初対面の挨拶
「さて、リリィ。唐人町……正確に言うならもう少しだけ先の早良だが、その方面で外国人技師を連れて来るという条件を飲ませた。これで次のステップに移れる」
ある晴れた日の事。福岡に貸借されている自分の館にフランス人の技師を連れて戻って来ていた壱心は彼の娘のような存在であるリリアンと話をしていた。
「……つまり、あの日が来たということですね?」
頭の回転が速いリリアンは即座に壱心が言いたいことを理解してそう返す。壱心もリリアンが理解していると判断して頷いた。
「そうだ……お前のことを組織内の限られた範囲にのみだが明るみに出す。今日の時点では10人ほど。まずは、初代の引退に伴い交代で入る宇美からだな……そこで様子を見た後に範囲を拡大する」
「わかりました! すぐに準備します! 宇美さ……」
待ちに待っていたその日。壱心の言葉を受けたリリアンは喜び勇んでおめかしを開始……しようとして同時に彼女の変装を手伝ってくれていた存在がこの日、退任してしまうことを思い出した。
(I messed up! 心配させないようにもう頼らないと言ったばかりなのに……)
言った傍から失敗してしまったリリアンは極まり悪そうに宇美の方を見る。だが彼女はいつも通りだった。逆にリリアンの方が慌ててしまい、ほぼ何も考えずに強引な話題転換を行ってしまった。
「あ、あの……これからは、小梅さんの方がいいんですか……?」
「そうですね。後任の宇美と混ざるとややこしいので。それから……そんなに気を遣わなくていいですよ。今生の別れという訳ではないですから」
彼女はリリアンの慌てようは気にした素振りを見せなかった。だが、最後の文言の辺りで宇美……いや、もうすぐ小梅に戻る女性は少しだけ壱心の方を見た。
視線の先にいる壱心は既に家の近くに迫っている気配に気を取られており、特にこちらに注意はしていなかった。しかし、視線を感じてすぐに目の前に意識を戻していた。それを真っ向から見て小梅の頭に不安が過る。
(……今生の別れでないはず、ですよね?)
内心で問いかけつつ壱心の視線から彼の思考を伺い知ろうとする小梅。彼女には下手をすれば機密保持のために壱心に殺されるのではないかという恐れがあった。
確かに、壱心であればやりかねない。また彼にその気がなくとも彼の意図を勝手に酌んだ者たちが襲い来る可能性も非常に高い。ただ、今回ばかりはそれを気にしなくてもいいはずだった。
彼女は色々と考えた結果、元御剣隊副隊長である八尋と婚姻を結ぶことにしたのだ。別に保身の為だけではない。確かに、その考えが最初から皆無だったとは言えない。だが寧ろ、婚約者が壱心と繋がっていれば口封じに監禁されて殺されても口裏合わせが容易いというデメリットも考えている。
それでも彼女は八尋を選んだのだ。
優し気な顔立ちの八尋は実際に九州男児、まして武家で前線を張った男とは思えない程優しい気性をしており、その顔立ちも宇美の好みだ。
また、将来性も非常に有望で戊辰戦争の功績で既に陸軍の要職に就任。今や前線勤務もない高給取りになっている。
何より、彼女の身の上を知った上で堂々とあの壱心を相手に小梅を貰うと言ってのけた。ただ優しいだけではない強い男だったこと。そしてこの婚約に至るまでの言動、所作から滲み出る人柄が好きだった。
尤も、そんな本人は陸軍中佐に赴任した古賀の参謀役として非常に多くの調整を行い時々壱心の命令も加わって多忙を極めているため大事なお嫁さんを迎えに福岡に戻って来ることすら難しい状態だったが。
話が逸れ過ぎてしまったが、今はリリアンの情報を公開すると決めてから初めてのお披露目の日。その最初の相手となる後任の宇美と会うためにリリアンのおめかしが始まった。
「初めまして。綾と申します。これから宇美として一層の努力を重ねていきたいと思いますので末永くよろしくお願いします」
「リリアンです。これから色々とご迷惑をおかけすることがあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
初対面同士の挨拶。片や西洋人形のような煌びやかな金髪と海を思わせる碧眼を持つ美しい少女。片や日本人形のような愛らしい顔立ちで艶やかな黒髪とボルダーオパールを思わせる茶褐色の目を持つ可愛らしい少女。
ファーストコンタクトは互いに珍しいものを見る目だった。
(咲さんの妹とか……?)
リリアンの頭を過ったのは彼女が知る限りの中で最も美しい女性。しかし、彼女の持つ美とは系統が違う。
(……まぁいっか! 仲良くできるかなぁ……)
しかし、彼女は見た目で判断される最大級の被害に遭っていたためその辺で思考を打ち切った。互いに色々思うところはあっただろうが、それを面に出すことなく彼女たちはその場にいる大人たちへと視線を向ける。その後は両者と既に顔を合わせていた壱心かもしくは宇美が話をリードする。そう思っていたからだ。
だが、事はそう運ばないようだ。屋外に何者かの気配が多数ある。それが分からない者はこの場にいなかった。
最初に動いたのはこの家の主、壱心だった。何だか難しい顔で玄関の方向を見たかと思うと軽く溜息をついて体勢を入れ替えつつ口を開く。
「宇美……いや、小梅。まだ後任への引継ぎが済んでない以上、手間をかけさせて悪いが……」
「承知しております……二人は私たちが応対している間に世間話でもしていてください。では」
頼れる大人二人は実にぞんざいな感じでその場を後にした。残された少女二人は顔を見合わせる。しばしの間。
「……いつもあんなに忙しそうなんですか?」
「え、うん」
先に口を開いたのは綾。どうやら彼女は活発なタイプらしい。初対面のリリアンを相手にして全く気後れすることなく矢継ぎ早に質問して来た。
「へ~……偉い人ってなんかもっと楽してるかと思ってたなぁ」
綾の呟き、それは一般的な立場に置かれた人の視点での素直な感想だった。
戊辰戦争が終結し、幕末の動乱には一区切りがついた日本列島。だが、統治者になった男たちにとってはこれからがスタートだった。
国内ではインフレ、旧幕派の蠢動、富国強兵のための改革、治安維持、体制一新後のあれこれ……
海外では為替問題、貿易問題、外交、不平等条約、国土・領海の維持と周辺国との境界の明確化。
これらの課題に対しての前政権の対処が不満だったからこそ彼らは立ち上がったのだ。従って、これらの納得いく解決を自分たちで行わなければならない。それは壱心も同様だった。
「毎日毎日かぁ……大変そうだな~……亜美さんの修業が厳しかったからこっちに飛びついたけど早まったかなぁ……」
しかし、その役の一端を担うという綾は嫌そうな顔をしていた。彼女はそんなにやる気がある存在ではないのだ。
ただ戦渦の最中で襲われそうになっていたところを亜美に拾われただけの少女。しかも、亜美が彼女を拾った理由は綺麗な骨格をしているから鍛えれば伸びそうというなんとも言えないもの。志など見ていない。強いて言うのであれば身体以外には極限の状態に置かれながら状況を判断するために足掻き、非常に優れたその視力を活かせた対応力を見た程度か。
ただ、亜美が彼女を選んだ理由は何より、絶望的な状況にありながら助かることが出来るだけの運を持ち合わせていたということだったりする。
当然、鍛えるために拾って来られた綾は亜美から鍛えに鍛えられた。その内容は部隊に自分基準の無慈悲な特殊訓練をつけていることから鬼人と呼ばれている古賀をして年頃の少女相手にこれはないんじゃないかと思わせるようなもの。
亜美には加減がよくわからないのだ。
しかも綾と改名された少女には幸か不幸か才能があった。それが厳しさに拍車をかけ、綾に一刻も早くこの場から去らねばならぬと決意させる理由となった。
(でもまぁ、毎日毎日キツくなっていく修行はないだけマシだよね。亜美さんにはこっちに移ってからは鈍ることがないように鍛えればいいって言われたし!)
前向きに考える綾。しかし、修行がないとしても別件でキツくなるのも嫌だ。綾は楽できそうな逃げ場を探す……が、時間が来たようだ。先任の宇美である小梅と壱心が戻ってくる気配がしている。それは目の前の少女も感じ取ったようだ。
「あ、戻って来るね……あれ、どうしたの?」
これから情報を聞き出そうとしていたのに残念だ。そう思いつつも顔に出さない綾に対して何故かリリアンの方が微妙に分かる程度に嫌そうな顔をしていた。それでも可愛いのだからズルいと思うが、今はさておく。
「……人が、増えてるから」
「え……? 人……あぁ、確かに何か一人増えて戻って来てるね~? それがどうかしたの?」
「内緒だよ?」
問いかけてくる綾に念を押す形でリリアンはそう告げる。あまり人の悪口を言いふらしたくはないが、どの道この家に住むことになるのだから今から知っておいた方がいいだろうという判断だ。
対する綾は何やらいい話が聞けそうだと内心で喜色を浮かべながら頷く。それを見届けてリリアンは言った。
「多分、気配からして利三っていう人で、壱心様の弟さんなんだけど……私、あの人ちょっと苦手なの……」
壱心にについて対外的な呼び方をしながらひそひそと告げるリリアン。綾は即座に反応した。
「え~! そうなんだ、何々? どんな人なの?」
「……何か、私の髪の毛拾って持って帰ったり、用もないのに家に来て色々探ろうとしてくるの。綾さんも気を付けた方がいいよ」
利三の過去の悪事がいとも容易く暴露された。ただ単にリリアンがここにいるのかどうかを確かめたかったなどという言い訳は通用しない。まだ会ってもいない綾から利三はドン引きされてしまう。
「何でそんなことするんだろ……? 確かに気を付けた方がいいかも~」
「そうしよ!」
かくして少女たちの簡単な自己紹介と挨拶は終了した。だがこの日、彼女たちを待ち受けている挨拶はこれが本番ではなかった。今からこの場に通される利三。
彼との挨拶が本番で、そして利三の人生もここからが本番を迎えることになる。
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