早良製糸場

 早良製糸場に入って事務所で軽くスケジュール等の話し合いを終えた壱心たち。今からようやく製糸場の案内に入るとのことで、まず彼らが案内されたのは製糸場の動力、そして一部が煮繭しゃけんに使われた蒸気釜所だった。


(夏に入るところではないな……)


 入っておいていきなりだが、あまりの熱気と湿度に壱心はすぐに出たくなった。更に鼻が利く咲には別の問題も襲い掛かる。煮繭場の独特なにおいが彼女を襲ったのだ。これにはたまらず咲も一瞬、表情を歪めてしまう。

 この場の説明は既に視察時点で受けているものであるためそんなに詳しいところは見なくてもいいだろう。そう考えた壱心は早いところ次の場所に移動するように促す。これ以上暑い場所に行くのはもう勘弁願いたかったので火炉かろ輻射ふくしゃ熱を利用して乾繭かんけんを行っている燥繭そうけん所も省略することになったが、この場にいる誰もそれに反対はしなかった。


 次に一行が向かったのが東西にある二階建ての倉庫の内、東側に建つ東繭倉庫。一階に製糸場の動力源である石炭、そして二階に大事な繭が置かれている場所だ。


「こちらが東繭倉庫になります。西側倉庫と合わせて実に20トンもの繭を保管することが可能でして……」


(……その話も前に聞いてるよ)


 木軸の一輪車を使っての石炭の運び出しの様子を軽く見ながら壱心は内心でそう呟いた。先程から文句ばかりの壱心だが、多忙である彼にとって無駄な時間はなるべく減らしたいというのが実情だ。この場の説明は特に要らない。早いところ繰糸所に行きたいと思いながらその方向を見る。すると何故か咲と目が合った。


「どうした?」

「いえ、繰糸所の方が何やら騒がしいようです……」

「ん……?」


 目が合った咲から言われてみて壱心は初めて気が付く。喧騒と言っても小さい物だった。だが、それでも壱心が気付かないのは珍しい。工場の稼働音等で騒がしいことを差し引いても、だ。

 ただ、一つ言い訳をするのであれば壱心の計画の中でもこの製糸場はかなり重要であることから気が逸るのも仕方のないこと。そのため、細やかな集中に欠けるのはさもありなんというところであった。


 ただ、気付いたのであれば話は別だ。気付いたことをそのまま案内している織戸に告げる。すると、彼は目に見えて狼狽え始めた。


「え、えぇとですね……その……少々、揚返あげかえしで問題が発生しているとのことでして……」

「……何故、黙っていた?」


 壱心の重圧を向けられた織戸はすぐに重い口を開く。どうやら繰糸所でトラブルが起きていたらしい。当然、壱心の目が険しくなり、口調も鋭くなった。

 問題が起きた揚返しは小枠に巻き取った生糸を大枠に巻き直す作業であり、これまでの座繰製糸ではあまり見られない重労働だ。そのため、習熟をかけられず不安要素に上がっていた点である。その旨は重々伝えてあったはず……


 だが今はその工程に対する壱心の不安どころではない恐怖が織戸を襲っていた。


「す、すぐに動くと思いますので、あの、すぐに案内……」

「それが問題じゃあないんだが? 問題が発生したのになぜ黙っていたのか。それが問題なんだ。織戸、何か弁明があるか?」


 壱心のまっすぐな質問に織戸は返答に窮す。ちょうどその時、彼を助けるかの様に繰糸所の方から人が走ってやって来た。

 一同が慌ただしい訪問客を睨むが、彼はおどおどしながら入室し、壱心の許可を得て織戸に何かを伝える。それを聞いた織戸の顔はまさに九死に一生を得たというべき色をしていた。


「壱心様、ちょうど再開したようです。本当に、本当に些細な問題だったので報告する間に直る程度と判断いたしまして、その……」


 織戸の態度と言い淀む辺りに言いたいことが出て来る壱心。しかし、あまり追い詰め過ぎると逆に次回発生時に問題が発生してしまいかねない。壱心はここら辺で緩めておくことにした。


「……以後は気を付けるように」

「はっ! 畏まりました!」


(本当に分かってるんだろうな……?)


 訝しむ壱心だが、何も言わずに繰糸所に案内される。その後は取り立てて言う程の問題は発生せず、順調に試運転を終えることが出来た。




 そして一行は事務所へと戻り談話を始めた。ボイラーの熱気から解放された一行だが今度は談話という名の商戦に身を投じ、今度は彼らが熱量を生むことになる。 特に、壱心と交流のある英国商人の息がかかっている目の前の男は正に英国紳士・・・・と言える存在だった。


(三枚舌を相手によく頑張ってるな、利三の奴……)


 そんなビジネスマンを相手に利三はのらりくらりと明言を避けて言質を取られないようにやり過ごしている。


(……リリアンを紹介してから凄まじいやる気に満ち溢れてるなこいつ……尤も、保護者としてはその場で済ませた宇美と初対面の挨拶でリリアンと宇美を天秤にかけた奴には簡単に任せられんが……)


 利三のやる気を見ながらのんびりとそんな感想を抱く壱心。利三は隠し通したつもりだろうが、勘の鋭い者……つまり、あの場にいた全員が彼の思惑を何となく察していた。即ち、リリアンと宇美の両名を娶りたいという利三の願望を。


(まぁ頑張れ……)


 そんなごく個人的な考えについては放置して壱心はこの早良製糸場の現状と未来について思いを馳せる。


 思いを馳せるといっても現状の分はまだ動いていないため情報は殆どない。そのため、近い将来について参考にするのは史実の富岡製糸場だ。この時間軸においてはこの早良製糸場とほぼ同時期に創立した富岡製糸場。それは幕末期に粗製絹糸を濫造してしまった結果、地に落ちたこの国の製糸業の信頼を取り戻すべく作られ、製糸業の根幹となる技術を育てることを主として作られた場所。史実通りにいけばその二つの目的を果たすことに集中すべく利に疎い者たちが運営したため、大した儲けは出ない。

 また、この時期は異国人への恐怖から人員募集を賭けても人が集まらないという状況が待受けている。これがこの国が行った大規模誘致の結果だった。富岡製糸場の運営が国である間は様々な要因があるとはいえ、散々な結果なのだ。

 しかし、それでも国営であるため赤字運営を続けたとしても国益に適う範囲での多少の損失は許される。富岡製糸場の本来の目的は失われてしまった産業の信頼を回復するための技術育成なのだ。それを達成しているためあまり財政負担がかかり過ぎない範囲で操業は続けられる。そしてその損失はどこか一点に集中する事も無いため、ある意味では気楽なものだ。当然、担当者たちは大変な思いで動いただろうがそれで直接、個人の懐が痛むわけでもない。

 史実通りであればこのような形になるだろう。そして最低限の目的を果たした後は利益を求めて彼の地は民間へと払い下げられ、技術発展を続けて利益を上げるようになる……


 そこまでが、彼の思考の土台となる。だが、この早良製糸場はそう悠長なことは言っていられない。確かに、壱心の手によって動いたため合法的な範囲で県からの最大限の補助や国による援助が出ているが、基本は民営。損害は直接壱心、そして利三に降りかかる。壱心としてはここで儲けを出した上で次の工程……工業の健全な発展でいう重工業を始める予定のため、投資した以上の金額を出さなければこの後の行動が阻害されるのだ。


(そのために、まずは品質維持。富岡とは違って人の入れ替えは出来る限り行わずに習熟をかける……)


 今後の早良製糸場の運営方針の内、短期計画について思案する壱心。現在は欧州の蚕が病に侵され絹の数量が激減しており市場が劣悪化している。この国の製糸業が入り込む余地は幾らでもあった。ただ、その余地に甘んじて幕末期に先人たちが粗悪品を投げ入れ続けたことが現在の市場に対する日本の評価に影響していた。


 その改善は急務であり、その部分に関しては富岡製糸場と状況は同じだ。


(ブランドまで行かなくともこの工場単位……いや、この会社に対する信用を生み出す。それが第一で、基礎だ。その次に利益を組み込んだ生産力の向上。こっちはあまり手の内を晒したくないが……)


 初期の短期計画が終わり次第待ち受ける次の計画を脳裏に浮かべる壱心。その際に障害となるのが目の前で利三とやり合っている外国人技師たち。彼らの内の一人と目が合ったのを見て壱心は内心と真逆の声をかけつつ冷たい考えを胸に宿す。


(この国での仕事が終わり次第、奴らは別の国でも自分たちの技術を売る……その際にここであまりいい機能を見せていると競争力に難が出る。だからといってこの国を、この国の人々を侮られても困るが……)


 ある程度の設備的な発展はさせつつも器械で収まる範囲の発展を遂げる。これが今のところの目標。その後、彼らが居なくなるかこの地に腰を据えると決めてから繭を見る目を養った熟練工たちの職場、選繭せんけん場にベルトコンベアの導入から初めて行きたいと壱心は考えている。


(とはいえ、まだ机上の空論……焦らず、一歩一歩だな……)


 そんなに簡単に計画通りに行くはずがないのは重々承知している。しかし、この工場や商戦の熱気に負けない熱気を胸に壱心はこの日の見学を終えるのだった。



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