貯蓄中
月日はあっという間に流れ、1872年が明けたと思えば時は既に同年の半ばを過ぎようとしていた。梅雨入り間近の福岡では一般民衆が政情不安や様々な不安要素に噂話の花を咲かせていた。
「今年も異常気象が来るのではないだろうか?」「雨乞いなら最近、雷山に降りて来たという仙人の祈祷がいいらしい。ただし、値が張るとのことだが」「そんな金がある奴はそれをそのまんまお上に収めるだろうよ」「仏さまを蔑ろにしている罰が当たってるんじゃ。この機にもっと信仰を……」「何でもいい。今年こそ不作でなければいいが……」
雑踏の中、聞こえるのは先行きを不安視する噂話ばかり。
それに対し、この県を治める壱心はそんな状況を理解して対策を打ち出そうとはしていた。だが、岩倉使節団が居ない間に国内情勢が動こうとしている現状。壱心へ東京にお呼びがかかっており、そちらにも目を向けなければならなかった。
(……正直、県下の情勢が不安定であまり長期間は離れたくはないが……ここは是が非でも動かなければならない場面だ……)
日頃、新政府内でもそれなりに重鎮扱いを受けていながら寄り付きもしない壱心だがこの場面は動かざるを得なかった。逆にこの期に及んでも動かなければ反感を買うことは間違いないだろう。尤も、そんな理由がなくとも彼はこの年には重い腰を上げていただろうが。
彼が動く理由。それがこれから壱心が向かう場所で行われる会議の内容だ。彼がこれから東京に入って参加するのはこの新生日本がアジア大陸に対してどのような方針を取るのか決めるための会議、その打ち合わせだ。
これまで新政府内でさんざん話し合われている内容。だが、今回は史実ではこの国のこれからを位置づける外交顧問となる男を外国から招き入れるにあたっての前段階。利権と言えば大陸という思考に執着するあまりに侵してしまった史実の失敗を避けるためには介入せざるを得ない。
(……一世一代の大舞台だな。失敗するとこの後がキツい……出来る限りのことはやったがどう転ぶか……)
これまでの自分の行動を想起する壱心。この会議の流れを左右するために壱心は現時点で打てるだけの手は幾つも打って来た。ここで海洋国家を印象付ければ彼の目標に大きく前進するからだ。具体的には根回しに恩の貸付、翻訳時に都合がいいように意訳を混ぜること、強硬勢力の排除。
(今回もリゼンドルが来た際には通訳に介入するが……今回は、英語も出来る側の人間が多くなること、あまり露骨にやると派閥ごとに裏で結託されること、考えれば考えるだけ面倒なことになる)
壱心としては今後のために藩閥は出来る限りなくす方向で動いてはいたが、史実通り新政府内には藩閥を意識する者が後を絶たない。特に壱心がいる福岡藩と薩摩藩では先の太政官札贋造の所為で仲が拗れているのが現状だ。
(はぁ……行く前から憂鬱だが、嘆いていても始まらん。取り敢えずは目の前の事がきちんとできているかどうかの確認だ……)
色々と考えることはあったが、一先ず壱心が行うのは目の前のデータの処理だ。ここには壱心が心血を注いできた各事業のデータが揃っている。壱心は東京へ出発する前にこれらの報告に問題ないかを確認しておきたかった。
まずは、壱心が今現在、私事の内で最も力を入れていると言ってもいい事業……早良製糸場で行われている生糸の生産だ。
(……ふむ、生産は安定したか。一応、品質上も問題なしという判定だ。目の前の問題は片付いた……そうなると、その先だな。芸娼妓解放令と前借金無効の通達で人員の方に目途はつくだろう。そろそろ打って出たいところだな……)
手元の産出量を見て壱心は頷く。現状の問題として処理している手元のデータは同時期に発足した官営富岡製糸場と比較する……には少し理解が追いつかない程に産出量が多く、同業者や関係者に相場荒らしと言われても仕方ないほどに生産をし続けている早良製糸場のデータがあった。
この異常な生産量については時代が進み、各人の研究の末に得られた技術を導入していることが理由になる。例としては蚕の人工孵化が大きなものだ。
日本に生息していた蚕は一化性(春に孵化して繭を作って羽化・産卵し、翌年の春に次の世代の生活環が始まる)といった種類であり、江戸から明治初期の時代にかけては殆どの地域で年に一度、春しか飼育できなかった。
しかし、時代が下るにつれて蚕の育成条件が詳しく分かり始める。江戸時代から明治時代にかけての期間で信州等で風穴を用いて秋蚕を始めるようになったことをヒントとして温度処理によって蚕の孵化をコントロール出来ることが判明。
大正以降は過熱塩酸処理などを駆使し、昭和初期に至る頃には夏から秋にかけての飼育量は自然の摂理に従って蚕が生まれるはずの春に生まれる量を超えるまでに至るのだ。
蚕が孵化して繭を作るまでの期間がほぼ一月程度であるのに対し、養蚕に必要な桑の葉が生い茂るのが四月から十月の間であることを考えると少なくともその期間はフルに原料を生産したいと考えるのは必然的なことだったであろう。この事業に携わった先人たちはその思考を現実に移すために知恵を振り絞ったのだ。
そして、それが現実に出来ると分かった時、餌が不足するということもなく生育することに問題がないというのに年に一度だけしか原料を生ませないというのは非効率なものだ。出来ることさえ分かっていれば誰でも実行する。
当然、種が分かっていたとしてもいきなりやって上手く行くものではない。その道のプロですら条件が異なれば実行は難しいのだ。いくら壱心が養蚕に必要な温度や湿度の条件を知っていたとしても所詮は素人。簡単に実現出来るほど現実は甘くない。
それに加えて技術には適正な時期と場所がある。正しい手法があるとしても実行できるかは別。例えば、過熱塩酸処理を行うのがいいと分かったとしてもこの時代から安定した塩酸処理と言われると原料的に考えても、一般作業員の習熟度的にも難しい。
ただでさえ蚕の生育にあたってこれまでの作業者がやってこなかった加熱処理や冷却処理という彼らにとっての未知の技術を入れ込んでいるのだからその辺の配慮は確実に必要になる。
だからこそ。そう、だからこそ壱心は幕末の頃……彼が記憶を取り戻した十年前から熱心に仕込んできた。いきなりが無理なことは分かっている。だから、壱心は試行錯誤を重ねてきた。その結果が、今の生産量に現れていた。
しかし、彼は自身の苦労を驕らない。独占して己が利にすることもしない。彼の頭にあるのはこれをどう広めてこの国を富ませるか。
(取り敢えず、成功しているから周囲に成功モデルとして情報展開は出来る。長野の方で群馬の風穴の面倒は見てもらうとしよう。幸い、既に彼らも隠しながら色々やってるはず。現地の環境が違う以上、すぐにどこもかしこも成功というわけにはいかないが、そういう手法があるということさえ知っていれば後は応用してもらうだけ……)
自身にも金が必要であるというのに飯の種をバラ撒く壱心。だが、何も考えていないわけではない。彼はまだ幾らでも改善の余地を残しているのだ。
例えば、生産技術。だが、これに関しては工場にまだお雇い外国人がいるため、改善することはしない。その方法を他国に売られて競争が過熱すると困るのだ。
だから壱心は他国で真似し辛い蚕の生育効率を上げる人工孵化法について広めていくことを優先する。この人工孵化という技法も非常に重要なものだ。現在はまだ催青(蚕の孵化前に孵化を促す処置)その物への理解、そしてその技法を用いるに当たっての温度や孵化後の化性を促す温度についての理解が不十分のため、十全に利用することが出来ない。しかし、それでも信州を代表として早良製糸場の近場では宮崎の祖母風穴を例に挙げ、説明することで年に一度の孵化を年に二度へと発展させることに成功している。
これを安定的に運用して結果を出せばこれらを真似て蚕の生育に温度管理を行う場所が増えるだろう。そうなれば研究が進み、この技術を十全に扱うことが出来る場所が生まれるはずだ。そうなれば後の世で行うような年間4~5回の生育が出来るようになる。
そこまで思考を進ませて壱心はふと我に返る。
(そうなって過剰生産になるとそれはそれでまた問題になるか……? いや、まだ目標水準が見えるところまで行っていない今の時点からそんなことを考えて足踏みしても仕方ない。少し考えすぎというものだな。これは、まぁ今のところ大体問題なしということでいいだろう。引き続き織戸に任せるか……)
たられば論にまで話が行っていることを自覚して戒める壱心。取り敢えず、この問題は異常なしとして最初の処理を済ませた。
製糸場はこの分なら初期投資分はすぐに取り返せるし、次のステージに進むための資本の蓄積も出来るだろうと楽観的な見通しが立っている。
(……尤も、楽観的な見通しが立ったせいでパトロンさんが色々と面倒なことに首を突っ込もうとしてるが……)
楽観的な未来を見ながら同時に面倒な未来を見る壱心。その面倒な未来というのが壱心のパトロンである釜惣の自滅フラグだ。
江戸時代の中期以降、博多の街で豪商として存在感を露わにしていた釜惣だが、史実では幕末以降業績が振るわなくなり始めて明治期には金融業に手を出して存在感を失っていくというのが彼らの辿る道筋だ。
この世界線での釜惣は幕末から壱心と組んでその存在を博多だけではなく九州、それどころか西日本に示そうとしている。
だからこそ、ここで釜惣は更なる発展を遂げようと考えて……G'=G+rの方式を求める。資本から更なる富を生む銀行業へと足を踏み入れようとしていたのだ。
(アメリカの銀行制度を導入する話を漏らすんじゃなかったな……いや、正確には瀬戸の先見を過信していた。それに……こちらもこんな話に乗るようじゃこれから先、大きな事業への投資に噛ませるには難があるという試験的な考えもあった……だから、これは必然と言えば必然だ……)
手元にある資料の外の情報に思いを馳せる壱心。この報告に問題なしと言える程壱心は楽観的にはなれなかった。近い将来、壱心たちは釜惣と道を別にすることになるだろう。
だがしかし、それは今すぐということではない。そうであるのならば火急の要件が迫っている今、考えることではない。
壱心は手元の資料に思考を戻した。そして思考は文字と数字の海の中に埋没していく。
「壱心様、そろそろ日が暮れます」
「ん……そうか。これを片付けたら戻るとするか……」
その日が終わる頃になって。
その日、最後に見ていたのは天候不順による不作が福岡を襲っている状況でどれだけ米の備蓄が出来ているかという資料だった。
(……ふむ。思ってたよりも順調に備蓄が進んでるな……それだけ屋稲が優秀だということか……田中といる時を見る限りでは変に空回りしてたが、自分で何とかしないといけないと追い込まれると力を発揮するタイプなのか? いや、結果さえ出してもらえればどうでもいい。この調子で頑張ってもらうか……)
屋稲が聞いていたら無責任だなんだと喧しく騒ぎそうだ。しかし少し強く押せばすぐに勢いを失い、理論で説得すれば折れてしまう。そんなすぐ目に浮かぶ光景を想起しながら今のところ後顧の憂いとなるものはないとして壱心はこの日の仕事を終え、次の大一番に備えるのだった。
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