明治六年

 1873年、元号では明治六年となるこの年。史実では1月より徴兵令が出されており本世界線においてもその内容、時期共にほとんど変わらず公布されていた。

 これは簡単に言うのであれば満二十歳以上の男子を対象とした三年以上の兵役。免役規定として戸主、嗣子、官吏、学生、代人料270円(現在の価値で約600万円)を支払った者がいるが、それ以外は史実通りに徴兵される。この法令の主な対象は農村の次男以下だった。

 この内容について、壱心が触れることも出来たのだが彼が触れたのは血税と言う名前を回避する事、その一点のみ。理由は色々とあるが、大きなものとしては彼が今後を予想するにあたって思考の根幹となる史実から大きく外れた道を行ってほしくないことが挙げられる。


 そんな、日本を変える出来事である法令が公布されることで始まった一年だが、壱心にとっても激動の一年となる予定の年だった。その理由は大きく二つ。


 まず一つ目が六月に起こり、史実では筑前全域を舞台として二週間に及ぶことになる筑前竹槍一揆。これまで明治政府が行って来た急速で強引な改革に対する不満が爆発する事件だ。


 史実の経緯ではこの世界線よりも狭い範囲の福岡県の嘉麻郡・日吉神社(現在の飯塚市庄内町)で雨乞いをしていた人々が金国山で米相場を利用し、操作して儲けようとする「目取り」の合図を目撃したことを発端とする。

 梅雨時、田植えの時期であるというのに全く雨が降らないという異常気象。田んぼにひびが入る程の乾燥した環境は民衆の怒りの炎も簡単に燃え上がらせた。

 その炎は凄まじく、瞬く間に筑前全域にまで広がることになる。史実では壱心が福岡知藩事に就任した時にも述べた通り、福岡県のみでその一揆を収束することは不可能だった。

 各地で庄屋などの村役の家や豪商の邸宅が襲撃され、県としても福岡城へと討ち入られて官舎を焼かれ、県庁を打ち壊される状況に陥って政府による陸海軍の出動を要請することになる。


 壱心にこの問題へ対処する直接的な策はない。事前の段階で直接的に解決するには天候を変えるしかないからだ。相手は大自然。壱心に出来るのは間接的な対処として民衆の怒りの向きをずらすことくらいだ。この策については目下、備蓄米などの管理を任せている屋稲……それから最近、薫風堂にて頭角を現している桜と共謀して手を打っている最中だ。


 そして二つ目の問題。これは明治六年という時が示す出来事。明治六年の政変という事件だ。こちらも避けようがない問題になりつつある。

 昨年、リゼンドルが来日して行った大陸進出論の演説は結果として史実より影響が薄いということでいいだろうというのが壱心の見方だ。板垣ら、過激派は止まる気はないだろうが大村と壱心が止めている限りそう簡単には動けない。

 加えて、岩倉使節団からの手紙も史実通りの国内優先論に流れている。国の方針として征韓論は止められるだろう。そうなれば反対派が史実通りの動きをする。


 それは別に良かった。寧ろ、反対派を追い出した方が新政府一丸となって動くには丁度いい。


 しかし、壱心にとっての面倒なことはこれだけではない。余計な問題として西郷との個人的な関りが出来てしまっているのが問題だった。リゼンドルの演説の際にあったあの小休憩の一幕が原因だ。あの場で面倒ごとを起こさないために西郷隆盛から頼まれた対韓交渉に対する一定の理解。壱心としては単に西郷がコネクションの一つとして、ある程度の働きかけを行ってくるという想定。


 だが、現実は違った。彼は今、壱心を動かすべく熱心に口説こうとしている。今もその手紙が届けられたところだ。政府重鎮のみならず、朝廷内にも大きな影響力を持つ西郷と妙な関係になれば色んなしがらみが出来てしまう。壱心としてはそれは避けたかった。


 そんなことを脳裏に過らせながら壱心は西郷から届けられた手紙に目を向ける。


(さて、今回の内容は……『萬国公法』のせいでステップを一つ飛ばされたな……じゃあ今度の誤魔化しとしては朝鮮が鎖国を続ける理由、華夷秩序……は寧ろ熱を入れてしまうか……じゃあ何を……いや、釜惣からの報告があるから後でにしようか……)


 西郷から届けられた手紙はいつも通り朝鮮との交渉についてだった。だが、返事として行う予定だった内容を先取りされてしまっている。そのため壱心は次の返信に詰まり一旦それを仕舞うことに決めた。


(はぁ、面倒だな……もう適当に賛成してしまいたいがそれをやると方々からお声がかかる。特に、西郷さんにはまだ重大な役割があるから俺としても送りたくないしな……)


 溜息をつく壱心。西郷から届けられた手紙の内容は、要するに自分を朝鮮へ全権大使として送れというもの。そこから読み取れるのは自分西郷が行けば朝鮮は交渉に乗るという自負。恐らくは江戸城を無血で開城させたことを自身の根拠とするものだろう。

 これについて後の世での考察で自分が殺されることで対韓戦争の契機としようとしているのではないかというものもあるが、今の壱心が見る限りそんなものは微塵も感じさせていない。本気で自分が行って開国させる。その腹積もりらしい。


(……尤もそのつもりだからこそ、こちらの忠告や改善案に乗ってくれてるんだがな……忙しいのに手を取らざるを得んが、改善を重ねることで時間稼ぎは出来てるというのが現状か……)


 そんな腹積もりの西郷を相手にする壱心は微妙な面持ちで手紙の返事の内容に関しての箇条書きを認める。後で文面にして送るためのメモ書きだった。

 そのメモには相手の利になるが今は思いとどまらせる方向になるように、という形で文章を作るようにしている。こんな小細工、西郷に自らを殺させることで日本を動かすつもりがあれば意味はないだろう。

 だが、西郷は乗っかって来てくれるのだ。つまり、これを上手く使って成功させる意思があるということ。それを上手く利用して足止めしているのが現状となる。


 一先ずは今回もやり過ごすことはできる。そんなことを考えながら壱心は覚書を認めていた。そうしているとすぐに面会の時間が近付いてしまう。


(……面倒ごとはさっさと済ませるか。どうせ、今からのも楽しい話というわけではないしな……前の仕事を切り上げて面会を優先したというのも演出にはちょうどいい……)


 既に屋敷内で待機しているであろう今日の面会相手。彼がここに来た用件を想起しながら壱心は執務室を発ち、彼が待つ部屋へと向かうのだった。


 移動後、壱心は挨拶もそこそこに来客者から直接手渡された報告書を説明を受けつつ読み始める。だが、内容が途中まで行ったところで壱心はすぐに声を上げた。


「今のはどういうことだ?」


 既に春も終盤というのにまだ肌寒さを覚えさせる気候の中、壱心の呟きが閉じた室内に籠る。それにより、報告を持って来た男がびくりと肩を震わせた。その身体と同じく、彼は声まで震わせながら口を開く。


「あ、あの、当家といたしましても、今回の事態は止むを得ない事情がございまして……」


 彼は釜惣から派遣された番頭クラスの男だった。現代で言うならば執行役員とも言える位に位置する彼。しかも、現在破竹の勢いで急伸している釜惣の番頭だ。

 そんな彼が平身低頭で壱心に説明していること。それは釜惣の銀行業参入に関する報告だった。

 1872年に制定される国立銀行条例。それは紙幣の発行業務の一部を民間に預けるというものだ。具体的な条件に一定の資本金(下限として五万円……現在の価値で約四~五億円)を持つこと。そして、その資本金の六割を政府紙幣で上納(上納分の内、三分の二は正貨で払い込み)することで下付される同額の公債を政府に抵当として預り入れること。また、兌換準備も行うことが含まれている。


 因みに、この国立銀行条例を中心として作ったのが渋沢栄一で、同じく彼が国内初の銀行を設立している。

 その国内初という偉業を壱心がリークした情報を基にして内々で進めて来た釜惣が掻っ攫おうとしているのだ。

 だが、壱心の癇に障ったのは国内初を掻っ攫った点ではない。釜惣の史実が銀行の失敗による衰退であることからあれだけ避けるように言っておいたのに、黙って行動をしていたその事実だった。


「事業の核となる、化学の分野を利三様にお譲りしたことで、当家としても新たな柱が必要でして……」


 当然、怒られる予想はしていたのだろう。言い訳をつらつらと述べてくる。だがしかし、釜惣当主である瀬戸が出て来ない辺りにことの深刻さに対する理解の乖離が見られた。


「そうか。では、製糸業は核となるには不十分。そう言いたいわけか」


 敢えて威圧的な態度で番頭と接する壱心。彼らはまだ分かっていないのだ。銀行業というものがどれだけ危険であるかを。特に、内乱等によって信用というものが揺らぎ続けていでいるこの世情で、信用を扱う危険を彼らは全く理解していない。


「いえいえ、滅相もございません。ですが、当家といたしましても天下の香月様を縁の下で支えていきたい。そのためには地面を固めることが必要かと思いまして」


 この後も壱心が苦言を呈そうとも自己弁護を繰り返す番頭。どうやら手痛い目に遭わなければ分からないらしいと判断した壱心はこの件に関して、情報を提供した見返りを不要とする代わりに一切の手助けを行わないことで合意を得た。


 そして。


 この一件を契機として、壱心・利三の香月家と釜惣の当主である瀬戸家の間に溝が生まれ、疎遠になり始めるのだった。

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