闇討ち
沈黙が場に降りる。史実では既に死んでいるはずの男が壱心の前に立ち、獲物を狙う蛇のようにこちらを睨んでいた。
河上彦斎。幕末の四大人斬りの一人で尊王攘夷派の熊本藩士だ。身の丈五尺程度と小柄で色白な彼はその優し気な風貌にそぐわぬ激しい気性の持ち主として知られている。
(さて、どうするか……)
そんな彼を前にして壱心は思案する。こちらが来るまで動かずに待って居た辺り彼が自分を狙っているのは明白だろう。そうでもなければ襲い掛かってきたりなどしない。排外主義で史実においても維新後もその考えを曲げなかったという辺り、開国主義の壱心と理念が異なることについても言うまでもないことだ。
(……殺るか。逃げるにも後ろの集団に紛れた変な相手がいる以上、亜美が連れてくるであろう応援がいないと不安が残る。最悪なのはその集団と目の前の人斬りに挟み撃ちにされることだ……前を
後方の人間が得体の知れない相手である以上、確実な策を選ぶ。そう決めた壱心は右手で静かに小太刀を構える。
そして次の瞬間、左手を懐に突っ込んだ。
彦斎が動く。それはこちらに向かってくる動作ではなく、何かを避けるもの。彼の目の前にあるのは壱心の左手。正確には、その手に握られた拳銃だ。
響く銃声。しかし、苦悶の声は続かない。外れたのだ。つまりそれは彦斎が動く合図となる。滑るような動きで壱心の懐に入り込んだ彼は傷付いた左手を構うことなく右手で刀を振るう。壱心は咄嗟に一歩下がった。いや、下がってしまった。
(くっ……安全に行こうと考えすぎたか……)
壱心が万全の態勢で、相手が普通の相手あれば恐らく、逆に一歩出て相手を抑えに行ったであろう場面。しかし、状況が悪く相手が相手なために慎重になり過ぎたのか壱心はほぼ反射的に下がってしまった。
ただそれでも相手は振り切った後。突っ込みすぎて次の挙動には移れない態勢となった彦斎に壱心は気勢の乗った一撃を振り下ろす。果たしてそれは狙い通りに相手の身体に吸い込まれていった。
迸る鮮血。彦斎の傷付いていた左手が宙を舞う。
「ッ!」
緊急回避としか言いようのない体勢移動で辛うじて致命傷を逃れた彦斎。だが、力が入らずに体の動きにただ追随するだけの左手はその刃から逃れることは叶わなかった。
同時に、無理な回避と急激な喪失感は彦斎の身体から平衡感覚を失わせる。体勢を崩した彼は右手の刀を地面に突き立てて姿勢保持を図った。だが、その時には既に遅い。
迫る巨躯。切っ先は、彦斎の杖となってしまった刀を捉えており……金属の悲鳴が上がり、彦斎の武器は失われた。
「……あァ」
彦斎の口から声が漏れた。支えを失った体は地面に転がり、天を仰いだ彼の目には壱心の姿はない。また、それまで気にもしていなかった出血多量という現実が彼を襲う。刀が折れたことで心まで折れてしまったのだろうか。最早、立つことさえ出来そうにない。
「念のためだ、悪く思うな」
だというのに、視界の外から聞こえて来た声はそう告げる。同時に、痛む場所が増えた。壱心が彦斎の右手親指の関節を根元から外したのだ。これで、抵抗しようにも物は握れない。
そんな状態になった彦斎を見下ろしながら壱心は内心で大きく息をつく。ついでに舌を噛み切られることのないように相手の服の袖を切って猿轡。念のために手首にもリードのように切れ端を結び付けて彼はこの後の処置について考えた。
(はー……何とかなった。熊本県には後で色々と無理難題を押し付けてやろう……ついでに、鎮台内の争いにもこの一件を持ち込めば色々とやりやすく……)
そんな、気を抜いた一瞬の出来事。本来、忘れてはならないはずの周辺の状況を探るという行為を怠ってしまった壱心。彼の元に、当然と言えば当然の報いが舞い落ちて来た。
響いたのは銃声。そして今度は壱心の口から思わず声が漏れた。
「がッ……!」
「や、やったぞ! みんな! 今だ!」
後方、既に目の良い者であれば相手の顔まで視認出来る範囲に人がいた。それはどう考えても味方ではない。銃口を向けている者、いつでも抜刀できるように構えている者。合わせて三名がこちらを見ていた。
そして、壱心がそれに気付いた時には既に彼らは銃口をこちらに向けて上ずった声で叫ぶ男に呼応し、気勢を上げて壱心に肉薄して来る。
「お、おおぉぉおおぉッ! 佐賀藩士、鶴田英則、参る!」
「天誅!」
「く……ッ!」
佐賀の乱の残党か。左肩を撃ち抜かれた壱心は顔を歪めながら敵を睨みつける。痛みをこらえて冷静に相手を観察すると、この場にいるのは先に挙げた銃を持った一人と抜刀した男二人だけのようだった。
どうやらここで足止めを喰らったとはいえ壱心の全力疾走のお蔭で相手の隊列にもかなり乱れが出ており、今ここに来れたのはこの三人のみらしい。
(まだ、何とかなるか……く……! にしても、この大馬鹿野郎が……! 何で気ぃ抜いてんだ……!)
自身の迂闊さに怒りが沸き立つ。獲物を仕留めるに最も適したタイミングは獲物が狩りを成功させたと油断したその一瞬。分かり切っていたことながらその警戒を実践できなかった愚行への怒りを着火剤として壱心は奮起する。
迫る男たち。己が抱く恐怖を掻き消すかのように叫ぶ二人を冷たく見据えた壱心は彼らのことを無視して小太刀をその場に突き立て、右手に銃を持つと奥で銃口をこちらに向けている男に照準を合わせて無言で撃ち抜いた。
額に穴を開ける奥の男。糸を切られた操り人形のようにその場に崩れ落ちる彼の目は見開かれており、自身が死んだということを理解していないようだった。
(まず一人)
しかし、仮に相手が死んだことに気付いていなかろうが、壱心に相手がもう動けないことを理解出来ればそれでいい。壱心は続いて後方のことなど気にする余裕もない抜刀した男たちに銃を投擲すると地面に突き立てていた小太刀を引き抜いてそのまま応戦する。
銃を顔面で受けて一人の男はのけぞり、
気合の乗った鶴田が上段から刀を振り下ろす直前。壱心は彼の方へと素早く前に出る。高速の踏み込みは鶴田の目測を狂わせ、逆に壱心の小太刀が最も威力を発揮する距離に彼を誘う。
結果は明白。胸部から血を噴出させて鶴田は血を噴き出し、そのまま前のめりに倒れて行く。壱心の手には肋骨か何かに当たったような硬い感触が刀越しに伝わっていたが、刃を確認する余裕はない。そのまま返す刀で鶴田に遅れてこちらに攻撃を仕掛けている男の左腕から胸にかけて円を描くように斬り抜いた。
「ま、だァッ!」
だが、相手は絶命に至らなかった。右手だけになっても決して手放さなかった刀を何とか壱心に怪我を負わせるためだけに動かす。その執念は既にすれ違いざまに後方へ行こうとしていた壱心の背中に浅い一撃を負わせることに成功した。
「ぐッ……しつ、こいッ!」
しかし、その怨念染みた行為もそこまでだ。すぐに残心して切り替えた壱心は男の胴体と首を泣き別れにする。そこまでの一連の動作を終えたところで壱心は息をつく……その前に、即座に周囲の警戒を行った。
「フ……くっ……もう、来てるか……」
先程の失敗が今回は活かせている。だが、状況は決して良くない。腹部、左肩、背中に切創を帯びた壱心は集中力を切らすレベルで出血しており、何もしなくともこのままでは命に係わる状況だ。
(甘く見過ぎた……この状況で隠れたところで、血の跡を辿られる……この騒ぎでも住民が出て来ない辺りに不気味さを感じるが、誰かの助けを借りなければ本当にマズい……)
助けを求めた相手が敵であるという最悪の状況を想定して避けていた選択肢に手を出すことに決める壱心。ガス灯のある街路の奥は貧困層のたまり場ではないことから先程よりは信用できるだろう。だが、これも良い手とは決して言えなかった。ただの時間稼ぎにしかならない上に、見つかればもう逃げられない。
……それでも現状、壱心にはそれ以外に打つ手がない。
「……生け捕りして、交渉に使いたかったが仕方あるまい……」
自身の現状や隠れられそうな場所を喋られるとマズいため、目撃者を消すことに決めた壱心。荒々しく息を吐きながらこの場に転がっており、まだ息のある鶴田と彦斎に近づいて止めを刺す。先にまだ動く可能性の高い鶴田を狙う。どうやら、機を窺っていたらしいが、彼が動くよりも壱心のリボルバーの方が早い。これ以上、怪我を重ねることもなく始末は完了した。
「よし……」
戦闘終了後、少しだけ霞み始めた視界。頼りなくなり始めた足取りで前へと進む壱心。時間がないとはいえ、現場からあまりに近いとすぐに追手に気付かれる。
かといって、あまり奥に行っても血の跡で辿られる上にその痕跡を消す暇が無くなってしまう。
そんなことを考えながら移動する壱心。だが、どうにも血が足りず、考えがまとまらない。壱心は荒く息を吐きながら通りを進む。どこかいいところはないか。そう考えながら周辺を見ながら移動していると銃声などが気になったのか、外の様子を窺っていた町民がこちらを覗いていたことに気付く。彼も目が合ったことに気付くとこちらをよく見て……何かに気付くとすぐにそこから飛び出してきた。
「殿様じゃないですか! そのお怪我は……!」
「……賊だ。はぁ……っ、今のところは全員返り討ちにしたが……」
「おぉーい! みんな! 大変だ!」
壱心を見ていた町人はすぐに大声を上げた。壱心は追手がまだいるというのに何を考えてんだこの馬鹿と思うも極度の疲労感から何も言えない。だが、周囲から人が出てき始めるのを見て考えを改めた。
(あぁ、そうか……普通に、助けを求めても、よかったか……)
これだけ人がいる中で無理に暗殺は出来ないだろう。おっさんの腕の中でそんなことを考える壱心。問題はこちらが圧倒的有利になるまで秘密裏に動かさなければならない。そんな脱藩志士だった頃の考えが抜けていなかったと反省しながら意識を薄れさせていく。
それでも、何かあるといけない。その考えだけで意識を保つ壱心。だが、それも長くはもたない。彼は自身が頼りにする者たちが通報や周辺住民の騒ぎ声を頼りにこちらに駆け寄ってくる光景を一目見て、壱心は意識を手放したのだった。
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