区外地にて

 壱心が雷雲仙人とかいう非日常、こちら側の世界として触れるべきではない存在から手を引いてしばらくして年が明けた頃。

 彼は雷雲仙人の調査から手を引き、本来の業務である自分の秘書としての活動を精力的に行う亜美と共に福岡の街を歩いていた。因みに、彼女の姿が変貌したことについては香月組以外には彼女の巧みな変装術で誰にも気づかれていない。

 それはこの町の中でも同じことだ。当たり前だが殆ど見ず知らずと言っていい彼ら、彼女たちが亜美の変化に気付くことはない。

 日が落ちて細い月が照らす薄明りの中、変わりゆく街並みを歩きながら一人だけ逆向きに時を進められた亜美は複雑な心境を小さな形で漏らしてしまう。


「……変わってしまいました」


 亜美の一言を拾った壱心は周囲を見渡す。そこには急ごしらえといった形の長屋や取り敢えずで作られたような借家があり、貧困層のたまり場となっていた。それを見た壱心は亜美の声にこう応える。


「対策を打たないとな」

「……そうですね」


 そういう意味で言ったわけではないのだが、聞こえたのはいいのだが彼はどこを見ているのだろう。内心ではそう思いながらも亜美は壱心の言葉に同意しておく。会話はそこで途切れた。


(……私が言うのも何ですが、壱心様にはもう少しでいいので普通に日常会話をしてもらいたいものですね……壱心様には全てを業務上の会話にする習性でもあるのでしょうか……?)


 沈黙の間にそんな考えを抱いてしまう亜美。過去の彼女にそう思われるというのはよっぽどのことだった。だが、ここ最近の彼女はそういった思考をよく抱くようになっている。以前までの彼女であれば文面通りの意味で言っていたため、壱心の反応で正しい答えだったのだが……どうも、少女に戻ってからというものの自身に異変が多すぎる。


(……この件は深入りしてはいけない。これも以前の私であればその通りに出来たのですが……)


 これが良い変化なのか悪い変化なのかはわからない。だから彼女は棚上げする。今は途切れてしまった会話を再開することにした。


「……この辺りまで貸家が……福岡区も人が増えていますね」

「人口が十万人に上ろうとしているからな……」


 そんな亜美の内心に全く気付いていない壱心はしみじみとそう告げる。彼は家屋を見た後に別の景色を見ていたのだ。

 彼が見ていたのは道行く人々。この時期の福岡の人口は史実において約四万人というところ。しかし、現時点で炭鉱開発と壱心が屋稲に命じた大規模な米蔵の開放によって貧困層の移民が急増している。加えて、利三たちの動きによって大規模な企業が生まれ、需要は拡大の一途。更には自身が県主導で行わせている殖産のための緩和政策によって一旗揚げようという輩の流入も後を絶たない。

 このような利を得るための行動の他、隣県で起きた佐賀の乱から逃れ、そのまま定住しに来た人もいるようだった。これらの社会的人口増の影には周辺の県の犠牲があり、そちらも不満はあるものの香月の名と実績の前に黙っている。


 そして、そのような社会増に加えて自然増も伸びていた。特に、この時代の人口比の多くを占める農民たちが農具の改革によって暇な時間が出来たこと。農具改革によって農業で更なる収入を得ることも炭鉱で更に稼ぐことも可能になり、子どもを持つ余裕が少しだけ生まれつつあること。そして何より、抗生物質や消毒の概念の醸成により治療環境が変化し、子どもを産んだ後の衛生状況がよくなり、生存率が上がったことが理由となる。


 これらの改革を主導したのは壱心だ。抗生物質や消毒の概念の醸成に当たっては自社の利益のために寺社仏閣を蔑ろにして金を毟る悪魔だの言われたり、その治療を受けるために借金をした者に炭鉱開発を案内した際にも悪口雑言を叩かれた。

 米蔵の相場荒らしに近い価格での開放では庄屋に慇懃な口調ながらも強く抗議を受けて一触即発にまで至った。そんな中で成果が上がり始めている実感。それは得も言われぬ感慨深さを壱心に与えていた。

 目の前の光景が意味していることがそうだ。福岡区に十万人。後の世から見れば少ないと思われるだろう。同時期の都府県庁からしても大都市である東京の60万人や大阪の27万、京都の24万から見てもその程度で……そう思われるかもしれない。だが、当時の十万人という規模は徳川御三家の一つ、尾張藩の中心だった名古屋の十二万人や加賀百万石と謳われた金沢の十一万人に次ぐ大都市だ。そしてこれだけの人口が居ても尚足りない人手。


 福岡という町は今まさにかつてない勢いで成長していた。


 この手腕を買われて壱心は東京の殖産について教えを請われていた。今はその帰りで福岡の町を見ながら自ら語った将来について思いを馳せている。本来の予定にはなかったこの会談の所為で変える時間が遅れ、日が暮れてから福岡に入ることになってしまったが、周囲から目覚ましく福岡が成長しているという評価を得て悪い気はしていなかった。

 しかし、これは終わりではない。寧ろまだ始まったばかりと言ってもいい。


(……本当に、やることはまだまだある)


 感慨深さを捨て、気を引き締め直す壱心。まだまだ始まったばかりなのだ。やることはたくさんある。例えば、貧困層が多く流入してきたことで治安の悪化や公衆衛生の悪化が話題となるようになり、流入者との間に対立が生まれつつある。その他にも都市の問題は山積みだ。

 そんな思考に浸っていたからだろうか。彼は自身の周囲に迫っていた気配に気づくのに遅れてしまう。


「亜美」

「……申し訳ございません」


 声をかけたことで彼女も気づいたようだ。壱心と同様に別の思考をしていた亜美も周辺の気配に気づくのに遅れてしまっていたようだった。東京から福岡へ戻って来たばかりという旅の疲れもあったのかもしれない。だがそれでも壱心とその側近の両方が周辺の殺気に気づかなかったというのは非常に珍しいことだった。


「数は……結構いるな。追跡の杜撰さからただの流入者といったところか? 微妙なところだが詳しく察知してる暇はなさそうだ」

「正面はそれほど……二、三名でしょうか」


 小声でやり取りを交わす二人。後方にいるのは大した相手ではなさそうだ。福岡の中心部にいる元々この地に住んでいた人ではなく、貧困に耐えかねて流れて来た人々が香月の名も姿も知らずに物取り目当てで来たのだろう。そう考える壱心。


(……このまま逃げて勘違いで済ませることが出来たら彼らもまた福岡の町に住む普通の労働力になる可能性もあるし、普通に逃げた方がいいか。いや、治安悪化を抑えるために向かうというのも……)


 だがしかし、壱心は続けて生まれた考えを否定する。


(……いや、あの一隊を抑えたところで根本的な解決にはならない。末端に接触した程度で得られるのはこの問題に取り組んでいますというアピールだけ。わざわざ危険を冒してまで向かう必要はない……)


 冷静に告げる壱心の理性。だが、本能的な部分も壱心に警鐘を鳴らしていた。


(それに後ろは何か、マズい気がする……確かに素人たちがいるのは間違いない。だが、それに紛れて何かがいる気配が……いや、考えている暇はない。そんなことをしている間に囲まれる可能性がある。どうするか……逃げるにしてもこの辺りは民間で新興住宅や商用のために増築したりしている物件が多く、地形の把握に不安が残るな……)


 広がりつつある福岡の町は壱心の手を離れている個所が多くある。特にこの辺りは博多の町人たちが色々と画策している場所だ。武家の方で全ての情報を把握するのは難しい。


 足りない情報。しかし、壱心は決断を下す。


「……亜美、前方に人が少ないから突っ切るぞ。その後は利三の店……そうだな。ここから近いのは」

「農具を扱っている第三支店ですね……」

「そこに人を集めておいてくれ」


 小声で交わすやり取り。前方に待ち伏せをしているのはある程度鍛えられた存在だろう。重量感のある足音の割に息遣いは非常に静かで暗殺の機を窺っている。


「……俺が走り出したら続け。足を潰す」

「畏まりました」


 亜美は懐に忍ばせている連射式の銃を握り、発砲可能状態にして壱心に目配せを行う。速度を落とさずに歩きながら壱心は小さく頷いた。


 そして、唐突に走り出した。


「ッ! 香月壱心と見受ける! 天誅ッ!」


 隠れていた暗殺者たちが逃げられないように飛び出て来る。しかし、壱心はそれを見ても勢いを止めることなく接近した。


「オォオォォォッ!」


 咆哮を上げる暗殺者。抜刀した白刃がか細い月明りの光を反射させる。だが、その咆哮を掻き消すかのように一発の銃声が鳴り響いた。


「がっ……」


 壱心と並走していた亜美からの銃撃だった。腰の辺りを狙い、撃ったその一撃は男の大腿部に見事命中し、男はもんどりうって地面に転がる。


「うわっ、この……!」


 それに足を取られて転倒しそうになるもう一人の暗殺者。体勢を立て直す。だがしかし、その時には既にもう遅かった。


「ギャア゛ッ!」


 すれ違いざまに壱心の小太刀が脹脛ふくらはぎを切り裂く。機動力を著しくそがれた彼らを尻目に壱心たちは前へと走り抜けた。


「逃がすな!」


 後ろから大声が聞こえる。やはり、物取りの類にしては様子がおかしい。


「亜美!」

「失礼いたします」


 事前に言いつけたことを守り、道なき道を全力で駆け抜けていく亜美。今の壱心には出来ない立体的な移動だ。壱心はただまっすぐ走る。それだけで後ろとの距離は開いていく。


 ……何事もなければ。


「……ッ!?」


 逃げ続け、少数ながらガス灯が立てられるような区域に達した壱心。この辺りからは多少の小金を持つ人々が住む場所だ。相手のテリトリーから逃れられた。だというのに、壱心は背筋に冷たいのものを流し込まれたかのような気配を感じた。


 壱心はその直感に従い、灯の点いていないガス灯の前で急停止する。


 そこにいたのは女性……ではない。装束や姿顔立ちは女性。だが、頼りない光源しかなくとも壱心の目は誤魔化せない。目の前の小柄な人間は、男だ。

 だが、何より壱心の注意を引くのは相手の最大の特徴……帯刀。今、壱心の警戒は後方ではなく前方に集中していた。


「……何用だ」

「あァ、気付かれたんですねェ……流石。じゃ、このまま行きましょか」


 壱心の問いかけに軽く応じて近寄って来る男。この場にそぐわぬあまりに日常的な動作。だから、壱心は僅かに反応を遅らせてしまった。


「ッ!」

「おや……珍しい」


 高速の居合。しかも、片手で行われた普通と異なる抜刀。低空逆袈裟斬りのそれに壱心は辛うじて反応することが出来た。だから、絶命は免れた。しかし、脇腹に必要のない切り込みが入ってしまう。


(傷はまだ浅い方だ……だが、厄介なことに……!)


 壱心の脳は目まぐるしく状況の打破に向けて動き出す。まずは目前の男の撃退。刀を振り抜いて隙だらけの身体に小太刀を振り下ろす。それを冷静に見ていた男は回避が間に合わないと見ると左手を小太刀に差し出した。鮮血が舞う。代わりに彼もまた、生存して距離を得た。


 明らかに熟練の剣士。しかし、型にはない動きだ。それでも壱心は相手の正体に心当たりがあった。


「……河上さん、あんた何か俺に恨みが?」


 答えはない。幕末四大人斬りと称される彼……河上彦斎は何も言わずにただ低い姿勢になると腰を落とし、特徴的な構えを取って壱心を睨みつけた。



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