が反乱。また、それに呼応して小倉豊津でも挙兵。至急閣下の指示を仰ぎたいとのことです」


 最悪の事態だった。場にいる全員が表情を苦いものに変える。壱心に自然と視線が集まる中、彼はゆったりと口を開く。


「……こんな時に、ごほっ……いや、違う……だからこそ、か……まだ、俺がいる間でよかった」


 男が告げた事実。それは史実では1876年の10月に起きた不平士族の反乱。それが今、壱心の眼前に迫っていた。

 もしかすれば、これが自分の最後の仕事になるやもしれぬ。自身に万一のことがあった時は誰に託すか。そんなことを考える壱心だが、その精神活動の続行に肉体は否を叩きつける。


 揺らぐ視界に暗転する意識。まずい。そう思った時には既に思考が砕けている。せめてもの抵抗。指揮系統の一任だけでも……そう考える壱心は何とか声を絞り出した。


「さく、任せ……」


 言葉は言葉になり切る前に消えて行く。室内には、沈黙だけが残った。



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