黒い思惑

 明治六年、七月。


 福岡城、そして周辺の町が活気に溢れている中で壱心は桜、そして亜美と共に米の備蓄担当である屋稲の根城と化した倉庫へとやって来ていた。


「あぁ……また米がどんどんなくなる……」

「屋稲。この調子を見るとどうやら成功してるみたいだな」


 案内人に導かれて蔵の主の下へと来た壱心一行。彼らが見たのは失意に暮れる男の姿だった。彼こそがこの蔵の主、屋稲だ。彼は壱心の姿に気付くと咳払いをして声を整えた。


「んっ、ん……これは香月閣下。はい、喜んでいいのか悪いのか、備蓄米はとんでもない安値で県内各地の炭鉱夫のところに飛んでいます……」

「配る側としては喜んでいるところが……備蓄係としてはこれからもっと頑張ってもらわないとな。集めるのがお前の仕事だ」


 何とも言えない情けない顔で屋稲は壱心の声掛けに応じていた。倉庫内を見るとかつて政府の払い下げや農業改革によって積み上げられ、所せましとあった米俵が今や張りぼてのように薄っぺらく積み上げられている。

 それを受けての壱心の言葉。だが、屋稲はその言葉を備蓄米の減少が激しいことに対する嫌味と取ったのか反抗するように言い返した。


「それがですよ! 明らかに、明らかに米が変なところにまで回ってるんです!」

「だろうな。まぁ炭鉱で働かせるために各地からの流入を許してるから仕方ない」


 必死の抗議も簡単に受けられて屋稲の意気は消沈してしまう。


「……知ってたんですか」

「あぁ。それも含めて頑張れ」


 あまりに端的な結論。屋稲は反撃の隙すら与えられなかった。こんな感じで屋稲相手だと壱心はかなりサドっ気を出していた。打てば響くというのか、屋稲の反応が壱心にとっては一々面白いのだ。

 そのせいで屋稲は苦労しているのだが。壱心の話を受けた屋稲は項垂れ、肩を落として返事をする。


「……わかりました。わかりましたよ。はぁ……」

「因みに来年辺りは別要因で米価上がりそうだ。あまり詳しくは言えんが」

「ぬぁああぁあぁあっ!」


 雄叫びを上げる屋稲。このままのペースであれば難しい顔をしているだけでギリギリ何とか出来そうだという公算がついていたのだろう。

 しかし、そうは問屋が卸さない。

 来年には佐賀の乱を始めとする戦、そして台湾出兵という大イベントが迫っているのだ。前者はどうなるか知らないが、後者に関しては壱心の方でも処理を進めている。


 因みに今話から少し道が逸れてしまうがその台湾出兵は史実と異なるタイミングで設置されている第六軍管の第十三師管……つまり、九州北部を統括している軍部の偉い人に任命された安川新兵衛が参加させられることが決定していたりする。


 そんな感じで壱心の親友のご飯を確保するために屋稲は酷使されていた。表向きは難しい顔をしながら手抜きしようと考えていた屋稲は苦しみ始める。


「くっ……閣下、だったら救貧院でしたっけ? アレ止めましょう。そしたらまだ何とか……」


 ロンドンに渡っていた安川から仕入れた情報という名目で設置した救貧院。それは県民の内、やむを得ない事情で貧しい者たちに施しを与える……という表向きで人を集め、何度かの適性検査を行って職業訓練と教育を受けさせる機関だ。

 その救貧院だが、表向きの話を守る為にそれなりに炊き出しを行っているため、持って行かれる側の屋稲にとっては結構な負担になっているのだ。それが故に行った申告だが、壱心はにべもなくこう告げる。


「ダメだ。頑張れ。お前なら出来るだろ?」


 肩を落とす屋稲。だが、壱心にとって救貧院はまだその真価を発揮していない。これでは只飯を食わせただけになってしまう。そう言う訳で壱心は屋稲の案を即座に却下した。しかし裏事情を知らない屋稲はそれを受けて悲鳴を上げる。


「僕には何もないところから米を生み出す力はないんですよ!」

「あ? だが前に」

「あぁあぁぁあぁあぁっ! もう! またその話を! その節はどうも大変申し訳ございませんでした! これでいいですか!?」


 過去に行った帳面上の数字操作の話をほじくり返されそうになった屋稲は壱心の声に被せてくる。ただ、その話で無理矢理に屋稲を動かさなくともこの問題は彼が奔走して交渉すれば可能な範囲だと壱心は認識していた。

 何せ、多くの消費者がこの場所から米を買い漁っている以上、他の場所では米が売れていないのだから。そして屋稲はそこにつけ込んで話をつけるだけの交渉術がある。


 彼は……正直に言ってただ楽をしたがっているだけだった。出来ないのではなく、やりたくないだけ。そんな彼を叩いて直すのが壱心にとって執務の息抜きだったりする。


「……壱心様、楽しそうですね」

「あの人の時だけですよ……やはり、衆道の気があるのでは。可愛らしい顔をしてますし」


 そんな壱心と屋稲のやり取りを桜と亜美は遠い目で眺めていた。壱心曰く、マダムキラーである屋稲の童顔は下手をすれば女性にも見える。外見として屈強な壱心と繊細な屋稲。この組み合わせは変な方面から妙な人気があったりする。


 それは兎も角として、蔵の貯蔵具合を見た桜は静かに考える。今回の干害に際して壱心が行った策についてだ。自身も手を加えたとはいえ殆ど壱心が考えた今回の一件は桜の知らない言葉が幾つも織り込まれていた。


(「まーけてぃんぐ」に「しぇあ」ですか……それから「すぱいと行為」。どれも私が知らない言葉ですね……舶来の言葉でしょうか? しかし、転んでもただは起きないその姿勢……うふふ。楽しいですね……)


 マーケティングにシェア拡大。ただ目先の利を獲得するだけではない壱心の姿勢に桜は驚いていた。同じく計画に関わっていた屋稲は最後まで反対だったが、壱心からやれと言われたらそれまでだ。この一件で首を切られないことを念書に認めて実行に移していた。

 このマーケティング、民衆が困っている時に特別価格で米を放出したという事実は今後のブランドに影響する。過去、安値で売っていたではないかという事実から今後の値上げに文句が出るかもしれないが事前に特別価格として銘打っていたことや壱心のネームブランド、そして今後の取引のことを考えると強気に出れないことからその可能性は低い。

 仮に、そうなったとしてもそれを押し潰すことが出来るだけの権力を壱心は持ち合わせている。特に問題はない。

 そしてもう一つ。安値販売と同時に行っている日時記入のスタンプ方式の割引券によって顧客情報を獲得しつつ、それを基に安売りの時期を限定することで顧客の心理に働きかける。


 こんな盛大な社会実験を壱心は行おうとしていた。


 しかし、これらのマーケティング実験ですらあくまで副次的な作用。壱心の本命はスパイト行為……それから壱心が語っていない『ウチとソト』の心理だ。

 スパイト行為は自分だけが損をしたくないという、日本人によく見られる心理が引き起こす行動。そして『ウチとソト』の心理は自分の立ち位置を内集団と外集団に分類する心理で、集団であればどこにでも存在するが個人差以上に文化による差が大きくあるものだ。


 スパイト行為が現実に生み出す行動は自分の得を上げるか他者の得を下げるか。完全な合理主義的思考で考えれば他者の得を落としたところで自らの利には繋がらないのだが、遥か未来で行われた実験では自らの利益を削ってでも他者の大幅な得を阻止するという結果が出ている。

 これを利用して壱心は村人間むらびとかんの団結を崩しにかかった。全体で損をひっくり返すために蜂起させるのではなく、ある程度力のある連中は得できる環境を作ったのだ。その力のある集団が確実に手に出来る既得権を守るためにそれより弱い者たちが結束して行う蜂起を抑える。それを見込んでのことだ。壱心としては軍を動かすよりもはるかに効率的な資源の使い方だと考えている。

 二つ目に使ったのが日本人が持つ『ウチとソト』の心理。これは日本人の場合、自身が所属しており、相手のことを知っている『ウチ』と自分の知らない『ソト』に分ける心理となる。

 日本人の場合、その知っている相手である『ウチ』に対しては寛容的であり、多少の協力であればすんなりと受け入れる。『ウチ』には本当の意味での身内の外に、職場や出身、居住地など様々な『ウチ』があるが、その『ウチ』に所属している者や『ウチ』自体が『ソト』から攻撃を受けると自身も同じくして防衛態勢に入るというのが特徴だ。

 

 これを壱心は利用した。要するに、彼らの所属ウチの上役に自分がいるという意識を植え付け、知っている人になるように存在感を示したのだ。米の安売りや炭鉱の昇給はそのための撒き餌に過ぎない。


 この行為に成功した壱心は労せずしてウチを守ろうとする従業員たち……もとい民衆によって事前に反乱の芽を摘むことに成功する。


 また、その他にも炭鉱と安い米のバラ撒き、救貧院の設置で最貧困層を呼び込むことで一般民衆に大義名分を与えないこと。同時にその層に落ちるのは避けたいと思わせるように誘導までしておいた。


 その他にも壱心は流言などを用いて様々な手は打ったが、大きくはこれらの結果と雷雲仙人の齎した降雨。そして、早良製糸場や釜惣と利三の商店の恩恵によって経済に一定の余裕を与えつつ人心掌握を行うことに成功した壱心の下では筑前竹槍一揆と呼ばれる大一揆は現実に起こらず、筑前小一揆としか呼べない小さな反発を生み出すだけで済んだのだった。


 ―――ただ、その裏で更にドス黒い、欲望と言う思考に侵された者たちの恨みを買うことになるが。


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