明治初期の福岡

県の胎動

 福岡藩が福岡県へと変わった、1871年。その夏真っ盛りの時期に長崎から肥前国の唐津を経由し、博多への道となる唐津街道を行く一つの馬車があった。

 御者の他にそれに乗る者は男女一組のみ。身の丈六尺三寸はありそうな筋骨隆々の男と見る者を虜にする嫋やかな美女。一見して二人の仲を探るのであれば恋仲に見える彼と彼女。だが、その内実は異なっていた。


 彼こそは幕末に暗躍を続け、明治維新の最中においては数々の暗殺を防ぎ、戊辰戦争においては磐城、箱館戦争の一連の戦いで謀略や調略で活躍。また、それらの活動の最中に知り合った明治の重役相手に富国強兵のために数々の提案をすることで福岡藩を雄藩へと伸し上げ、自身も県令へとのし上がった香月壱心。

 そして、嫋やかな美女こそがその男の懐刀の一人。京の裏で暗躍する隠密集団の長でありながら英・仏・独語を操り、時としては短銃、そして己の身体を文字通りの武器として操る美女、香西 咲だった。


 さて、そんな彼らだが後世には幾つかの名で呼ばれることになる。裏で暗躍するのを主とする咲には二つ名しかないが、戊辰戦争で大々的に活躍してしまった壱心は幾つもの名がつけられるのだ。

 既に戊辰戦争や帝国陸軍の創始者とも呼ばれる大村益次郎に口出しして軍制改革を行ったことで後世にまで残る名が生まれつつある彼だが、この時期にも別の名がつけられようとしていた。


 それが、三殖公。


 この名が使われるようになってからは表向きには生まれたばかりの福岡県という存在のショク……(紡)織と(就)職と(美)食を育んだ者として使われることになるその名。

 名の由来としては漢字のしょくに育てる、増やす、伸びるという意味があることからこの当て字が好んで使われた。また、壱心のことが気に入らない者は殖の字の音、直の方にまっすぐに伸びた硬直死体の意味が込められていることから旧体制の藩士の死体の上に立つ不忠者として嘲りの意味を忍ばせて使うという後ろ暗い使用もあるが、それはあくまで一部の者たちの使用例だ。

 基本的には三ショクを歓迎した民衆が当て字で使用した三殖公。ただ、正確にはそれらに加えてもう一つ、ショクが重なることで壱心は後世に名を遺す。その前段として、三殖公の名が有名になったのだが……それは、現時点では置いておくことにする。


 これから始まるのは壱心を好意的に捉えた意味での三殖公の改革の一つ、紡織の話だ。




「見えてきましたね……」


 時は1871年、場所は福岡の地に戻る。


 咲は彼女たちを乗せた馬車より外を見上げて呟いていた。それに反応して壱心も顔を上げる。眼前には日本建築に西欧文化が混ざった木骨レンガの建物が見えようとしていた。新築の赤レンガは少し前まで純日本の風景を醸し出していたのどかな街並みに強い存在感を示しており、遠くからでも目立っている。

 そんな西洋建築の侵略地である目的地、早良さわらと呼ばれる地域。その地は皮肉にも鎌倉時代には異国の襲撃元寇に対応すべく海岸に防塁が築かれた地だった。

 場所は福岡城より西に広がる下級武士の城下町より少しだけ西に行ったところ。壱心が利三に命じて研究所を作らせた西新より少しだけ西側にある場所だ。通常の歴史では唐津街道の宿場及び港町として栄えているはずのその町を利用した。


 かの場所にそびえ立つ建物。その名は早良製糸場。史実に存在しなかったが、壱心の手によって造り替えられた歴史では富岡製糸場に並ぶことになる日本初期の本格的な器械製糸場だった。





 唐津街道から脇道に逸れ、室見川に沿って移動することしばし。唐津街道から既に見えていた大きな建造物の入り口で彼らは馬車を降りた。

 出迎えるのは壱心により指定商人に任じられ、政商となった弟の利三。そして、この工場の運営を任せるために壱心から熱心な教育を受け続けていた織戸長久。

 それからこの工場を作るに当たっての責任者である井上という男に中央から来ていた役人たちが数名とイギリス人技師のコーディという男だった。


「お待ちしておりました。ささ、どうぞ中へ」

「あぁ」


 織戸の案内を受けて中に入る壱心と咲。出迎えの挨拶に幾名も人が出て来たが、壱心は特に気にせずに前に進む。今回の彼らの目的はここの人間との顔合わせではないからだ。それは既にこの箱ものの棟上げ時に済ませている。

 今回、彼らが早良製糸場に来た理由はただの視察ではなく設備完成にあたっての試運転の見学だった。


 冒頭に述べた通り今は1871年の夏。史実で言うのであればまだ富岡製糸場も未完であるこの時期に早良製糸場は既に試運転を開始しようとしている。

 しかし、この時間軸においてそれはそこまで凄いことではない。既に富岡製糸場は完成を終えて操業を開始しているからだ。福岡藩の介入によって国内の安定化が早期に実現したことで様々な工程が早まっている。


 では、この早良製糸場は何が凄いのか? この時代にしては最新式の設備である事。それは勿論だが……もし、後の世で受験勉強をすることになれば富岡製糸場との違いで確実に出て来ることになる点。


 明治初期の日本における最大の民営製糸場。


 それがこの早良製糸場の特徴だった。まだ県が藩だった時代に壱心が大村の仲介によって知り合った木戸との密約で実現した巨大な製糸場の私的保有。

 当然ながら日本という大きな枠組みで見ても運営が難しく、国家が雇う外国人の技術を借りる巨大製糸場の単独運営を個人に渡すということは容易に認可が下りるものではない。正確に言うのであれば現時点において壱心に早良製糸場の私的保有が認められているというわけではない。現在は半官半民というところだ。

 名実ともに完全な私的保有が認められるようになるのはこれから二年後の1873年のこと。これはこの早良製糸場を私有するにあたって交わした密約上最大の条件であるお雇い外国人の年俸一部負担義務の内、ブリューナが率いるフランス人技師団年俸の負担義務が完了する年だ。

 ブリューナの雇用条件は史実とは少し異なるが、額面上は概ね史実に近い条件で明治政府に雇われており、1875年まで月給六百円と毎年千八百円の賞与が出る予定だ。その一部を壱心が引き受け、完済する事を以て私的保有の条件としたのだ。


 だが、ここで待ったの声がかかる。ブリューナら技師団の本来の雇用期間は1875年。しかし、1873年には技師団への年俸の支払いは終了し、早良製糸場の経営権が壱心に渡っている。これはどういうことなのかということだ。

 これには壱心が幕末期より密貿易を行っていた英国商人の介入があった。彼らの早期退任は明治政府の予定にはなく、壱心たち福岡藩の中で話が着けられたのだ。 ブリューナ個人に対して年間で約九千円。その他にも技師たちがいて、彼らにも月給の他、別途慰労金が必要となる。そんなものまともに払っていられなかったのだ。これが大金なのはこの時間軸で彼を雇うと決定した1869年の通常歳入の合計が約四百七十万円だったことを踏まえるとマクロ的には見えてくるだろう。

 また、ミクロとしては個人の俸給から考えるとして、当時の一般的な日本人職工の年俸が七十四円。県令のみの収入にはなるが、明治の元勲に当たる壱心の月給が三百円だったことを踏まえると一個人へ支払う年俸が約九千円は莫大な金額だったことが分かる。


 財政的に苦しい明治政府は出来る限り歳出を減らしたい。ただでさえ、国内の士族に対する支払も頭を抱えている状態なのだ。その上、技師団にまで莫大な金額を支払うとなると不満が募るのは当たり前。彼らの運動の中心となったのは尊王攘夷派で日本を外国に取られまいとして立ち上がった人々なのだから。

 だが、そんな分かり切ったことに目を瞑ってでもこの国は今、殖産興業に全力を注ぎこまなければならない。今、投資しなければ後はない。そんな大事な場面で吝嗇し、安かろう悪かろうをされるのが一番困るのだ。苦しい国内情勢に外資を匂わせてくる場面もあったがそれを拒否して明治政府はこの莫大な支払いを必要経費として受け入れた。

 しかし、ない袖は振れない。史実以上に味方がいたということは史実以上に支払う対象が増えたということだ。明治政府のこの時点での財政は史実よりも苦しい。

 そこで、明治政府の重鎮、木戸は一部の権益を福岡藩……引いては香月家に売り飛ばすことで多少の金額を賄う手に出たのだ。


 戊辰戦争の軍需で消毒液や密貿易で手に入れた銃火器などで濡れ手に粟状態だった香月一派。加えて、戊辰戦争の活躍として福岡に支払った報奨金を政府重鎮側は痛いほど知っている。

 最後に、壱心個人の力が強過ぎる現状を警戒して探りを入れつつ金銭面で大きく削りにも来たという事情も含まれていた。


 そして、壱心はこの話を受け入れた。軽い話ではない。彼とその弟の資産の四分の三以上を費やし、県令として逸脱しない範囲での権力を最大限に利用してやっと受け入れられるか半々という話だ。

 木戸から細々とした条件を有利不利を混ぜて幾つもつけ、壱心側からも交渉したが木戸率いる新政府側からすれば製糸場運営費の外に福岡にブリューナが移動した後の給与の半分も持ってくれるという話であれば多少は譲歩する予定だった。

 そしてこの協議は成立した。


 そして完成した早良製糸場。机上の条件だけでなく、実地としても富岡製糸場と同様に問題なかった。壱心が幕末の暗躍の裏で釜惣と共にあくせく育て続けた養蚕地帯。少し行けば唐津街道があるという交通の便の良さ。

 室見川という水源に水運。横型単気筒蒸気機関ブリューナエンジンボイラーの動力源となる石炭も近くにある早良炭鉱……もっと言うのであれば北九州という日本最大級の石炭宝庫地帯である近隣の炭鉱から幾らでも持って来れる。

 そして最後の難問である異国人が宿泊するという問題もこの地の近くには唐人町という名の通り、古来は外国との交流が盛んだった土地であるため、他の土地よりも抵抗は少なかった。

 尤も、この最後の問題に関しては技術を吸い取ってしまえば……もっと言うのであれば、器械製糸場を作っても不思議ではないという口実さえ手に入れてしまえば用済みとなるブリューナは追放する計画だったため、その辺を巧みに仄めかすことで理解してもらったという黒い話もあるが。

 加えて、フランス人技師団を追い出し、この交易戦争の勝者と見られた英国商人も1874年の東インド会社の完全な解散に伴い事業撤退する。そこまで織り込んだ上での話。早い話が壱心の一人勝ちだ。



 

 さて、話が逸れに逸れてしまったが、早良製糸場に視点は戻る。一通りの工程と設備が稼働する様を見学しつつ、再び説明を受ける工場見学会が今まさに始まろうとしていた。

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