明治六年の政変
1873年も秋が深まり始めた頃。福岡の情勢は一段落ついたと壱心が思える状況になった頃に彼は咲を伴って東京府へとやって来ていた。
今回の用件は岩倉使節団が戻って来てからの初会合だ。今後の日本の方針を決めるという大事な会議であるため、壱心が不参加という訳にはいかない。
しかし、途中で京都に寄ったため壱心の到着は割とギリギリだった。会合の当日の午前に着いた壱心と咲はすぐに旧藩邸が並ぶ屋敷に案内される。そこで、案内人がいなくなってから咲が一言。
「何ですかこれ……」
これが咲の様変わりしてしまった旗本達がいた区域を見ての感想だった。彼女がそう思うのも仕方ない。当該の区域は緑色か茶色に覆われていたのだから。壱心が詳しく見たところ、それが枯れそうな桑であることがわかる。
「……まぁ、明らかに失敗してるな。旧福岡藩の屋敷は黒田様の義理立てでこちらから金出して手入れしてるが」
周辺にある桑の内、無事だった物から取った葉で作った桑茶を飲みながら壱心は呑気に外を眺める。彼らがいる大名屋敷街でも管理する者がいない場所は荒れ放題だった。それをどうにかするために取り急ぎ、日本の主力輸出品である生糸と茶の原料として両取り出来る桑を植えたのだろう。
(しっかし、土壌の改善とか考えないんだな……余計な口出しをすると面倒ごとに巻き込まれそうだから何も言わんが……)
この光景は史実通りであり、別に放っておいても何とかなるはずであるため放置しておく壱心。それよりも、彼はこれから旧主君である黒田邸へと向かわなければならないのだ。黒田邸でやることは特にないが、そこに顔出しをしなければ背後が危うくなる可能性が高まってしまうのだ。結果を出している壱心だが、その地位は盤石ではない。旧藩主を慕う者、旧態を望む者、そして何より現状を疎ましく思う者たちは常に今の重すぎる頭を斬り落とす切っ掛けを探っている。彼らからすれば旧藩主の決起という大義名分は垂涎の的なのだ。
だから壱心はそれを逆手に取る。東京に来た本命の理由である午後からの会合に旧主君である黒田と友好的な態度で共に向かうことが出来れば背後を探る者たちが外から協力を得辛くなる。加えて、壱心が黒田家自体と友好関係さえ結んでおけば反体制派の大義名分は崩れ落ちる。いくら担ぎ手がいたとしてとも神輿が自らそれを望まなければ担ぎ手は何も出来ないのだ。
また、岩倉使節団と合流してこちらに戻って来る明治初期時点から才能があると見做されて海外送りにされていた福岡藩の同胞たちにも円満に事が済んでいるとアピールすることが出来る。
だからこそ、壱心はここで不安定な地元を離れる期間を伸ばしてでも活動をする必要があった。
(正直、着いてすぐだから少しは休みたいところだが……まぁそうも言っていられまい。ここに到着するのが遅れた京での野暮用は俺の私用だからな……)
ある人物への顔繋ぎのために東京入りが遅れている壱心に時間はない。茶を飲む時間もそこそこに彼は移動を開始するのだった。
さて、壱心は思惑通りに黒田との友誼を結んで共に岩倉使節団たちが戻って来た会合に顔を出すことに成功する。旧主君と共に歩くという行為だが、別に壱心が礼を失していると言う事もない。和やかに会話をしながらの移動だ。
黒田としてはかつての自分の地位を取られた形になる。とはいえ、謀反された訳でもなく自分の失策の所為での交代であり、壱心には自分の尻拭いをさせているということを理解しているので特に恨みを抱いているということもない。
どちらかと言えば既に故人となってしまった加藤と共に壱心に責任を押し付けた側であるため、人を使う側の人間でありながら僅かな罪悪感すら覚えている。
また、実利的なことを言うのであれば、黒田側として壱心の義理立ての援助金がかなり大きいものであり立場としても新政府でそれなりに金とコネで権力を弄べる地位にあるため無理して戻ろうとも思わないのだ。
そんな利害の一致で元福岡藩の面々は仲良く会合に臨んでいるというのに周囲は既に空気がひりついていた。
特に空気が重いのは薩摩の面々だった。その空気の中心となっているのが大久保利通、そして西郷隆盛の二人。
(巻き込まれませんように……)
手紙のやり取りによって西郷に準備をさせ、期待を高めるだけ高めておいた男はそんな呑気なことを思いながら黒田と談笑を続ける。流石に西郷や大久保と言えども福岡藩という大藩の旧藩主であり、彼らの主家にあたる島津家と深く血縁関係を結んでいる黒田という名家との会話に割って入るようなことはしない。こちらに目を向けた素振りはあっても機を窺うような視線を向けるだけで声をかけてはこなかった。
ただ、どう聞いてもどう考えても征韓論の話をしており、壱心も無関係ではないのだ……が、知ったことではないと開き直っていた。
(冗談はさておき、今回の会合では西欧との技術水準の差について認識した渡米団の富国論についての話、それから史実とは違う流れになったはずの交渉結果、それらが中心になってほしいんだが……)
黒田と呑気に話を続けながら向けられる視線を回避する壱心。流石に黒田も状況は理解しているので話を切ろうとしているのだが壱心がそれを阻止している。壱心はあちらに行きたくないのだ。そのため、福岡から産業視察のために送られた海外派遣組をダシに黒田と会話を続けている。
「おーおー壱心くん! ここにおったんか! さ、こっちに来て話そうか!」
「はい?」
だが、そこに乱入者が現れた。その声は壱心にとって非常に聞き覚えのあるものだが……敢えてすっ呆ける。だが、声に反応して振り返る前に壱心は既に逃げられない覚悟をしていた。
そこにいたのは想定通りの人物。
「こっちは温かいのぉ! 蝦夷ん地は寒かったぞ! ま、積もる話は後じゃ後。酒の席でな! それよりも今は大陸についてじゃな! 皆の前であの話をまた聞かせてくれるか! ランドパワーとシーパワー! 儂から説明しようとも思ったんじゃが、説明する間にもどうも疑問が生まれての。聞いた話じゃまだ西郷殿には話とらんのじゃろ? ついででいい!」
飄々とした態度で近況を述べるのは北海道と化した蝦夷の地よりやって来た坂本龍馬、その人だった。だが、その口調は明るいがその目を爛々とさせて薩摩だけではなく新政府の首脳部が集まり始めた場を見据えている。
そんな坂本の視線を辿った壱心だが……心底、そこに行きたくなかった。
「……あぁ、あの話か。壱心、行くといい」
だが即座に主命が下る。「ランドパワー」、「シーパワー」と聞いてすぐにピンと来たらしい黒田は壱心に移動と首脳部との会話を促して別の福岡藩士との会話に移ってしまったのだ。これらの言葉はそもそもこの時代の日本に存在しない地政学の用語。だが、地政学について壱心は過去に加藤司書と共に旧藩主親子へと伝えてあり、簡単な内容は既に黒田も理解している。そしてその思想の出自が不明であることの理解も、だ。
それは兎も角として、話は会合室に戻る。そこには会話の輪から外れたことで各方面から視線を向けられる壱心の姿があった。
「畏まりました……」
マハンが提唱した地政学の用語を引っ提げて坂本と共に熱源に向かう壱心。これから壱心が話す地政学の考えでは日本はシーパワーを最大限に活かしてイギリスの様な立ち回りを目指すべきである。
(……あーあ。火に油を注ぎに行くのか……)
そしてその考えからすれば、強大なランドパワーを持ち合わせるロシアと清国に自ら接近する征韓論は大反対だ。当然、国内統治を優先する穏健派の意見になってしまう。
(西郷さんの目が光るなぁ……これは明治六年の政変は避けられんな。仕方がないから乗っかることにするが……)
散々西郷と意見交換をしておきながら結局はこうなってしまうという点で西郷に時間稼ぎがバレてしまう。それを覚悟した上で壱心は半ば仕方ない態を装いつつ、この国を左右する重鎮たちに地政学の基礎を伝える機を逃さぬように迅速に行動に移るのだった。
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