上山田村人衆
明治六年。西暦で1873年になるこの年の梅雨。列島各地で民衆が不況、また不作に耐えかねて一揆が起きている最中。九州地方でも民衆に追い打ちをかけるように干害が襲来する……
……はずだった。
「……これはどういうことだ?」
壱心の呟きは降り注ぐ雨音と人々の歓声の中に溶けていく。九州の雨の質としては土砂降りと言える程ではないこの雨。これは彼の知る歴史には存在しないはずの雨だった。
「やっぱり雷雲仙人のお蔭やな! 頼んでよかったわ!」「そうやね。雷山に雲がかかると雨とは言ったもんやん」「いや、でも夏なのに寒いっちゃけどそれはどうすっと?」「は? 雨降らんかったらそれどころじゃないやん。いいけんやることやろー」
雷雲仙人とかいう存在から渡されたらしい石を祀っていた雨乞いの祭壇を囲んでいた民たちは雨に濡れながら喜びを分かち合っている。自身の巨躯から自然に漏れる気配を最大限に隠してお忍びとして見守っていた壱心は取り残されたままだ。
(雷雲仙人、か……そんな伝説があったのか。流石に地方の細かい話は分からん。個人的には早良製糸場が出来て最大限に稼働させてるからその煙と蒸気が影響している気がするが……)
雨の中で静かに壱心は考える。この雷山仙人という存在が雷山周辺に出没しては雨を呼んでいるという噂が城下町まで届いていたため、不穏分子ではないかと足を運んでいたのだが、まさかの本物の仙人のようだった。
しかし、壱心はだからどうしたという気分だった。一応、神道を推し進めている新政府との兼ね合いから宗教問題に発展しないように調査は行うが、干害については一時の雨で何とかなるほど干害は甘くないからだ。
しかも現状の調査ではその雷雲仙人に出会うことは難しく、彼がどこかに肩入れしたという話も届いていない。同じ場所に手を貸さないということらしい。
(雷雲仙人というのがどういうのかは知らんが……冷夏と水不足。九州全土を襲う災害はこの程度では止まらない。金を取る以上、真に必要としている困窮した民衆たちには行き渡らないからな……一揆は起こり得る。そして、それに対応するための
果たして、民衆には残念なことだが後続となる雨はなかった。しかしこの微かな
各地に局所的ながら、史実と異なる天候をもたらした仙人の奇跡の現場を壱心が目撃し、雷雲仙人という存在について再調査を命じてからしばらくして。
史実の筑前大一揆の発端となる福岡の嘉麻郡にある日吉神社では史実と同じ様に雨乞いが行われていた。
「あー……腹減った。みんな一生懸命お祈りしとーとに雨の一つも降らんとか……こんなん絶対お上が罰かぶれなことばっかしとーせいやろ」
村役たちが雨乞いに出かけている最中、少し離れた高所より青年がぼやく。神仏分離令による廃仏毀釈を嘆いている彼は山田実といった。尤も、彼自身はこれらの条例の名前も知らなければ何が起きているのかも噂以上の事は知らないが。
彼はこの時代における普通の農民で、嘉麻群の東側に位置する上山田村を拠点として農業を営む小柄な男だった。
そんな彼が上を見ると空は嫌と言う程の晴れ。下を見れば田植えの時期を過ぎたというのに水すら張っていない田んぼが目に入る。
(……この時期にこんなんじゃ、やっぱ今年はダメかな……去年の分で何とか繋ぐしかない……)
昨年が豊作だっただけマシか。そう考える山田。尤も、今年から金納制という何だかよく分からないものが始まるということで、訳も分からないまま米を売って金に変えた所為であまり米は残ってないが。
(あんま分からんっちゃけど、去年が豊作やったし多分安く買い叩かれたんやろうなぁ……今年も大丈夫やろと思って売らなきゃよかった)
後悔が山田を襲う。そんな彼の背後から声がかけられた。
「おい、そんなとこで何しよーと?」
「あ、茂兵衛やん。いや、田んぼがこれやけんがやることなくてさ……」
実が振り返ってみるとそこには彼と同郷の住人である上山茂兵衛がいた。自嘲気に自分の行動を語りつつ自分より大柄な茂兵衛の姿を観察してみると、彼は今からどこかに出かけるようだ。暇そうにしている自分を見て彼はその行先を告げた。
「……やったら炭鉱行く? 俺は今から行くとこやけど」
「いや、俺にはキツいやろ……茂兵衛みたいに体力あったらいいやろーけど」
どうやらこの気候を見かねた彼は農作業に見切りをつけて出稼ぎに行くようだ。江戸の頃より製塩のために石炭を求め炭鉱を切り拓いて来た筑豊の民であればそう珍しいことではない。
しかし、炭鉱の危険さを齧る程度には理解していた実は炭鉱に行くことを避けていた。勿論、そのまま言えば角が立つ。そのため実は自身の小柄さを理由とし、力がないということを自虐して常の言い訳としていた。
そんな実のことを慮ってか、茂兵衛の方から提案がある。
「それがくさ、俺が行くとこって香月様がやっとーところっちゃん。そこやったら色々あるけんがお前でも普通に仕事あると思うよ。紹介してやろーか?」
「……まぁ、考えとく」
普段であればもう少し上手い話の逸らし方が出来たのだろうが、空腹の実は余計なリアクションをすることもせずに乗り気でない態度をそのまま出してしまった。
この態度に少し茂兵衛にも気付くところがあったようだが、彼はその微妙な空気に気付いていないふりをして職場に向かうことにしたようだ。
そんなところにまた別の人物が現れる。
「茂兵衛。お前も今から行くと?」
「お、彦一やん。そーよ」
実と同じく当時の日本人としてもやや小柄なその姿は彼らと同郷の田村彦一の物だった。彼の格好を見ると茂兵衛と同じであり、これから出稼ぎに向かっているのが分かる。少し嫌な奴が来たと思う実をさておき、炭鉱組は話し始めた。
「で、何やっとーと?」
「実の愚痴聞いてやっとーったい」
「ふーん……何て言いよーとこいつ?」
「田んぼがあれやけんがやることない。で、腹減ったってさ」
肩を竦めて眼下の田んぼを指す茂兵衛。その話を聞いていた彦一は呆れたように言った。
「馬鹿やん。こうなりそうなのはおてんとさん見とけば分かっとったやろ。そんなに空見ても何も変わらん。暇しとー時間あるなら働いたらいっちゃない? 何なら炭鉱連れてっちゃろーか?」
「炭鉱炭鉱って、お前ら嫌がっとったやん。何を急に……それに俺にはキツいけん無理やろ……その前に腹減ってぶっ倒れると思うよ」
仲間内の冗談染みた話のつもりが、思ってたよりも深刻な感じで返してくる実。彦一は呆れから来る半笑いの表情を一転させて心配そうにした。そして彼は少し悩みつつ尋ねる。
「……そんな腹減っとーと? ……そんな余っとー訳じゃないけど、後で返すなら米やろーか? それでちょっと落ち着かせて、出稼ぎに来たら? やれることなら用意されとーけんが……」
「いやいいよ。それより今から行ってくるっちゃろ? 遅れたらあれやん……」
炭鉱に誘われることを警戒して実は表情こそ半笑いで食い気味に返す。しかし、空腹で頭の回っていない実はあまりにストレート過ぎる態度を示し過ぎていた。
その態度は、善意の申し出を行った彦一の癇に障ってしまう。だが、それを飲み込んで彦一は続けた。
「じゃー分かった。来んなら来んでいい。それはそれで別にすぐに返せんでもいいけんが米貸しちゃる。困っとーっちゃろ?」
「え? でも、そっちもキツかろ? もうすぐ子ども生まれるとか……」
思ってもみない提案に実は飛びつきそうになる。だが、彦一の家も大変であることは村社会に住まう彼らからすれば当然知っていることだ。躊躇う実だが、彦一は言い切った。
「いいったい。俺らが行っとーとこならお前ん
嘘には聞こえない。地獄に舞い降りた蜘蛛の糸に彼はすぐに飛びついた。
「いーと? ……ホントに?」
「
「ありがとう! 絶対返すけん!」
喜ぶ実。彦一は軽く目を閉じ、少し気難しい顔をしながら頷いた。その隣で彦一以上に顔を難しいものにしている茂兵衛が呟く。
「……普通断るやろ。彦一んところどんだけ大変と思っとーとやこいつ……しかも炭鉱には行かんし、お天道様見上げるだけで他に何かやる気もなさそうやし……」
その呟きは明らかに聞こえるように言ったものだった。実の喜びも一瞬でしおれてしまう。そして彼は言い訳がましく口の中をもごもごさせた。
「いや、俺にも力があったらなぁ……」
「やけんが、
大分苛立っている様子の茂兵衛。実は後ろめたさから目を逸らしつつ口の中で言葉を転がす。
「……殿様が罰
実の言葉は最後まで言えなかった。その前に茂兵衛が彼の胸倉を掴みあげて宙に浮かしたのだ。体格差のある以上、実は碌に抵抗できないまま宙でもがく。
「あ。おい茂兵衛」
「……彦一、お前、先行っとって。すぐ追いつくけん」
彦一に咎められて茂兵衛は実を地面に解放する。実は混乱したまま対応に遅れるが、茂兵衛は静かに彦一にこの場から離れるように促す。しかし彦一はそれを拒否した。
「やり過ぎたい馬鹿。
「……もう大丈夫やけん。お前は、家族がおるっちゃけんが遅れて金損しちゃいかんやろーが。しかもこんなろくでなしに変な約束までしたっちゃけん」
しばし見合う二人。彦一は茂兵衛の言う事がある程度正鵠を得ていることを理解した前提の下、仮に茂兵衛が暴れた場合には自分と実の二人掛りでも止められないだろうという予測を立ててその場を離れることに決めた。
その後姿を見て茂兵衛は溜息をついた。
「あー……本当に大丈夫ってのに。村に知らせに言ったなあれ……こんなののために彦一は偉いわホント。で、おい実。そんなに身構えんでももう何もせんよ。ただお前、まさか本当に彦一から借りるつもりじゃないやろーな? そこまで腐っとらんやろ?」
「
その言葉に茂兵衛は再び激情に駆られそうになる。だが、彦一にああ言った手前一つ大きく息を吸い込んでそれを呑みこみ、そして大きく息と共に吐き出した。
「お前何なん? バカやないと? いや、馬鹿やろ。キツいって何? お前、いっつも怠けとーだけで何もしとらんやん」
「は?
まくしたてる勢いの茂兵衛に実は引き気味ながらも応戦する。そんな彼へ出来の悪い生徒に説明するように茂兵衛は言った。
「お前さぁ、お上が悪いお上が悪いばっかり言って
「……それは、その」
その辺には後ろめたさがないわけではない。喧嘩口調だった声音も自然と小さくなってしまう。しかし茂兵衛は止まらない。
「そのじゃないったい! お前いっつも誰かの所為にして何もせんやん! こっちはお前が言っとるその悪いお上さんから道具借りてから何とか時間作って炭鉱とか行って稼いどーとにさ。知っとーか? 殿様の炭鉱やったら真面目に働いたら米が安く買える場所に入れる紙が貰えるったい。しかも、真面目に続けとけば更に安くなる! やけんお前以外はみんな頑張っとーとよ!」
「そんなん知らんし」
(いつからお前は商人の真似事始めたと? そんな呼び込みみたいなことして)
内心で反抗しつつ不貞腐れたようにそう告げる実。その態度がまたも茂兵衛の癇に障る。
「聞いとらんけんやん! お前さ、炭鉱の話が来たらすぐ逃げるよね? 俺たちが気付いとらんとでも思っとったと? 別にお前がやらんで損するのはいいけどそれで彦一にまで迷惑かける気やのにその態度なんなん? てれーっとしとー暇があったら働け!」
「おい! 茂兵衛! お前何しとるとや!」
茂兵衛の怒りが聞こえたのか遠くから村人の声がする。恐らくは彦一が呼んだ村の誰かだろう。途中で怒りを遮られた茂兵衛は憤懣やるかたなく実に背を向けつつ吐き捨てるように言う。
「何がお上に責任取らせるや。バカやないと? そんなん通ったら俺らの給料とか米はどうなると? 真面目にやっとー方が馬鹿みるやん。ふざけんな」
そのまま実の方を見ることもなく炭鉱へと向かう茂兵衛。雨乞いをしていた村の重役から何事かと尋ねられる実。しかし彼はその負い目から結局、何も語ることは出来なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます