武人として

 早良製糸場の試運転視察を終え、そろそろ残暑もその影を薄れさせていく季節。忙しい政務の合間を縫って壱心は城内の稽古場に来ていた。そこには既に幾人かの男たちが待ち受けている。

 彼らは壱心が現れたと見るとすぐに稽古場の入り口までやって来た。最初に口を開いたのは新政府陸軍中佐の古賀勝俊だ。彼は同じく、すぐに入り口まで移動した男の中から一名を前に出しつつ壱心に告げる。


「お待ちしておりました。こちらが旧幕軍の陸軍奉行、土方です」

「……土方歳三と申します。本日は、身共の勝手な約束の為、わざわざご足労頂き誠にありがとうございます」


 丁寧な口調の割に竹具足の上に殺意を纏う男はそう言って頭を下げた。しかし、その礼は武芸の礼。相手から目を逸らさずに頭だけを下げる礼だった。だが、それを受けた壱心は気にした様子もなく言う。


「福岡県知事の香月だ。今日からよろしく頼む」


 相手の殺気が大きくなった気がした。だがそれでいい。その方が好都合と壱心は笑う。それが更に相手の神経を逆撫でする行為であると知った上で、だ。


(さて……勧誘といくか。歴史を塗り替えるために)


 壱心がここに来た理由。それは目の前の殺意を纏った男を自陣営に引き込むためだった。



 さて、挨拶もそこそこに彼らは本題に入る。具足を着て相対していることから分かる通り、彼らはここに話をしに来た訳ではなかった。まずは土方から口を開く。


「……さっそくですが、本題に入らせていただきます。準備の方は問題なく?」

「あぁいいよ。時間もないことだ……始めさせてもらおう」


 土方の問いに壱心がそう答えると彼は肉食獣の笑みを以て返礼し、試合場を挟んで向こう人影へと移動し、手拭いを頭に巻く。そして慣れた手つきで赤紐を通した面を身に着け始めた。壱心は垂と胴を着けるところから始めるが、その手は慣れたもの。時間もかからない。


 程なくして両者は試合場の中心部で蹲踞そんきょした状態で対峙することになる。


「……さて、と。得物は互いに普通の竹刀。面を分捕った方が勝ちの打ち込み稽古でいいんだな?」

「あぁ……望むところだ」


 立ち上がりつつ壱心がルールを確認すると土方はそれに同意する。しばし沈黙が降り、完全に防備を固めた両者が竹刀を提げて対峙する。確認されたルールは殆どルール無用と言ってもいいもので、面が取れたら負け……つまり、首を落とされるような状況になったら負けというかなり実戦に近い形式だった。


(……まぁ野外の殺し合いよりマシか……刃引きされた真剣でもないし)


 新撰組式稽古でない分マシか。そう思いながら壱心はすでに目の前に立っている男を観察する。鋭い眼差しはこちらを射抜くかのようだ。


(こいつが、香月壱心……甲州勝沼、宇都宮、箱館……俺たちの願いを尽く妨げ、幕府を滅ぼした男……)


 対峙する土方も冷静に壱心の戦力を分析していた。蹲踞そんきょをした際にその戦力の一端を理解した。一切の動作が揺れていない強い体幹の持ち主だ。


(ここは一気攻勢に出る!)


「始め!」


 審判役を任された亜美の凛とした声が響く。同時に土方は動いていた。箱館戦争で受けた傷は既に癒えており、リハビリも済んでいる。動くというよりも最早飛ぶと言った動作に近しいそれは正に彼の全盛期に近しい一撃と言ってよかった。


 だが、それは不発に終わることになる。


 素晴らしい踏み込み。それは事前に挑発紛いの行動を取っていた壱心にとって殆ど予想通りと言ってよかった。

 土方の竹刀は横に払われ、逆に頭蓋を叩き割る気かと思う程の速度で切り返しが繰り出される。


(流石に力負けするか……!)


 しかし、土方も負けていない。その巨体に見合うだけの膂力りょりょくを持ち合わせていることを再認識した土方は今度は竹刀で距離を測りつつ間合いを取り機を窺い始めた。力だけで勝負は決まらない。仕切り直しだ。


 その矢先、彼の視界から相手の竹刀が消えた。すぐに視線を動かす。そこで見えたのは土方の竹刀の下を潜るように素早く動いている相手の剣先。視認した土方だが、視認とほぼ同時に右籠手に鋭い一撃が入っていた。


「ッ!」


 籠手が綺麗に入る。現代スポーツと化した剣道であれば見事な一本。だが、この幕末の世を生きた男たちの間ではただの牽制の一撃に過ぎない。しかし、この状態はマズい。先手を取られた。どう対応しようにも一手遅れてしまう。


(なればこそ前に出る!)


 だからこそ、土方は前に出た。そもそも当時では高身長である土方だが、それでも五尺五寸約167cm程度。六尺180cm以上の壱心とはリーチ差がある。そのため、先手を取られるのは想定済みだったのだ。それ以上にどうやって懐に入るかが問題で、懐に入ってからが本番だった。


 ……そして、それだからこそ。壱心は彼を懐に入れなかった。


(……あの時と同じだな。こうすれば勝てる。こうしないと勝てない……選択肢が絞られてるんだよ。悲しいが……)


 壱心の懐に入ろうとする土方の身体の前に竹刀の先を置く。それだけで土方は中に入れない。身体全てを動かさなければならない土方と竹刀と体の向きを動かせば事が済む壱心では動作開始から終了までの時間が……


 そんなことは聞いていない。


「破ァッ!」


 気勢の乗った一刀。竹刀でも真剣を思わせる鋭い一太刀。それは壱心を狙ったものではなく、竹刀を狙ったもの。思わず壱心は竹刀を揺らしてしまう。


 無理がどうした。道理がどうした。そんなものを考える暇があれば前に進む方法を考える。それが誠の旗の下に生きた男たち。無茶を通して道理を引っ込ませる。


「ァッ!」

「応ッ!」


 剣撃の嵐。近付かせずに相手の身を削る壱心の征圧圏。それを超えて土方の剣の範囲に、壱心が入った。逆に、壱心にとって最高火力の剣域から土方は抜け出したのだ。


(届いた! ここから……!)


 台風の目に入った土方に光明が。だが、台風の中心は自らすぐ傍に迫っていた。そして始まる鍔迫り合い。


(しまっ、何気ィ抜いてんだ! ここからが本番だって分かってただろうが!)


 当然、膂力で劣る土方がこのまま真向勝負で鍔迫り合いをやり合って勝てる見込みは薄い。特に、心身が乖離しているこの状況では受け流すことが非常に難しい。

 だから、彼は刀ではなく体を使った。狙うは壱心の足元。踏み抜くでも脚を掛けるでも何でもいい。相手の体勢を崩せば……体に染み込んだ滑らかな動作がそれを訴える。勝利を渇望する彼はそれに従い……地雷を踏み抜いた。


 浮いた足。瞬間、壱心の上体の力が増す。攻撃に移っていた脚は無理矢理防衛に引き戻され……それでも体勢は崩れている。


(あぁ、強ぇな。この人……)


 古賀が自信満々だった理由が分かる。一度でも負けを受け入れてしまった途端にゆっくりと動き始めた彼の思考がそう告げた。例え、彼の身体が戊辰戦争前の万全な状態であったとしても勝利するのは難しかっただろう。


(……尤も、まだ負けるつもりは微塵もないが!)


 強烈な一撃が土方の頭部を襲う。意識が軽く飛びそうになる。手拭いがずれ、面が揺れて緩んだ。赤紐も衝撃で結び目に異変が起きているだろう。だが、彼の赤紐は敗北の二文字だけは避けてくれた。


 負けていないのであれば……まだ戦えるなら、彼は立ち上がる。最後まで戦う。土方は優勢に移ったと見てもいいこの局面に入ってもいささかたりとも手を抜く気配のない壱心を見てどこか清々しい気分で再び戦いを挑む。



 かつて、彼らが武士憧れを目指して我武者羅に過ごしたあの日の様に。




「……どうだ? 我が主は素晴らしいだろう。仕えるに申し分なかろう?」


 試合終了後、疲労困憊となった土方の下に古賀がやって来て自信満々にそう告げた。小憎たらしい顔だ。しかし、今の土方にはどこか彼の気持ちもわかるため苦笑するしかない。


「……色々と言いたいことはある。が、負けは負けだ。約束は守る」

「ふむ。ならばよし……で、どうだった?」


 自分のこと以上に嬉しそうな古賀。土方は疲れた顔で応えた。


「……分かってる。お前の言いたいことはな……確かに、口だけではない武人だ。お前がこうも容易く命を賭けると言ったのも頷ける……」


 古賀の腹心となった八尋から渡された水を飲みながら土方は応える。彼が忠節を尽くした幕府、そして憧れだった武士という存在は形を変えて尚ここにある。既に土方が療養中の間にも新政府の重鎮たち、加えて箱館で同じ人影として共に戦った者たちからの説得も受けていた。そして、自分の新たな役目について説かれ、頭では理解していたのだ。


 それを今、感情でも受け入れた。彼の胸に巣食っていたわだかまりを切り払う。そんな一時を過ごした土方の言葉を聞いて古賀は満足げに頷く。


「よしよし、皆まで言う必要はなかろう……これからはよろしく頼む」

「あぁ……一人の男が命を賭けたんだ。それに応えなきゃ武士云々よりも男として問題がある」


 分かり合う漢二人。互いに前を向き、同じ景色を切り拓く……そんな決意をしていたところに声がかけられた。


「……古賀、ちょっと話がある」

「はっ! 何で……ありますか?」


 話はまとまったはず。だが、何故か猛烈に嫌な予感がした古賀。その理由は壱心とその後ろにいる八尋、それから亜美から具現化しそうな形で伝わってくる。


「さっきから少し気になる言葉が飛び交っていてな……八尋に聞いた。お前、俺に黙ってることがあるらしいな……」

「滅相もございません」


 言い切った。一切よどみのない言葉だ。だから、壱心の方から水を向けてやる。


「お前、この試合で賭け事をしていたらしいが……?」

「そうです。香月様の勝利によってこの土方が麾下に入り、私の同僚になるという賭けをしていました。それが何か?」


 素直に答える古賀。だが、それだけでは半分だ。賭け事には勝ちと負けがある。その両方の条件を壱心は聞きたかった。


「俺が負けたら?」

「負けるはずがないので私に出来る限り、何でも受け入れましたが……?」

「端的に」

「切腹ですな。それが何か?」


 本気でそれが何か? と思っているらしい古賀。壱心は持っていた竹刀を古賀に渡した。


「……お前は本ッ当に人の話を聞かんなぁ……久方振りに性根を叩き直すことにしよう。亜美、小太刀」

「どうぞ」


 亜美が壱心へ短い竹刀を渡す。それを見て古賀は喜び勇んだ。彼の身体は軍隊の訓練以外にも土方のリハビリと言う名の苦行に付き合った所為で土方以上に疲労が蓄積しているはずだがそんなことは関係ないようだ。


「稽古をつけてくれるのでありますか! これは僥倖ぎょうこう!」

「この馬鹿は……気が変わった。八尋、先にお話ししてやれ。その次が亜美で最後に俺だ」

「勝俊さん、悪く思わないでくださいね~? 上司命令ですから」

「畏まりました……全く、この馬鹿は。負わなくていいリスクを冒すのは蛮勇だと何度言えばいいのか……」


 色々思うところがあるのだろう。八尋は優しげな笑顔にどこか攻撃性を滲ませた状態で、亜美は木製の薙刀を手に取り演舞の様に振り回しながら素直に応じた。


「……よかろう! メインデッシュの前にはオードブr……? 何か違うな……まぁいい。主菜の前には前菜があるものだ! 全て平らげてやろう!」

「あはは~上手く言えてませんから……それじゃ~……行きますよ」


 優男の気配が急に冷徹に変わる。人が変わったかのようだ。


(……八尋とかいったか。あいつ、強かったんだな……)


 翻弄される古賀を見てそんなことを考える土方。自分と同等クラスの戦いぶりを見せる男が目の前の状態であるのならば八尋も相当だろう。

 そんなテンションが高い一行の武芸を見て土方は在りし日の試衛館を思い出す。それを思うと胸が締め付けられる思いがした。今から新政府の一員として、まして彼らを直接打ち負かした香月の麾下で働くとなればどう思われるだろうか。


 しかし、それは外に出すものではない。自分とて香月の同胞を殺しているのだ。自分だけが被害者など泣き言を言うのは彼……いや、彼らが誠の旗の下に目指したはずの武士として恥ずべき事。なれば、郷愁は胸に仕舞い、今はこの場に居る者と道を作り歩んでいく。それを決意し、彼は静かに目を閉じた。



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